表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空に咲く蓮と謎  作者: Futahiro Tada


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/6

最終章 声の中に咲く蓮

最終章 声の中に咲く蓮


     一


 季節は秋を迎え、少しずつだけど肌寒い時間帯が増えてきた。日中はそれほど寒くないけど、朝晩は半袖ではいられない。もう少し季節が進んだら、ストーブの前で暖まる日々が始まるだろう。

 僕がいつも通り授業を終えて文芸部の部室へ行くと、真咲が先にやってきており、いつもの席である部室後方に一人で座っていた。しかし、なんだかいつもと様子が違うような気がする。困惑した表情を浮かべているのだ。

 これは珍しい……いつも冷静で高圧的な態度の真咲が、なんというか塩らしくなっているから、僕は少しだけ感慨深くなった。

「何かあったの?」

 と、僕は軽くジャブをかますような感じで声をかけた。

 その声を聞いた真咲は、驚いた瞳でこちらを見つめた。

「なんだ、アンタか。何か用?」

「いや、質問を質問で返さないでよ。君の方こそ何か困っているんじゃないの?」

「アンタ、機械に詳しい?」

「多分だけど、君よりかは詳しいと思う」

「あのさ、アタシのカセットテープが壊れてしまったみたいなの。何をやっても聞けないのよ」

 カセットテープについては、恐らく真咲と同レベルの知識しかないかもしれない。しかし、彼女が困っているのだから、助けてやりたくなった。僕は真咲からカセットテープとウォークマンを受けると、それとなく直せそうか確かめた。

 しかし、どのボタンを押しても全く動作しない。おまけにカセットテープのテープ部分が絡まり、普通ではなくなっているのだ。きっと、本体が故障してしまって、その結果テープが絡まったのだろうと推測した。

「ダメだ。僕じゃ直せない。というか、これを直せる人はあまりいないと思う。今時、家電量販店に行ったって、カセットテープは売っていないだろうし。直すとなると、結構高額になるかもしれないよ」

「直るのかな?」

「わからない。それは店員に聞いてみないと」

 僕がそう言うと、真咲はフンとため息をついた。よほどこのカセットテープとウォークマンが気に入っているのだろう。

「意外と落ち着いているんだね?」

 と、僕はテープを返しながら、真咲に言った。

 すると真咲は、

「……落ち着いてなんか、いないわよ」

 ここで初めて、真咲が強く感情を露わにしたような気がした。

 ちょうど、彼女の感情を投影したかのように、外は雨が降り始めた。雨は次第に激しくなり、雨音が窓ガラスを静かに叩いていた。

 真咲は何度もカセットを弄っているようだったが、カセットのフタを開けると、中でテープが絡まり、ぐしゃっと波打っているのが見えた。細長いテープは、まるで苦しげに息を詰まらせた蛇のように、本体を噛み込んでいた。

「……どうして……」

 真咲は声にならない声をそっと吐いた。僕はその声を確かに聞いたのだ。そして、彼女は、テープを指でつまもうとしている。けれど、その手は微かに震えていた。

「それ、そんなに大切なヤツなの?」

 と、僕は真咲に向かって声をかけた。

 当の真咲は、黙ったままテープを見つめている。テープの中は、相変わらず黒い帯で絡まり、酷いことになっていた。普段の彼女なら、冷静ながら高圧的な態度で僕に突っかかってきたハズだろうけど、今の彼女は違っている。

「これは……アタシのおじいさんの声なの……最後に、私に残してくれたーー声の記録なのよ」

 その言葉を聞き、僕は息を呑んだ。

「え……じゃあ、もう……?」

 真咲は小さく頷いた。そして初めて目を伏せたまま呟く。

「……もし、このテープがもう再生できないなら、おじいさんは、もう二度と私の中で話してくれないかもしれない」

 僕は返す言葉が見つからず黙り込んだ。

 真咲が後生大事にカセットテープを使っている理由が、今はっきりした。彼女は亡くなった祖父の声を録音したカセットテープを大切にしていたのだ。だからこそ、デジタル音楽が主流のこの時代に、彼女は、カセットテープを使い続けているのだろう。

 雨の音が静かに強まる。真咲の膝の上には、解けたままのテープと再生できなくなった古いウォークマン。その静寂の中で、彼女は何かを手放す予感と向き合っていたのかもしれない。

「真咲、テープ直しに行こう」

 勇気を出して、僕は真咲に言った。

 恐らく、繁華街の家電量販店に行けば、直せるかもしれない。見込みは薄いけど、今はそのか細い可能性に欠けるしかないように思えた。

 僕と真咲は、文芸部の活動をやめて、すぐに学校を出て繁華街にある家電量販店へ向かった。平日で雨ということもあり、店内はそれほど混雑していなかった。小さな街のお店だから、ワンフロアのこぢんまりとした店舗だ。

 真咲はレジに立っていた店員にカセットテープとウォークマンを見せて、直せるかどうか聞いていた。僕もその後ろに立ち、冷静に状況を見つめていた。

 レジに立っていたのは、大学生くらいの若い男性で、恐らくアルバイトだろう。彼はすぐに「わかる人を呼んできます」と告げ、レジの後ろあるドアをくぐり消えていった。しばらくすると、四十代くらいの坊主に近い短髪の男性店員を連れて出てきた。どうやら、修理の担当者らしい。

 四十代くらいの店員は、カセットとウォークマンを見つめ、しばらく考え込んだそぶりを見せた後、

「これはもうダメだね。バッテリーが劣化しているのと、テープも擦り切れている。テープは専門業者に頼めば直せるかもしれないけど、ウォークマンは修理できません。この型はかなり昔に生産が中止されていて、今代わりとなるパーツがないんです。だから、お気の毒ですが、買い替えをご検討された方が宜しいかと思われます」

 そう言われるのを、真咲も僕も心のどこかで予期していた。今の時代、古いカセットを再生するウォークマンを直せる場所は少ないのだ。

「わかりました。ありがとうございます」

 真咲はそう言うと、カセットテープとウォークマンを受け取り、それを丁寧にカバンの中にしまうと、僕を連れて店を後にした。


     二


 数日後――

 放課後の文芸室に僕は一人座っていた。もちろん、周りには学生たちがいて、それぞれ自分の作業をしている。その中には、定位置に座っている真咲の姿もあった。しかし、彼女はいつもより少し静かで、元気がないように思えた。

 恐らく、カセットテープが壊れてしまったからだろう。彼女がカセットテープを大切にしているのは、その中に亡くなった祖父の声が録音されているからだ。僕もできるのであれば真咲に協力したい。テープを直してやりたいという気持ちで溢れているのだ。

 僕はしばらくの間、自分の作業である書評の執筆をしながら、時折横目で真咲を見つめていた。なんとなく、書評の執筆に力が入らない。僕は一旦作業を止めて、スマホでテープの修理方法のサイトを眺めた。専門的な道具がいる場合もあるけど、簡単な工具やテープクリーナーや綿棒などでも直る可能性があると知り、僕は真咲に向かって声をかけた。

「真咲……ちょっとテープ貸して?」

 すると真咲は驚いた表情を浮かべ、

「どうして?」

「直せるかわからないけど、ちょっと協力できるかもしれない」

「直るの?」

「まだわからない。でも、何もしなければ絶対に直らないから、試す価値はあると思うけど」

 僕がそう言うと、真咲はカバンの中からカセットテープとウォークマンを取り出し、それを丁寧に僕に渡した。僕はそれを受け取ると、部室にある簡単な工具ケースを持ってきて、ウォークマンを分解してみることにした。

 ググった結果、かなりわかりやすくカセットテープのウォークマンを分解、修理しているサイトがあり、僕はそれを参考にした。運がよかったのか、そのサイトは修理方法の動画をYouTubeにあげており、それらは大いに参考になった。

 慣れない手つきながらも、僕は慎重に機器を分解し、丁寧に作業を行なった。そして、時折作業しながら真咲に声をかけた。

「……君ってさ、あんまり人に頼らないよね。もしかすると今回が初めて?」

 その言葉を聞いた真咲は、わずかに目を開いた。

「……そうかな? 自分ではよくわからないわ」

「うん。あんまり頼ったとこ見たことないよ。でもさ、今回はなんとかしてあげたいって思ったんだ。もちろん、僕の勝手だけど……」

 ……少しの沈黙。

 真咲は照れたように目を伏せながら、小さく呟いた。

「あ、ありがとう……」

 ウェブサイトやYouTubeの指示通り、僕は慎重にカセットテープとウォークマンの修理を行い、その結果奇跡が起きた。なんと、素人の僕が壊れたウォークマンを直せたのだ。

 カチリ。ウィーン……

 数秒の沈黙の後、かすれた空気音に混じってゆっくりと、声が流れ始めた。


「……これは、わしの読経じゃ……咲、お前がいつか仏の道を志すなら、この声が、お前の声に寄り添うように願う」


 その声は、柔らかく、深く、どこか懐かしい朝の香りのようだった。

 真咲は、両手を膝の上で組んだまま、じっと瞳を閉じ、その声を聞いている。


「人を救うことは簡単じゃない。自分を守ることも、な……けれど、声を聞き、声をかけることは、できる。……それだけで、誰かの心は少しだけ、静かになる。……咲、お前の声は静かじゃ。でも、仏の声もそうじゃ。……だから、そのままで、いいんじゃよ」


 声はたおやかだった。これは恐らく、真咲の亡くなったおじいさんの声なのだろう。僕がチラリと真咲の方に視線をやると、彼女の目の端に、涙が一筋こぼれた。そして真咲は、何も言わなかった。ただ、深く、深く、頷いただけだった。

「……これがおじいさんの最期の声?」

 と、僕は真咲に向かって声をかけた。なんというか、声をかけてやりかったのだ。

 当の真咲は涙をハンカチで拭うと、微かに微笑んで答えた。

「そう……もう、二度と聴けないと思っていたわ。でも、思い出したの。『声は形じゃない』っておじいちゃんが言っていたことを……」

 そう言うと、真咲はウォークマンを両手で包み込むように持ち、まるで祈るように目を閉じた。そして彼女は静かに声を出した。それは消え入るような小さな声だった。

「この声を、もう一度聴けたから……アタシ、自分の声で祈ってもいいような気がしてきたわ」

「あぁ。僕も君の声がちゃんと聴けているよ」

 僕と真咲の間に、静かな夕暮れの光が差し込んでくる。窓の外では、風に揺れる木々の葉が、まるで小さな拍手のように揺れていた。

 まさか本当に僕の手でウォークマンが直せるとは思わなかった。けれど、今回の修理は完全ではない。きっとまたすぐに調子が悪くなってしまうかもしれない。だから、今回の真咲のおじいさんの声の再生は、きっと仏様がくれた奇跡だったのだろう。僕はそう思いたい。

 真咲はこの後、自分のためだと言い、静かに読経を唱え始めた。

 それはまるで、祖父の声に心を送り出す供養のように思えた。しかし、物語はこれでは終わらない。僕らは数日後、ある事件に巻き込まれるのだ。この事件は、真咲の個人的な解放と結びつき、彼女の僧侶としての覚悟を象徴するものになる。


     三


 数日後、僕は真咲からある場所に一緒に行かないと提案される。その場所とは、以前阿弥陀如来像が盗まれた一件で関わった香蓮寺だ。そこで施餓鬼会セガキエが行われるため、一緒についてこいという話だった。

 とは言っても、僕は仏教行事である施餓鬼会について全くの無知だった。というか、真咲に誘われて初めてその単語を知った感じなのだ。真咲からも軽く説明を受けたのだが、イマイチピンと来なかったため自分でも少し調べてみた。

 施餓鬼会とは、日本の仏教において重要な年中行事の一つだ。亡くなった方や、特に、無縁仏(供養される人がいない霊)のために、食べ物や読経などを施す儀式らしい。

 施餓鬼は、餓鬼道に堕ちた亡者に施しを与えるという意味がある。そして、餓鬼とは、仏教で説かれる六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)のうち、飢えと渇きに苦しむ亡者の世界の存在を指す。

 施餓鬼とは、その餓鬼に水・食物・祈りを施すことで、苦しみを和らげる慈悲の行為とされている。基本的には、お盆の時期、だから七月とか八月に行われるケースが多いのだけど、今年の香蓮寺は、夏の暑さがひと段落した九月の下旬に行うことになったのだ。

 施餓鬼会だけを独立して行うお寺もあれば、盂蘭盆ウラボンエと一緒に開催する場合もある。香蓮寺は、独立して行うようだった。その施餓鬼会に僕と真咲は一緒に行くことになったのだ。

 なぜ彼女が施餓鬼会に僕を誘ったのかというと、カセットテープを直してくれたお礼なのだそうだ。お礼なら、昼食の時に飲むお茶を奢ってくれるくらいでも十分だったのだけど、真咲は僕を施餓鬼会へ連れ行きたいようだった。

 施餓鬼会は九月の下旬、最後の土曜日に行われた。だけど真咲はその前日に、施餓鬼会法要を手伝うと言い、その準備になぜか僕も連れて行ったのだ。僕は全く興味がない施餓鬼会の準備を手伝う羽目になったのだけど、いい経験になると思い、渋々ついて行った。

 金曜日の夕暮れ。学校を終えて、文芸部に参加するわけでもなく、僕と真咲はすぐに香蓮寺に向かった。少しずつだけど確実に日は短くなっている。つい数ヶ月前までは、夕方六時くらいでも十分明るかったのに、今は五時くらいでも薄暗くなり始めている。

 僕らが香蓮寺に到着すると、街の人々や関係者たちがすでに集まっており、何やら本堂の方で準備をしているようだった。真咲と僕は本堂の掃除をすることになり、箒や雑巾を使って掃除をしていた。

 しばらくそんなふうにして掃除をしていると、住職さんが慌てた様子で僕らのところにやって来た。

「真咲ちゃん、大変じゃ、餓鬼道壇の中央に供えるはずの布袋像が見当たらんのじゃ」

 その言葉を聞いた真咲は、掃除する手を止めて、住職さんの方を向いた。

「布袋様……あの小さな笑い仏ですね。あれが供養壇の中心……」

 住職さんは頷く。

「あれはな、ただの置物じゃない。貧しき霊を笑顔で迎える象徴なんじゃ。それがなくなるなんて、今までなかったことなんじゃよ」

 僕と真咲は掃除を一旦中止し、布袋像を探すために、施餓鬼壇の方へと向かった。

 話を整理すると、なくなったのは、布袋像という仏像だ。寺自体は無施錠だが、盗難の気配はなかった。しかし、台座には微かに線香の香りが残っている。そして、小さな蓮の花の切り紙が残されていた。

「また蓮か……この間の事件でも蓮が出てきたよね? 偶然にしては変だな」

 と、僕は呟くように真咲に言った。

 それを受け、真咲はゆっくりと頷いた後、鼻を動かし、辺りの匂いを嗅いだ。

「これは……白檀ビャクダン。亡くなった幼子の供養に使うことが多い香りね」

「後、切り紙が残されていたって話だけど」

 真咲は台座に残されていた蓮の切り紙に視線を移す。そして、何やら発見したようだった。

「切り紙の裏に何か書いてあるわ」

 そう言い、僕に切り紙の裏側を見せてくれた。

 そこには次のような言葉が書かれていた。


『その子のために笑ってあげてください。あの子が声をなくしてから、私はずっと……』


 言葉は途中で終わっていた。

 真咲はすぐに住職さんの元へ行き、彼に向かって尋ねた。

「あの住職さん、この近くで幼児を亡くした人っていますか?」

 彼女の言葉に、住職さんはしばし考え込むそぶりを見せて、

「う〜む、最近はいないんじゃが、多分、数年前だと思うんじゃが、三歳の幼児を亡くした母親が、この香蓮寺の近くに住んでおったはずじゃ。今はどうしているのかわからんが……」

「その人ってどんな人だったか覚えていますか?」

「よく覚えておるよ。なにしろ小さな子供を失った母親だからねぇ。その人はね、子供を亡くして以来、ほとんど人と話さないようになってしまったんじゃ。そして、夜に一人で寺の裏に座っている姿を、何度もわしが目撃しておる。話しかけても全く反応がなくてね。困っておったんじゃが、そのうち現れんようになって……元気にしとればいいじゃがね」

「子供が亡くなった……そして声をなくした母親……」

 真咲はそう言うと、しばし考え込んだ。そして、何か閃いたかのように目を見開くと、僕と住職さんに向かって言った。

「このお母さんも、供養の場で自分の声を取り戻したいのかもしれないわ」

「真咲ちゃん、君は、例の母親が布袋像を盗んだと言いたいのかね?」

 と、住職さんは彼女に向かって尋ねた。

 それを受け、深く頷いた真咲は、

「その可能性が高いと思います。というか、前回の事件で阿弥陀如来像が持ち出されましたよね? 今回の一件も盗まれたのではなく、持ち出されたと考えるのが自然だと思います」

「となると、布袋像は戻ってくると」

「はい。でもその前に、住職さん、例のお母さんの住んでいた住所はわかりますか?」

「うむ。一応知っておる。ここで亡くなったお子さんのお経をあげたのだからね。もしかして真咲ちゃん、彼女のところに行くつもりかい?」

「その通りです。そして仏像はお母さんが持っています。アタシが理由を聞いて、必ずここに持ち帰ってきます。だから住所を教えてください」

 真咲の強い意志に折れたのか、住職さんはさらさらとメモ紙に住所を記載し、それを真咲に渡した。翌日、僕らは例の母親の自宅へと行くことになる。


     四


 数年前、子供を失ったという母親の名前は、小田切志保オダギリシホ。そして、彼女が住む家は、香蓮寺の裏に広がる裏山を少し登ったところにあった。平屋造りの古い一軒家。庭先には、手入れされずに伸び放題になった笹と錆びた郵便受けが風に揺れていた。

 一応インターフォンがあるようだったので、真咲がそれを押した。しばらく待っていると、古びた玄関のドアが開かれ、疲れ切った表情を浮かべた中年の女性が現れた。

 恐らく、この女性が志保さんなのだろう。僕も真咲も直感でそう察した。

「あなたたち誰?」

 志保さんの声は、活力がないというか、心をどこかに置いてきてしまったかのような小さな声だった。

 それを受けて、真咲が凛とした口調で告げる。

「あなたですね。香蓮寺の布袋像を持ち出したのは……」

 布袋像……

 その言葉を聞いた母親の顔にわずかながら正気が蘇ったように見えた。それを見た真咲は、自身の推理が当たったと確信したようだった。彼女は、優しい口調で続ける。

「アタシたちは、あなたを咎めにきたわけではありません。あなたには、明日の施餓鬼会に来てもらいたいのです」

「施餓鬼会?」

「そうです。仏教の行事みたいなものです。明日、香蓮寺で行われます。ぜひ、来てください」

「あなたたちは一体?」

「布袋像、見せてもらえませんか?」

 真咲がそう言うと、志保さんは覚悟を決めたのか、僕らを部屋の中へと案内してくれた。

 室内は清潔に保たれていたけど、空気はどこか薄い膜に包まれたかのような重さが漂っていた。壁際には、おもちゃが整然と並んだ棚があり、その上に、白黒の写真立てと布袋像が置かれていた。

「そうです……」志保さんが静かに声を出した。「私が盗ったんです。香蓮寺から」

 その言葉を聞いた真咲は、怒るわけでもなく、優しげな口調で言葉を返した。

「そうですか……」

 棚の上には、折り紙の鶴がいくつも吊るされている。しかし、それらは全て未完成であり、途中で折られたままになっていた。食器棚の中のコップは二つだけーー一つは小さな手のひらに合いそうなサイズ。もうひとつは、女性の指先が触れるたびに静かに震える、ガラスのような存在。

「あなたは、この寂しい空間で、声も時間も凍らせてしまったのですね」

 真咲は静かに告げる。

 女性は淡々と言葉を聞いていたが、やがて涙を流した。

「……その子、笑っていますね。あの布袋様の隣で、あんなに自然に笑ってる……まるで、そこにいるみたいです」

 真咲は写真立てに飾られた幼児の写真を見ながらそう言った。

 対して志保さんは、何も答えず立ち尽くしている。

 真咲は続ける。

「でも、きっと本当は、お母さんが笑ってあげて欲しかったんじゃないでしょうか。供養って、故人のためだけじゃなくて、残された人のためでもあるんです」

 志保さんは泣きながら真咲の言葉を聞いていた。そして、静かに声を出した。

「……ずっと、笑っちゃいけないと思っていました。私だけ……生きてるのが申し訳なくて……」

 真咲はそっと答える。

「その想いを持ったまま、お子さんが成仏すると、本当に悲しみの中で旅立ってしまいます。……だから明日、一緒に来てくれませんか? 笑って、祈って、そして話しかけてあげてください」

「すみません……ほんの一晩だけ、あの子のために、笑っている仏様をそばに置きたかったんです。悪いとは思いました。でも今日はあの子の命日だから……だから……」

「声を失った者のそばに、誰かの笑顔があることは、それだけで供養なんです。けれどその想いは、誰にも伝えなければ届きません。あなたの声を、その子に届けませんか? アタシがその手引きをします。だから明日の施餓鬼会に来てください。アタシはそれを言いにここに来たんです」

 志保さんは震えながら頷き、静かに「ありがとう」と口にした。


 翌日――

 香蓮寺で施餓鬼会が行われる。僕も真咲と一緒に香蓮寺に向かったが、その時、すでに布袋像は、壇に戻っていた。同時に、志保さんの姿もあった。

 施餓鬼会の朝。香蓮寺の境内には、まだ朝露が残っていた。白い施餓鬼壇の中心には、志保さんが戻したのであろう、布袋様が静かに座っている。ふくよかに笑うその顔は、まるで何もかも知っているかのようだった。

 やがて、参拝者たちが本堂に集まって来る。

 その中に混じるように、志保さんも移動した。志保さんは、黒い喪服姿に、小さな白いスカーフを巻き、腕の前で強く握っていた。

 読経の時間が迫る。

 住職が短く挨拶と話を終えた後、ゆっくりと壇の横に立ったのは、他でもない真咲だった。同時に、その姿に誰もが小さく息を呑んだ。


     五


 真咲は、生成りのカーディガンに、灰桜色のブラウスをインナーに着用し、黒に近い紺のロングスカートを穿いていた。足首までの長いスカートで、しっかりと地に足がついた印象だ。僅かに風に揺れる布が仏教的な所作と静けさに調和していた。足元は、シンプルな黒のローファーで、足音を立てずに歩く姿が、どことなく僧侶を目指す者として相応しく思えた。また、手首には、数珠ブレスレットをしており、それもまた仏教的な印象を与える。

 髪型は、いつもは長めのストレートヘアーだったけど、今日は低い位置でひとつ結びポニーテールにしている。地味でも丁寧で、乱れないその姿が、祈りの場に相応しく思えた。

 真咲は、生成りのカーディガンの裾をそっと整えながら、壇の前に立ち、驚いている人たちをゆっくりと見下ろした。手には数珠。彼女は、一同をぐるりを見渡した後、静かに目を閉じた。そして、深く一度、ゆったりと息を吸い込んだ。


「……般若波羅蜜多心経……」


 声は小さく、けれど凛と張っていた。部室で時折、真咲はお経のようなものを唱えることがあったけど、僕は彼女が僧侶のようにお経を唱えられるとは思っていなかった。でも真咲は将来、お坊さんになりたいわけだから、人知れず読経を読むトレーニングをしていたのかもしれない。

 今の真咲の声は、誰にも守られていない。そしてそれは、自分の声で、誰かに『祈る』最初の一歩だと思えた。


「照見五蘊皆空……度一切苦厄……」


 本堂内の空気が変わる。

 声を失っていた志保さんの頬に、涙がひとすじ滑り落ちる。彼女の口が、ほんの少し動いた。そした、消え入るような小さな声で、

「……ありがとう……」

 それは、亡き子への言葉か、仏に向けた言葉か、それとも、自分自身を許すための声だったかのはわからない。でも、僕は確かに「ありがとう」という言葉を聞いた。


「色即是空……空即是色……」


 読経の言葉は、形には残らない。

 けれど、それは確かに空間を満たし、誰かの心の奥の泥の底に、小さな蓮の花を咲かせていった。

 最後の一句を終えた時、真咲は目を開けた。壇の中央に座る布袋像が、陽の光を受けて柔らかく光っていた。その笑みは、まるでーー「よくやった」と、微笑んでいるかのようだった。


 儀式を終えた後、僕は真咲のそばに駆け寄った。そして、小さく呟く。

「……すごいよ。あんな静かな声だったのに、ちゃんと全部、届いた感じがする」

 その言葉を受け、真咲は笑った。

「声が小さくても、人の心には届くのよ。おじいちゃんが、ずっとそう言っていたわ。……ようやく、その意味がわかった気がする」

 香蓮寺の裏庭には、小さな蓮池がある。その蓮池の向こうに、小さな白い花が一輪、静かに咲いていた。泥の中から、まっすぐに。

 それはまるで、真咲そのものだと感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ