脱走
「ご機嫌はいかがですか? エドウィン様」
「クリストファー様…」
夜になり、隠し部屋の中へクリストファーがやってきた。つながれた犬や檻に入れられた動物たちに囲まれ、エドウィンは部屋に隅に座っていた。
「喉が渇いたでしょう? お腹も空いているはずだ」
クリストファーは水の入った袋と、ナッツの入った袋を腰から下げていた。
「あなたが素直にセレーネ像を渡してくれれば、こちらをお渡ししましょう」
「………」
エドウィンは黙って目を閉じた。
「強情ですね。それもいつまで持つかな」
クリストファーはエドウィンに水袋とナッツの入った袋を差し出す。エドウィンは驚いた様子で彼をみつめる。
「…なんのつもりです?」
「本当に死なれては、後始末が大変ですからね。今日のところはお渡ししましょう」
エドウィンは恐る恐る袋を手に取った。
「レイラがあなたを探していますよ」
「…そうですか」
きっと心配しているだろうと思うと、エドウィンは胸が痛んだ。ここでは、連絡の取りようがない。
「街中を歩き回ったそうです。昨日は猫、今日はあなたを探して、疲れているようでしたよ」
「…彼女は、簡単にあきらめる性格ではないでしょうね」
エドウィンはレイラをそう評したが、エドウィンだって彼女のことをそんなに深く知っているわけではない。けれど、彼女ならそうだという気がした。
「護衛を信じていおられるのですね。ですが、目撃者がいるんですよ」
「目撃者?」
エドウィンは首をかしげる。
「あなたが街からでていったという目撃者。その人さえいれば、レイラも諦めるでしょう」
「…! 誰かに目撃者のふりをさせたんですね、あなたの策略ですか?」
エドウィンは立ち上がってクリストファーに近づこうとした。すると、彼は鞭を振るった。
「うわっ…!」
「私に近づかないでください。怪我をしたくないならね。しかし、策略とは人聞きが悪いですね。私は物事を合理的に運ぶようにしただけです」
「あなたの思い通りに、ですか…?」
鞭で打たれた手をエドウィンは押さえた。じんじんと腕が痛む。あざになっていた。
「そうです。そしてそれが女神のご意志なのですよ。私に請願者を務めろというね」
「女神はそのようなこと、お許しになりません」
エドウィンはまっすぐにクリストファーをみつめる。
「何を言っているのですか? 逆に聞きましょう。お許しにならないのなら、何故あなたはここから出られないのですか?」
「それは…」
エドウィンは言葉に窮した。
「答えられないでしょう。あなたのような無力な司祭は、私の言うとおりにしなければならないんですよ」
「…いいえ」
エドウィンはかぶりを振る。
「女神は見ていらっしゃいます。あなたのことも私のことも。必ずあなたは後悔することになります」
「あははは! あなたは面白い方だ。自分の無力さを棚に上げて、よくもそんなことが言えますね。…いいでしょう」
クリストファーはぴしゃりと床に鞭を打ち付けた。
「あなたがどこまで耐えられるか、確かめさせてもらいましょう。女神の意向がどこにあるか分かりますよ」
「待ってください!」
部屋を出ていくクリストファーを追いかけようとして、エドウィンは再び鞭で打たれた。エドウィンが怯んだすきに、クリストファーは隠し部屋を呪文を唱えて施錠して出て行った。
「くっ…」
鞭で打たれた腕を撫でて、エドウィンは地面に座り込む。
「はあ…」
にゃあ、と白い猫がそばに寄ってきて鳴く。エドウィンは上着を脱ぐと、猫にかけてやった。
「あるじ様」
人型になったスノウが上着を着て、エドウィンのそばに座る。
「ごめんなさい。あなただけを逃がすつもりだったんですが、うまくいきませんでしたね」
「いいんです、そんなの。あいつに鞭でぶたれたところ、痛くない?」
「平気ですよ、このくらい。ここにいる動物たちの痛みに比べれば」
鞭で打たれた跡を残している動物たち。水も少なくなり、汚物もそこら中に垂れ流されていて、臭いも充満している。
「…この動物たちを世話している人もいるはずですよね。クリストファーはやらないと思います」
「そうですね。この惨状を知っている人がほかにもいるのでしょうね。その人がやってきたら、懐柔することができればいいのですが…」
エドウィンは床に置いていた水袋とナッツの袋を手に取る。
「スノウ、お腹が空いたでしょう。食べてください」
「あるじ様、スノウは大丈夫。食べてください」
「いいえ、そんなことは」
「スノウ、猫になられるから、お腹あまり空かないんです。水もちょっとで平気。だからあるじ様、食べて」
スノウはそういって、人型から白猫になった。
「…ありがとう、スノウ」
エドウィンは水袋から水を飲んで、スノウにも与えてやった。ナッツを食べ、水の残りは動物たちにほんの少しだが分けてやった。
天井の天窓を見上げて、エドウィンは息を吐く。
月も星も見えない。
それでも、エドウィンの照明の魔法で、部屋の中はぼんやりと明るかった。
「目撃者がいたんですか?」
クリストファーは驚いた様子だった。
「ええ。私が待合馬車へ話を聞きに行った時、エドウィン様を見たという子供に会いました。一人で街を出て行ったそうです」
「そうでしたか」
さもありなん、とクロスとファーはうなずいた。
「やはり、請願者でいるのがお辛かったのでしょう。仕方ないことです。重圧に耐えられないのなら、潔く身を引くしかないでしょう」
「…そうですね」
レイラは淡々と同意する。
「私は教会の本部へ戻らなければなりません」
「ああ…。そうでしょうね。護衛する司祭がいなければ、そうなるでしょう。…ところで、セレーネ像はエドウィン様が持っていらっしゃるのですか?」
「…いいえ。私が持っています」
レイラは自分の道具袋を撫でた。
「これも護衛の仕事です。本部へ戻ったら、新たな請願者を決めるよう指示を仰がなければ」
「それでしたら、私を推薦していただけませんか?」
「クリストファー様を?」
レイラは驚いて聞き返す。
「ええ。私は幼いころから女神セレーネの請願者として生きるよう教育されています。役目を途中で投げ出すような中途半端なことはしませんよ」
レイラはじっとクリストファーをみつめる。クリストファーはにっこりと微笑んだ。
「…わかりました」
目を伏せてレイラはそう答えた。
「それでは、いつ教会を発たれますか?」
修道女のアリソンがレイラに尋ねる。
「お世話になりましたし、ここの教会の掃除をお手伝いしてからにします。ですから、明後日には」
「まあ、いいんですよ。教会の掃除は私たちの役目ですし」
「お世話になっておきながら、それでは私の気が済みませんので」
「そうですか。では、明日は私がおつきあいしますね」
「…ありがとうございます」
監視つきか。レイラは内心舌打ちした。
エドウィンは教会のどこかへ軟禁されているのではないか、というのがレイラの出した結論だった。
こんなにも彼を見かけたという人間がいないのがその証拠だ。
目撃者の少年は、エドウィン一人で街の外へ歩いて行ったという。
エドウィンがスノウを置き去りにして街の外へ出るはずはない。まして、歩いていくなんて無謀なことはしないはずだ。外には魔物がいる。司祭が徒歩で街の外を出歩くのは自殺行為だ。エドウィンはそこまで馬鹿ではない。
クリストファーはエドウィンの消息を知っているはずだ。あの少年はそのために利用された。誰かに言うように指示されたのだとすれば、彼しかないだろう。
エドウィンがいなくなって得をするのは、クリストファーだ。請願者になるために、レイラにあんな作り話をしたのではないだろうか。
疑惑が頭をもたげる。
クリストファーは信用に値する人物とは限らない。
レイラはアリソンに指示された通り、廊下や食堂を隅々まで掃除した。修道士や修道女の宿舎は自分たちでするので、と断られた。
聖堂も慣れた者がするのでと断られ、遊戯室や談話室、窓拭きもした。
「慣れていらっしゃいますのね」
アリソンが感心して言う。
「自分たちの住む場所を磨き上げるのも私たちは当然にしていましたから。護衛は武術ばかりしているわけではありません」
「そうなんですね。それで体も鍛えて、素晴らしいことですわ」
アリソンが微笑んだ。
「動物たちの部屋もありましたね。あそこも…」
「いえ、あそこも専門に掃除している者がおりますので、大丈夫ですよ」
「…わかりました」
深く考えず、レイラはそう返事をした。
窓を磨いたタオルは、それほど汚れていない。いつも清潔に保っているのだろう。レイラはふうっと息を吐いた。
「レイラ、いいですか?」
クリストファーは夕食後にレイラを聖堂へ招いた。
豪奢なステンドグラスに、金箔を貼った椅子や大理石の床。そのどれもがとても贅をつくしたものだ。女神像も大理石でできている。
「どうされました? クリストファー様」
「あなたに聞いてほしいお話があるのです」
クリストファーは信者が座る椅子に腰を下ろすようレイラに勧める。レイラはいわれるままに座った。クリストファーも隣に腰を下ろす。
「私は幼い頃より、請願者になるよう両親に言われてこの教会へ入りました」
「そうだったんですか?」
レイラはあまり驚いた様子もなく聞き返す。金持ちの子が教会に入るなら、請願者は一種のステータスだ。そう望まれることも少なくないだろう。選ばれるかどうかは別として。
「クリストファー様は育ちがよいようですから、富裕層の出身でしょう?」
「ええ。ですが、母が生まれつき病弱で、私が6歳の頃に亡くなりました。父は仕事に忙しくて私にかまける暇などなくて…。寂しい少年時代でしたよ」
「そうだったんですね」
レイラは話を促す。
「その母が、死の間際に私にセレーネ教の請願者になってほしいと言ったのです。教会へ入ったのは12歳の時ですから、その頃からひたすら請願者を目指して努力しました」
「そうでしたか…」
「遅くまで女神書を読み、慣れない掃除や洗濯もどうにかこなしました。最初は手が痛くて、あかぎれもひどかった。この教会も昔はこんなに大きなものではなく、寄付を募って大きくしたのです。だから、今は街の人は皆、セレーネ教の信者となりました」
「努力されたのですね」
「ええ。貧しい者たちには寄付は望めませんから、富裕層からの寄付を募るため、動物たちの保護をお願いしました。ひとによっては動物を利用したと思う方もいるかもしれませんが、人の信頼を得るために必要なことだったのですよ」
レイラはうなずいた。そして、「わかりました」と答えた。
「クリストファー様がどれだけセレーネ教のために心を砕かれたのか」
「わかってくれましたか…。ありがとう、レイラ」
クリストファーは微笑んだ。
「私のことを請願者に推薦してくれますね?」
「考えておきます」
レイラはうなずいた。
「どうです? 気は変わりましたか?」
夜になり、エドウィンのいる隠し部屋へクリストファーがやってきた。
床に座っていたエドウィンは立ち上がり、クリストファーに掴みかかった。
「何っ…」
「私をここから出してください! もう耐えられません! こんなひどい臭いのするところに一人でいて、荒れた動物たちに囲まれて、頭がおかしくなりそうです!」
「はっ…だったら、請願者を諦めなさい!」
クリストファーはエドウィンを蹴とばした。エドウィンは動物の汚物が転がった地面に倒れる。
「うっ…」
「はは、なんて姿だ。とても請願者には見えませんね。ここを出たければ、さっさと私に請願者を譲りなさい」
クリストファーは嘲笑って、壁にかけた鞭を手に取り床をたたいた。
「…あんまりです、クリストファー様」
「それはあなたの自業自得でしょう」
「請願者は譲れません」
エドウィンはきっぱりと答えた。
「強情な方ですね。ですが、もういいでしょう。あなたに譲ってもらう必要もなさそうです」
「…どういうことですか?」
エドウィンは怪訝そうに尋ねる。
「レイラが私を請願者に推薦すると言いました」
「!? まさか…」
「事実ですよ。やはり、請願者にふさわしい人間というのはわかるものです」
「そんな…そんなはずありません!」
「やれやれ。事実も受け入れられないとは、可哀そうな人ですね」
クリストファーは鞭で床をたたいた。檻の中の動物たちがうなった。
「最後の機会です。私に請願者を譲ると言いなさい」
「…それは、できません」
「なるほど。では、ここで正気を失うといいでしょう」
「待ってください…!」
エドウィンが追いかけようとすると、クリストファーは容赦なくエドウィンを鞭でたたいた。
「痛っ…! やめてくださいっ…!」
「あなたにはその姿お似合いですよ。…施錠」
クリストファーは再び扉に魔法をかけて出て行った。
そのとき、クリストファーは気づかなかった。エドウィンが彼につかみかかったとき、白い猫が隠し部屋から飛び出していったのを。




