第13話 大切な人
夏休み前の美術部は、展覧会の準備でいつにも増して活気づいていた。
部室は絵の具の匂いと、キャンバスや画材が乱雑に散らばっている。
窓から差し込む夕陽が、埃の舞う空気をオレンジ色に染める。
他の部員達がちらほら帰り支度を始めて帰っていき、人が減ってきた。
ロマは額に浮かんだ汗を拭い、キャンバスに貼られたポスターのレイアウトを眺めながら、ふっと息をついた。
胸の奥に、展覧会のプレッシャーと何か名前のつけられないざわめきが混ざり合っている。
「ロマ君、初めての展覧会でそんなに気負わなくて大丈夫だよ。楽しく描いたらいいから」
ミカソ先輩が難しい顔をしていたロマを見て声をかけてくれた。
「はい!ありがとうございます。他のみんなの作品が上手すぎて……ちょっと気後れしちゃってました」
「それすっごく分かるよ!でも私はロマ君の絵、とても優しい気持ちになれる素敵な絵だなって思う。また新しい絵ができたら見せてほしいな」
「ミカソ先輩……そう言ってもらえて嬉しいです!また描いたら見てくださいね」
ミカソ先輩の言葉にロマの心は軽くなった。
上手く描かなきゃとかちょっと難しく考えすぎてたかも……。
喉が渇いたのでちょっと休憩しよう。
「ルキ君、飲み物買ってくるけど、何かいる?」
ルキはキャンバスの前に座り、筆を手早く動かしていたが、ロマの方を向いて答えた。
「甘くないジンジャーエール」
「え、そんなのあるかなぁ? とりあえず探してみるね!」
ロマは軽く笑って部室を出た。
校舎の廊下を歩くロマの足音が、静かな夕暮れに響く。
窓から差し込むオレンジ色の光が、廊下に長い影を作っていく。
自販機のコーナーに差し掛かった時、ふと視界の端に2つの人影が映った。
ココナとシキだ。
2人はひっそりと、どこか親密な雰囲気で話をしていた。
ロマの足が思わず止まる。
見ちゃいけない…そう思うのに、なぜか身体が動かない。
心の中で呟きながら、ロマは物陰に身を隠すようにして2人の会話を聞いてしまった。胸がドキドキと高鳴り、まるで自分が何か悪いことをしているような罪悪感が湧き上がる。
「……シキ君、今度良かったら、どこか遊びに行かない?」
ココナの声は少し震えていて、期待と不安が混じったような響きだった。
彼女の頬はほのかに赤く、いつも明るく元気で優しいココナとは違う、繊細な女性の表情が垣間見えた。
ロマの胸が、なぜか締め付けられる感じがした。
シキは一瞬黙り込み、穏やかだがはっきりとした口調で答えた。
「ココナちゃん、誘ってくれてありがとう。そうだな、どうせならロマやルキ達も誘ってみんなでどうかな?」
ココナの顔が一瞬曇る。
彼女は唇を軽く噛み、勇気を振り絞るように言葉を続けた。
「ううん、シキ君と…2人きりがいいの」
その声はか細く、まるで壊れそうなガラス細工のようだった。
ロマの心臓がまた一つ大きく跳ねた。
シキは目を伏せ、静かに息を吸い込んだ。
「ごめん、ココナちゃん。実は……僕には大切な人がいるから、2人きりはだめだ……」
シキの声は優しかったが、その言葉には揺るぎない決意が込められていた。
ココナは小さく「そっか……じゃあね」と呟き、目を潤ませながらその場を立ち去った。
彼女の後ろ姿は、夕陽に溶け込むように頼りなく揺れていた。
シキは彼女を見送りながら、うつむいて拳を握りしめる。
その手は小さく震えていて、まるで自分の言葉が自分自身をも傷つけたかのようだった。
ロマは胸の奥でざわめく感情に戸惑った。
ココナちゃん、シキ君のことが……そんな気持ち、ぜんぜん気づかなかった。
そして、シキの「大切な人」という言葉が、頭の中で何度も反響する。
シキ君の大切な人って……誰なんだろう?
その疑問は、ロマの心にモヤモヤとした靄をかけた。
自分には関係ないはずなのに、なぜか胸が締め付けられる。シキの穏やかな笑顔や、普段の優しい仕草が頭をよぎり、なぜかそのイメージが胸をざわつかせる。
ロマは自分の感情に名前をつけられないまま、自販機の前で立ち尽くした。結局、飲み物を買うことすら忘れ、踵を返して部室に戻った。
部室に戻ると、ルキがすぐにロマの様子に気づいた。
「ロマ、飲み物買いに行ったんじゃ……?」
ルキの声はそっけないが、どこか心配そうな響きがあった。ロマはバツが悪そうに笑い、頭をかいた。
「ご、ごめん、ルキ君。甘くないジンジャーエールなかったよ……」
目が泳いでしまっている。
ルキは眉をひそめ、じっとロマを見た。
「何かあったのか? なんか挙動不審だぞ」
その鋭い視線に、ロマはドキリとする。
ルキの目は、いつもロマの心の奥まで見透かすようだ。
「う、うん。えっと……なんか、見ちゃいけないとこ見ちゃって……」
言葉を濁すロマに、ルキは少し苛立ったように言った。
「はっきり言えよ。ひとりでモヤモヤするな」
ルキの言葉には、どこかロマを気遣う優しさがにじんでいた。
ロマはルキのそんなところに、いつも救われるような気持ちになる。
でも、今は迷っていた。
シキ君とココナちゃんの会話を話していいのかな。
ココナちゃんの気持ちを勝手にバラすのは、なんだか間違ってる気がする。
でも、このモヤモヤをルキ君に打ち明けたら、ちょっと楽になるかもしれない……。
ロマの心は、言うべきか言わざるべきかで揺れ動いていると
その時、部室の扉が静かに開き、シキが入ってきた。
夕陽の逆光に照らされた彼の姿は、どこか疲れたように見えた。
シキはロマに近づき、柔らかい笑顔を浮かべた。
「ロマ、ちょっと展覧会のことで相談したいんだけど……。それでね……ロマの家の喫茶店、また行きたいなって。だめかな?」
シキの声は穏やかで、いつもより優しい口調だった。
でも、ロマの頭にはさっきのココナとの会話がフラッシュバックする。
シキ君から誘ってくれるなんて…。
シキは誰にでも優しいが、どこか一定の距離を保っているように見えた。
さっきだって、ココナちゃんからの誘いを「大切な人がいるから」と断っていた。
それなのに、自分を誘ってくれるなんて。
ロマの胸が、期待と戸惑いでざわめく。
シキの笑顔を見ると、なぜか心が温かくなり、同時にどこか切なくなる。
「う、うん! ぜひ来て欲しいな! いつでも大歓迎だよ!」
ロマは思わず笑顔で答えたが、心の中では小さな疑問が渦巻いていた。
シキ君の「大切な人」って……。
その瞬間、ルキがむすっとした顔で割り込んだ。
「おい、俺を置いて話すな。……俺も行く」
ロマは目を丸くした。ルキが自分からそんなことを言うなんて、まるで空から星が降ってくるような珍しさだ。
「え、ルキ君も? 前は断ったのに……めっちゃ嬉しいよ!」
シキもにこりと笑い、ルキに視線を向けた。
「ルキもロマの喫茶店、絶対気に入るよ。雰囲気いいし、料理も美味しいし」
ルキは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「唐揚げは食える?」
「あるよ! ランチの仕込みが残ってたらだけどね」
ロマは笑いながら答えたが、ふと部室の開けっ放しの扉の方に目をやった。
そこにはココナの姿があった。
彼女は遠くからこちらを見つめ、悲しそうな、どこか羨ましそうな目でロマたちを見ていた。
その視線に、ロマの胸がズキリと痛んだ。
ココナちゃん……。
彼女の瞳には、言葉にできない複雑な感情が宿っているように見えた。
夕陽が部室に差し込む中、ロマの心はまだ整理できない感情で揺れ続けていた。
シキの「大切な人」という言葉が、頭から離れず、胸の奥がざわめいていた。
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