元総理からの依頼
「よう来たな」
玄関を開けた元総理の楢崎晋一郎は、昔と変わらぬ調子で笑った。官邸を出て半年――肩書きが外れた途端、顔から硬さが抜けている。
三浦義明は靴を脱ぎながら、その変化を見てしまった自分に少し苦笑した。
「総理じゃなくて、もう“晋ちゃん”でいいだろ」
「やめろ。こっちは現役の新聞記者だぞ」
「なんだよ、相変わらず固いな」
「お前が軽いんだ。お前のひと言で、明日の一面が変わるかもしれんのに」
二人は目を合わせて笑った。学生の頃からの癖だ。真面目な話の前に、まず軽口を一発。空気をゆるめないと、喉が動かない。
客間に通されると、楢崎はいつものように勝手知ったる手つきでグラスを用意した。テーブルには紙の束が置かれている。背表紙もない、薄いファイル。
「仕事の話か」
「当たり前だ」
「俺を呼ぶ時点で、ろくな内容じゃないな」
楢崎は笑ったまま、グラスを置き、声を少し落とした。
「――レッドバレット、って聞いたことあるか?」
その瞬間、三浦の口角が止まった。知らない言葉なのに、耳の奥が妙にひりつく。
「映画か何かのタイトルみたいだな」
「だったらよかったんだがな」
楢崎がファイルを滑らせて寄こした。表紙の片隅に、機密指定を示す印が押してある。三浦は反射的に息を飲んだ。
「……これ、俺に見せていいのか?」
「公にはできん。だが――お前になら」
三浦はファイルを開きかけ、そこで手を止めた。
「取材って形で探ればいいのか?」
「そうだ。お前、来月からワシントン支局長になるだろ」
「話が早いな」
「向こうの大統領選の裏に、やつらの影がある」
三浦は、わざと笑ってみせた。
「まるでスパイ映画だ」
「映画なら、観終わったあとに席を立てる。現実はそうはいかん」
楢崎の目が、笑っていない。
その目だけが、官邸にいた頃のままだった。
「俺はな、日本も飲み込まれかけてると思ってる」
「飲み込まれるって、何にだ」
「力だよ。金と情報と、恐怖の力」
楢崎は指でファイルを叩いた。
「レッドバレットは“組織”だ。名前だけが浮いてる。実体が見えない」
「陰謀論でよくあるやつだ」
「陰謀論で済むならいいんだが」
三浦は一度だけ視線を落として、言った。
「俺に何をしろって?」
「お前のやり方でいい。記事にできるところまで行け」
「つまり、裏取りして、形にして――」
「そうだ。お前は“書ける”。俺が持ってるのは臭いだけだ」
楢崎はふっと息を吐いた。
「俺たち、学生の頃に世界を変えるって話ばかりしてただろ」
「そんな青臭いこと、まだ言ってるのか」
「今が、その時かもしれん」
言葉は軽いのに、落ちる音が重い。
三浦は、笑い返せなかった。
帰り道、車窓に自分の顔が映った。
大学の頃の、何でも信じられた顔とは違う。仕事を続けるうちに、疑う筋肉だけが鍛えられた。
――まさか晋ちゃんから、こんな依頼を受けるとはな。
手の中のファイルが、やけに冷たかった。
3日後、成田のロビー。支局のスタッフと合流すると、何度も同じ言葉をかけられた。
「ワシントン支局長、ようこそ」
「……どうも」
そのたびに背中がむず痒い。祝福されればされるほど、胸の奥が落ち着かない。
表向きは“取材”だ。大統領選を追う。
だが本当は――友の言葉の裏を追う旅だ。
機体が上昇し、窓の外に雲が流れた。
――レッドバレット。いったい何者なんだ。
ワシントンに着いてからの数日は、目まぐるしかった。
大統領選の空気は熱い。現職が勝つか、前の大統領が返り咲くか。どちらでも世界は揺れる。支持者の声はどこまでも大きく、反対派の怒りはどこまでも尖っている。
「支局長、タロット前大統領の集会、また荒れてます」
「映像は?」
「出てます。本人は例の“秘密組織”の話を繰り返してます」
“秘密組織”。
その言葉が出た瞬間、三浦の脳裏に楢崎の声が重なった。
――レッドバレット。
タロット前大統領は、世界の混乱の主因がその組織だと指摘し続けている。陰謀論者と笑われながらも、矛先を引かない。
前回の選挙では、ハッキングで票が操作された、と本人は主張した。僅差で敗北し、後を継いだ大統領は政治の見識が浅い――そんな評価が飛び交い、その隙を突くように世界各地で小さな戦争が増え始めた、という見方もある。軍産複合体が息を吹き返し、諜報機関の人事まで握られた、という噂も絶えない。
噂。推測。憶測。
三浦がいちばん嫌う材料ばかりだ。
三浦は調べた。
米国にも、確かに“レッドバレットらしき組織”について書かれた本はある。だがどれも通り一遍で、輪郭をなぞっているだけだ。足元を崩す証拠は、どこにもない。
行き詰まったまま、公文書館に足を運んだ。
紙の匂いと空調の乾いた冷気。人の気配が薄く、時間の感覚が鈍る場所だ。
休憩所で椅子に沈み、目を閉じかけた時――
「日本の方ですか」
たどたどしい日本語が耳に届いた。
顔を上げると、がたいの良い老人が立っていた。東洋的な輪郭だが、目の奥がどこか遠い。杖をついている。
「……そうですが」
「少し話をしても、よろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
三浦は空いた席を示した。老人はゆっくり腰を下ろし、間を置いてから語り出した。
「日本の勉強をしていて、日本の方を見るとつい声をかけたくなってしまうんです。ご容赦ください。」
「いえ構いませんよ。」
「実は私は、ホピという一族の……生き残りなのです」
「ホピ……?」
「父は昔から伝えられてきた予言に、原爆の存在と、その未来が記されていると知り、国連にメッセージを届けました」
老人は言葉を選ぶように、一文一文、丁寧に口にした。
「『もし空から、灰がぎっしり詰まったヒョウタンが落ちてきたら――
秘密にされていた教えや予言を公表しなければならない。
そのヒョウタンは川を沸騰させ、不治の病を作り、地面に草さえ生えなくする』」
三浦は黙って聞いた。
老人の声は小さいのに、言葉が重い。
「私たちの住む地には、核兵器の原料であるウランが大量に眠っていました。政府は長老たちの警告を聞かずに掘り起こし――そのウランが使われ、日本に原爆が落とされたのです」
「……」
「私たちは、先祖の警告を役に立てられませんでした」
ホピ族の伝承については聞いたことがある。文明の再生と破滅を繰り返したという伝説。だが老人の話は、それよりずっと生々しかった。
老人は少し姿勢を整え、顔を近づけるでもなく、ふっと話題を変えた。
「いろいろ調べたのですが……“ホピ”という名は、日本の“天の穂日”という神の名から来ているのではないか、と私は思っています。何かご存じですかな」
「……いや。神話はあまり詳しくないです」
三浦は正直に言った。
老人は残念がるでもなく、静かに頷いた。
「やはりそうですか。日本の歴史には“空白の百五十年”があるでしょう。三世紀から五世紀ごろ」
「空白の百五十年……」
「その時、日本の先祖は、アジアの“あかい勢力”と戦い、多くを失った、と聞いています。倭国大乱でしたかな」
“あかい”。
その単語に、三浦の神経が反応した。頭がレッドバレットでいっぱいだったせいで、色が引っかかった。
「……赤い勢力?」
老人は、三浦の反応を気に留めないまま続ける。
「昔の記録が残っていないのは、いっしの変……あれですな、蘇我入鹿が古文書を燃やしたからだと」
「乙巳の変……」
「その後も、公家たちは真実を表に出せなかった。だから和歌という形で、後世に残そうとした。さらに、それを解くカギを“伝授”として少数に伝えたのです」
「古今伝授、万葉伝授、古事記伝授……」
老人は、さらりと口にする。三浦は、どこまで本気なのか測れずにいた。
「関ケ原で、細川幽斎が古今伝授をするはずだったが、籠城で危機一髪になり……神道の奥義が断絶する、と天皇が介入なさったとか」
「……その話は、聞いたことがあります」
老人はにっこりと笑って、和歌を口にした。
「『ちはやぶる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは』――この歌が好きでしてな」
「在原業平ですね」
「おお、さすが。では“からくれない”の“から”には、韓または唐とも書かれる、と」
三浦は少し考え、知っている範囲で答えた。
「韓紅に唐の字を当てて“唐紅”とも書くことがある……というのは知っています。でも、なぜ唐や韓を“カラ”と読むかは、考えたことがありませんでした」
「そこです」
老人は目を細め、静かに声を落とした。
「日本の歌は、ただの感傷ではなく、裏に意味が隠されている。竜田川は今の竜田川ではない。大和川の本流を暗示していた――つまり、大和朝廷の本流、皇統を暗示していた」
「皇統……」
「それが“韓(唐)色”、すなわち制度、宗教、思想、文字までもが大陸の色に染まり――“水”、すなわち瑞穂の国を“くくる”。動きを封じる」
三浦は困惑しつつも、言葉を挟んだ。
「そんなふうに読むんですか……」
「歌は、身内にも敵にも、わざと分からぬようにしておるからの。あいまいさが、深い解釈を許す」
老人はさらに、突拍子もない読みを置いた。
「たとえば“ちはやぶる”を、“血は破る”と読む。血統が破れる、という神代にも聞かぬことが起こる。”神代もきかず”とあるのは血統が神の血統であることをしめしています。」
「……え?」
「“水”には瑞の字を当てられる。”耑”は神職者。瑞で表される存在は、シャーマンの王、神聖なる存在。日本でそれに当たる者は――お一人でしょう」
三浦は言葉を失った。
腑に落ちるような、背筋が冷えるような、嫌な納得が混ざる。
老人は笑って、しかし目だけは笑わずに言った。
「六韜三略という兵法がありましてな。何世代にもわたって異国へ忍び込み、決起する。妲己を使った操縦――現代でいう、ハニートラップのようなものも昔からあった。おぬしも気をつけなされ」
「いやいや、俺はそれほどの人物じゃ……」三浦は笑いながら否定した。
三浦が苦笑すると、老人も声を立てて笑った。
「はは。脱線したの。話を戻すが――養子、あるいは背乗りのような技で功臣の家系に入り込み、分家して氏を変える。昔は比較的、簡単にできた」
「……」
「蘇我の韓子、高麗、稲目――奇妙な名が続くのは意味がある。稲目は“否目”、反体制派の頭目。否む勢力の監視者だった、ついには蘇我馬子の代に漢人を使い、崇俊天皇を――」
三浦は喉が乾くのを感じながら、言った。
「つまり……血統が破られる。尊いものが断絶する。その後も、異国の風に縛られる――そういうことですか」
老人は深く頷いた。
「古代の伝承を保存しようとした真の公家たちは、歴史の裏の重要な出来事を和歌の形で温存したということですか?」
「その通りじゃ。これは今始まった戦いではない。歴史の影が、今もなお我々の運命を左右しておる」
そして老人は、急に立ち上がった。
「……この話には、さらに奥があります。この本を読むといい」
「本?」
「管理番号は……これじゃ」
老人はメモを差し出し、視線を遠くに投げた。
「娘が来たようなので、わしゃこれで」
二階の資料室の一角を指さし、老人は去った。
三浦が振り返った時には、もう姿はない。まるで最初から居なかったみたいに。
三浦はメモを握ったまま受付へ行き、番号を伝えた。出てきたのは英語版のエチオピア聖書だった。
エノク書は一般の聖書では外典扱いで載っていない。だがエチオピア教会では旧約の一部として認められている。そして近年、死海文書の一部にも含まれていたことが分かり、注目を集めている――そういう基本知識なら、三浦にもあった。
だが、実物を読むのは初めてだ。
ページを開くと、付箋の挟まった箇所があった。
天の子ら――地を見守る者たちは、
人の娘たちを見て語り合った。
「妻を選び、子をもうけよう」
長であるセミヤザが言った。
「もし私ひとりが先に行えば、罪は私に帰する。
お前たちは恐れて従わぬのではないか」
すると皆が答えた。
「我らは共に誓いを立てよう。互いに呪いをもって結び、
この計画を変えずに遂げることを約束しよう」
彼らの数は二百。
彼らは人の娘たちを妻とし、子をもうけ、
魔術、薬草、金属、飾り、鏡、星々の名と運行の秘密を教えた。
やがて地は暴虐と流血に満たされた。
これが「ヘルモン山の誓い」である。
三浦は視線を落としたまま、喉の奥がきしむのを感じた。
余白に、薄い筆記がある。
karat berit
指でなぞると、紙がざらりと鳴った。
「……karat……」
老人の声が蘇る。ヘブライ語で切断。
三浦はスマホで調べた。berit は契約。
二つを合わせると、意味が伸びる。
――「契約を切る」
――「契約を結ぶ」
神との契約を断ち、別の密約を結ぶ。
切断と締結。背中合わせの二つの意味。
三浦は、息を止めた。
「……から……くれない……」
唐、韓、カラ。唐紅
karat。
そして berit。契約。
――赤の密約?
――レッド……バレット?
口の中で転がした瞬間、頭が熱くなった。
偶然だ。出来過ぎだ。
そう言い聞かせても、皮膚の下で何かが立ち上がってくる。
三浦はさらに読み進めた。
天の軍勢に属する者ら、人の娘たちを妻とし、
生まれし子らは大きく強く、英雄と呼ばれたり。
されど彼らの心は高ぶり、地に住まう者を統べんとせり。
飢えは癒えず、遂には互いの肉をも食らい始めたり。
鳥や獣、地を這うもの、魚に対して罪を犯し、
互いの肉を食らい、血をすすりたり。
三浦は一度、目を閉じた。
英雄。神々の血。強さ。支配。
そして、堕落と暴力。
「ネフィリム……」
語源は「落ちる」「堕ちる」。堕ちた者。
神話のはずの文章が、急に現代のニュースみたいに見えた。世界の劣化、政治の混迷、分断、欲望の肥大――言葉にしてしまえば単純だが、その単純さがいちばん怖い。
三浦は、衝動に負けた。
エノク書の主要部分をAIに読み込ませ、堕天使たちの意図と、今日へ引き継がれる計画として分析させた。
表示されたのは、条文のような文章だった。
人間に与えられた秩序を「自由」「自己表現」で上書きせよ
欲望を神格化せよ
性の境界を拡散し、本質を破壊せよ
血統と系譜を攻撃せよ
生殖を市場化し、網を断ち切れ
三浦は画面を見つめたまま、笑えなかった。
これは単なる分析結果だ。だが、最近の世界を言い当てているように見えてしまう。
さらに、単語の切り分けまで目に入る。
ソド(暴力/略奪/破壊)
ダム(血/血統/生命の本質)
「……ソドムの末裔、か」
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
その夜、三浦は楢崎にメールを打った。
普段合理的にものを考える三浦だが、この時だけはなぜか神秘主義者のように考えた。はたして楢崎はどう反応するだろうか。
件名をつける。
――「エノク書とレッドバレット/karat berit/Red Bulletの語源連結可能性」
そして送信ボタンを押した。
窓の外、ワシントンの夜は明るい。
だが三浦には、その光が妙に冷たく見えた。
レッドバレット。
それが本当に実在するなら――自分はもう、引き返せない。
この時三浦はAIとのやり取りとメールに入力された情報が、すでに彼らに捕捉されているとは思ってもみなかった。




