第一章:まなざしの温度
「名前のない記憶たちへ」
ほんの一瞬だけ、
心がほどけるような誰かに出逢うことがある。
風景が軋むように変わって、
時計の針が音を失ったかのように感じたなら、
それは、きっと、
心が過去でも未来でもなく、「今」に染まっている証だ。
名前もつけられない感情たちが、
胸の奥でこっそり呼吸をはじめる。
その声はか細く、でも確かに、
生きていた証を紡ぎ続ける。
――この物語は、
「もし、あの時あの場所で出会わなければ、
私は今の私じゃなかった」
そう言えるような、
ある一人の“わたし”と“彼”の、
儚くて、痛いほど鮮やかな記憶。
誰にも話さなかった“たったひとつの時間”。
それは永遠ではなかったけれど、
間違いなく、“本物の永遠”に触れた瞬間だった。
ページを開けば、そこにあるのは、
名前のない、でも確かな感情の記録。
私と彼の“あの時”が、ここから始まる――
午後一時半のジム。
天井から吊るされたスピーカーが、一定のテンポでBPMを刻む。
機械音と汗の匂い、ルーチンの動き。
──いつもと同じ、はずだった。
その中で、異質な光が視界をかすめた。
彼だった。
高く、まっすぐな背筋。
東洋の静けさと、西洋の彫刻のような骨格が奇跡的に同居している人。
髪の一房が汗に濡れて額に落ちているのすら、妙に映画的で──
私は、その一瞬で飲み込まれた。
誰?
知らない人。だけど、なぜか心がざわつく。
見てはいけないものに見とれているような罪悪感と、それを上回る好奇心。
数メートル先で彼がベンチプレスに横たわる。
呼吸がゆっくりと整っていて、目を閉じる表情も、どこか穏やかだった。
まるで自分の身体の声だけを聞いている人。静かで、強い。
私はストレッチマットの上で、背中を丸めながら、ついまた彼を目で追ってしまった。
その瞬間、視線がぶつかる。
──わずか一秒。
でも、その一秒が、やけに永かった。
彼の視線は、鋭くも柔らかかった。
怒ってもいない、笑ってもいない。けれど、**“知っている”**ような眼だった。
気のせい、かもしれない。
でも、彼もまた少しだけ長く私を見ていた──そんな気がした。
数回、そうした偶然が繰り返された。
すれ違うたび、彼の歩く速度がわずかに緩むのがわかった。
私の前を通るとき、たぶん彼も意識している。
水を飲みに行ったタイミングで並んだ瞬間、彼がふと、横目でこう言った。
「……暑いですね、今日は。」
何気ないひと言。
だけど、それが唐突すぎて、私は思わず笑ってしまった。
「ほんとに、夏みたい。」
そんな会話すら、初対面同士には珍しく温かかった。
その声を聞いたとき、私は名前も知らないくせに、彼に話しかけたくなっていた。
でも、話す理由がない。
この関係は、まだ“はじまっていない”。
ただの偶然の重なり、たまたま同じ空間を共有しているだけ。
そう、自分に言い聞かせながら、またそっと彼の姿を目で追う。
なぜこんなに気になるのか。
何が心を引き寄せるのか。
名前すら知らない誰かに、ここまで惹かれることがあるなんて。
理屈じゃない──でも、もう、目は逸らせなかった。
その日、彼の名はまだ知らなかった。
でも私の中では、確かに“存在”として刻まれた。
匿名のまま、心の一角に居場所を作った彼。
あとで知ることになる──
彼の名前は「タイム」。
けれど、この瞬間の彼はまだ「誰でもない誰か」。
それでもなぜか、無意識のうちに私は確信していた。
──この人は、また現れる。
そして、ほんの些細な偶然が
やがて、“引力”になる。
「鼓動が始まる場所」
人生には、説明がつかない瞬間がある。
初対面のはずなのに、どこか懐かしい。
他人なのに、どうしても目が離せない。
そんな出会いは、たいてい偶然の仮面をかぶって、
静かに、けれど鮮烈に日常を切り裂いてくる。
ジムでの“あの日”の時間も、
気づけば記憶の奥に染みこんで、
思い出すたびに、呼吸が浅くなる。
彼の名をまだ知らない“私”は、
でもすでに彼の仕草を、温度を、目に焼きつけていた。
これは始まりに過ぎない。
けれど、たった一度の出会いが、
どれほど“私”の世界を変えていくのか、
まだ誰も知らない。
この心のざわめきは、
恋なのか、錯覚なのか、
それとももっと深い何かを知ってしまったせいなのか。
――鼓動が少し、速くなった。
それだけで、世界が少し、違って見えた。
静かに訪れた第一章の終わりは、
これから始まる“愛と揺らぎ”の序曲。
次章、「触れそうで触れない距離へ」へ続く。