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【短編】 「愛することはない」と言われた皇太子殿下の仮初め婚約者ですが、ひとときの自由を満喫します!(人質王女の私には秘められた力があるようです)

作者: 清川和泉
掲載日:2022/11/29

ご覧いただき、ありがとうございます。

「君に、私の婚約者になって欲しいんだ」


 美しい満月の夜。

 今宵、ブラウ帝国・皇宮内の舞踏場では、同国の皇太子の就任パーティーが開かれていた。

 その最中(さなか)、彼らは人気のない中庭でお互いに向き合いながらも、それぞれ少し離れた場所で立っていた。

 会場内で奏でられている弦楽器の心地のよい音色が、微かに耳の中で響く。


「婚約者……」


 クレアは思ってもみなかった皇太子からの言葉を聞いた途端、全身から力が抜き出ていくのを感じた。

 おそらく、クレアが現在置かれている()()()()()という状況から考えられる持ちかけられる可能性の事柄から最も遠いものだと思われる「婚約」の申し出。


 相手を間違えていないだろうか。

 

(そうだわ。婚約を解消すること自体は中々難しいだろうし、……もしかして)


 真っ直ぐに自分自身を見つめるアーサーと視線を合わせると、何か物悲しい憂いのようなものが瞳に含んでいるように感じた。


(皇太子殿下の婚約者になるはずだったイリス様が、第一皇子様と婚約を解消するまでの間の、()()の婚約者が欲しいのかもしれないわ。確か皇太子に就任したからには婚約者が必要になるはずだし……)


 ──つまりクレアは、皇太子の期間限定の仮初めの婚約者に選ばれたのだ。


(確かに、人質の王女の私は実質何の後ろだてもないし、婚約を解消することも国内の令嬢と比べたらきっと容易にできるのかもしれない)


 それならば、二人の仲を応援するためにも一肌脱ぐのも悪くない。

 ……ただ、イリスが無事に第一皇子と何の後腐れなく、婚約を解消することができればよいのだが……。


 軽く深呼吸をしてから、アーサーから視線を逸らさずに告げた。


「……承知いたしました。婚約をお引き受けいたします」


 アーサーも軽く息を吐く。


「……ありがとう。これからよろしく頼む」

「はい」


 その感謝の言葉はとても嬉しかったのだが、クレアのどこかがチクリと傷ついたように感じたので、気がつけば彼女はにかむような笑顔を浮かべていた。

 その表情を見たからなのか、アーサーは小さく手のひらを握って胸に当てた。


「クレア王女。これから君には私の婚約者として過ごしてもらうことになるが、私が君を愛することはない。それが婚約の条件だ」

 

 なにも、仮初めの婚約者の自分を愛する必要はないのでは、とクレアは首を傾げたが、アーサーの瞳があまりにも真剣だったので疑問は口に出さないことにした。


「承知いたしました。常に心に留めるようにいたします」

「君はそれでも良いのか」

「はい、一向に構いません」


 アーサーは目を細めて小さく息を吐いた。


「だが、引き受けてくれた以上、君の望みは叶えたい。何でも言って欲しい」

「望み……ですか?」

「ああ」

 

 今までそのような問いを人から投げかけられたことなどなかったから、戸惑う口が吃ってしまう。

 だが、純粋な日頃からの要望が自分の中で渦巻いていることに気がつく。


「……自由が欲しいです」

「自由?」

「はい。……一日のほんの僅かな時間で構いません。自分自身が望んで使える時間が欲しいのです」


 自由な時間。それは今のクレアにとってはとても贅沢なことだ。

 というよりは、この国に人質として連れてこられてからこれまでそのような時間などあっただろうか。


 それにそのような時間が持てれば、仮初めの婚約者の役目が終わった後、自分自身で身を立てて自力で生きていく力を身につけられるかもしれない。

 そう思考を巡らせると、その望みが叶えばよいという気持ちが高まるが、あまり期待しすぎてもよくないと自戒の念を込めた。


「……分かった。できうる限り取り計らおう」

「……ありがとうございます」


 まさか、聞き入れられるとは思ってもみなかったので、半分生返事で応えてしまった。


「……ありがとう。これからよろしく頼む」

「はい」


 ◇◇


 隣国ユーリ王国の第三王女のクレアは、幼い頃に騙し討ち当然にブラウ帝国に連れて来られた。


 現在は、皇女宮で二人の皇女らから下女の着るお仕着せを着るように強要され、毎日皇女宮内の掃除や給仕を行うなど、とても一国の王女とは思えないような仕打ちをされながら暮らしていた。


 加えて、食事は一日二回のパンのみで、たまにサラダももらえるという残念な内容だ。


 しかも、一応部屋は割り当てられているが、それは「一体どこから持ってきたのだろう……」と思うほどの朽ちたベッドが置いてあるだけの皇女宮内の物置である。

 ちなみに、毎日食事はそこで摂るように言い付けられていた。


 そんな最中、出席した皇太子就任パーティーで皇太子から先ほどの申し出を受けた。

 以前に人づてで、「皇太子には婚約が決まりかけていた相手がいる」と聞いていたクレアは、その相手が公女イリスだと考えて現在第一皇子の婚約者である彼女が婚約を解消するまで、繋ぎの婚約者を演じることにしたのであった。


 ◇◇


「さあ、着いたようだ」


 アーサーと護衛騎士たちと共に馬車に乗り込み、本宮から第二宮へと移動した。

 そして到着するとアーサーが一足早く下車し、クレアの手を取りエスコートをする。

 馬車に乗ること自体が久しくなかったし、父親や兄以外の男性にエスコートをされる、ましてや手に触れることなど初めてだったので体が自然と強張っていくのを感じた。


 気が昂まって、鳴り響く鼓動の音を聞きながら馬車のステップをゆっくり踏んで降車すると、目前には広大な宮殿が建っていた。

 皇女宮も広く豪華な建物だと思っていたが、この第二宮は軽く見ただけでもゆうにその三倍以上はあるように見える。

 そして外観はまさしく絵に描いたような宮殿だった。


「凄く……立派な建物ですね……」


 知識が乏しいので月並みな感想しか伝えられそうにない。


「今日から君もここに住むんだ」


 アーサーは、少しだけ口元を緩ませクレアの手を優しく取り、歩みを進めた。

 すると玄関の扉に近づくと両脇に控えていた近衛騎士たちがすぐさま扉を開いた。


「「お帰りなさいませ、皇太子殿下、クレア様」」


 扉の先にはズラッと両サイドに立ち並んだ使用人たちが出迎えてくれた。

 よく見てみるとお仕着せを着た女性やフットマンのコートを着た男性、それから貴族用のコート服を着た男性など様々な人々が二人を出迎えたのだった。


「ああ、ただいま戻った。皆、今日から改めてよろしく頼む」

「「はい!」」


 周囲の人々は皆、穏やかな表情でアーサーを見ているようだった。


「皇太子殿下。こちらの方はご報告を受けた婚約者のクレア様に相違ありませんね?」

「ああ、そうだ。彼女も今日からここに住むことになったので皆準備を頼む」

「「はい、かしこまりました‼︎」」


 そうして、クレアの仮初の婚約者生活の幕が開いたのだった。


 ◇◇


「あの……一人で入れますから……」


 あれからクレアは、離宮の一階の奥にある大浴場の手前にある脱衣所に侍女らによって連れて行かれた。


 クレアは、この帝国に連れて来られてからこれまでお風呂になど殆ど入ったことがなかった。

 というのも、普段は洗面器に張った湯で濡らた布を固く絞り清拭(せいしき)をして過ごしていたのだ。

 

 また、皇女宮には豪華な大浴場が常設されていて、クレアも連れてこられた当初は使用することができたのだが、下女の服を着るように強制されてからは大浴場の使用も禁止されてしまった。

 なので、昨日まではやはり清拭をして過ごしていたのだった。


 だから、クレアは一国の王女であるにも関わらず殆どお風呂に入ったことなどなく、ましてや誰かに身体を洗ってもらうことなど久しくなかった。


「いいえ、これからは皇太子殿下の婚約者様としてこの離宮でお過ごしになられるのですから、お世話はわたくしたちにお任せくださいませ」


(そうだわ。ここで私が拒否し続ければ、この方の仕事を奪うことになってしまうかもしれない)


「……分かりました。それではお願いできますか?」


 途端に、侍女の表情が更に明るくなった。


「もちろんです! それではクレア様、失礼をいたします」


 侍女は丁寧な手つきでクレアの身につけるドレスを一つずつ脱がせていく。

 コルセットも外してシュミーズ姿になると、彼女の手が止まった。


 クレアの身体は痩せ細っていた。

 長年一日に二食のパンに、一週間に一度皇女の気まぐれにサラダを食べられるという生活をしていればそうなるのも無理もない。


 こんな見窄らしい身体を、何度も人の目に晒したくなかった。

 気になって侍女の方を見上げてみると、特に動じず先ほどと変わった様子はなかった。


 胸を撫で下ろすと、いつの間にかシュミーズも脱いでいて、お風呂場に移動していた。


「凄い……とても広いのね……!」


 大浴場はとても広かった。

 加えて天井も高く浴槽は十人くらいもの大人が浸かってもまだ余裕がありそうなほど広い。なんなら泳ぐことも可能だろう。


 とはいえ、皇女宮の浴室もとても広かったが、ここはその比ではないほど広く、室内の材質や調度品の質などどれをとってもこちらの方が遥かに上質のように感じる。


「それではクレア様」

「……はい、お願いします」


 国によって入浴の作法などは違うことが多いが、このブラウ帝国も祖国ユーリ王国とは違い、すぐに入浴するのではなくまず洗い場で身体を清めてから入浴するのだ。

 尤も、クレアは殆どこの国で浴槽になど入ったことなどないが、それでも一応皇女宮で入浴は経験していた。

 

 浴室用の椅子に腰掛けると、侍女が洗浄用に布を優しく身体に当ててくれた。

 貴重な石鹸も上手に泡立ててくれて自分の身体が泡に包まれていく。


 そうして、クレアは久方ぶりに入浴を満喫することができたのだった。


「とても素敵なお風呂でした……」


 夢のような時間だった。

 浴槽のお湯にゆっくり浸かることなど、一体何年ぶりだっただろう。


 おそらく、人質になる前のユーリ王国に住んでいた時は毎日とはいかなくても、週に何度かは浴槽に浸かっていたとは思うのだが、遠い記憶なのでうっすらとしか覚えていなかった。


「それは、よろしゅうございました」


 侍女が、クレアの亜麻色の髪を丁寧にブラシで梳かした。

 クレアは、つい先ほどまで自分も身体を動かして働いていたので、ただ身の回りのことをしてもらっているこの状態がとても落ち着かず、申し訳なさが湧き上がってきた。

 

「とてもお美しいですわ」


 なまじ、自分自身にかけられた言葉だとは気が付かず、クレアはしばらく無反応でいた。

 だが、侍女がその後も柔かな表情を自分に向けていることに気がつくと、ここでようやくこの言葉は自分に向けられた言葉なのだということに気がついた。


「そうでしょうか……」

「ええ、もちろんです。それではクレア様、こちらをお召しいただきたいと存じます」


 侍女の手には、上等な絹で織られたネグリジェが抱えられていた。

 軽やかな動作で瞬く間にクレアはネグリジェを身につけると、その絹の滑らかさに感動した。


(こんなにも、肌に馴染む夜着があるなんて……)


 これまでクレアに支給されていた夜着は素材が木綿であり、素材自体は悪くはないのだが、これもまた「どこで入手してきたのだろうか」と思うほど痛んでおり、まさしくボロを身に纏っているようだったのだ。


「もう時間も二十一時を過ぎておりますので、今日のところは一旦私室にお戻りいただきまして、そちらで軽食を召し上がっていただいてからゆっくりとお過ごしいただきたいと存じます」


 夢のような言葉が何度も聞こえた。


 今侍女はなんと言ったのだろうか……?

 「軽食」だとか「ゆっくり過ごす」とか、何やらこれまでのクレアの人生とは全く縁のなかった言葉が聞こえたようだが……。


「皇太子殿下は、明日の朝食の際にお会いするとのことです」


 一気に思考が現実に引き戻された。


 そうだ。自分はあくまでもイリス公女が第一皇太子と婚約を解消するまでの間の繫ぎの仮初めの婚約者だ。

 その役目を忘れることはあってはならない。


「分かりました。それでは今夜はこのまま私室へと戻ります。ご案内は可能でしょうか?」


 途端に侍女の表情が明るくなった。


「もちろんでございます」

「ありがとうございます」


 皇女宮では誰かに優しく微笑んでもらえることなど一切なかったので、不慣れなため心がくすぐったかった。

 だが、侍女の和らかな雰囲気に包まれると、もう少しこのままでいたいと思うクレアであった。


 それから、侍女に連れられて廊下を進み階段を登ると、突き当たりの部屋の前で歩みを止めた。


「こちらが本日からクレア様にご利用いただきますお部屋でございます」

「ご案内、ありがとうございます」


 仮初めの婚約者になることは、つい先刻、ほぼ成り行きで決まったことなのに、もう自分の部屋が用意されていることは全くもって意外だった。


 おそらく、第二宮の使用人たちは相当優秀で主人に忠実で仕事が早いのだろう。


 クレアは、これまで物置だった部屋に無理矢理朽ちたベッドを持ち込んで居室とされて住んでいたのだが、今回はどのような物置なのだろうか。

 ふと、そんなことを思いながらリリーが開けてくれた扉の先に一歩、踏み込んでみる。


 ──すると、そこはクレアの予想と全く反して物置部屋などではなく、広大な居室であった。


 居室に広大などいう表現はそぐわないのかもしれないが、ともかく広いのだ。


 皇女の部屋には踏み入る許可がなかったので比べることはできないが、目前の部屋は何かのイベントを開催しても問題がなさそうなくらい広く、このような広い部屋をクレアはこれまで目にしたことはなかった。

 二間続きとなっていて、どうやら活動を行う部屋と寝室が分かれているようだ。


 身体を硬直させて動けずにいると、傍にいる侍女が急に膝を折って頭を下げた。


「クレア様。ご居室はお気に召しましたでしょうか」


 振り返るとそこには穏和な表情を向けた女性が立っていた。見たところ三十代後半といったところか。


 身体も思考も未だに固まっているし、侍女には申し訳ないのだが、そもそもこの部屋が自分に割り当てられた部屋だということ自体は間違いないのではと思考を巡らせていたところだった。


「……はい。……このような素敵なお部屋をご用意していただき、とても嬉しく思います」


 何とか、思考を搾り出して伝えることができたので心の中で小さく安堵の息を吐くが、まだ気を抜くことはできそうになかった。


「そのような温かいお言葉をいただきまして、安心いたしました。わたくしは本日よりクレア様の専属の侍女長を拝命いたしましたサラと申します。よろしくお願いいたします」

「サラ様ですね。こちらこそよろしくお願いいたします」


 サラは微笑んだまま、首をゆっくりと横に振った。


「クレア様。わたくしに対して敬称は不要でございます。何なりと敬称を付けずにお呼びください」

「……左様ですね。分かりました」

 

 とはいえ、これまでの習慣から侍女には敬称をつけて呼んでいたので今更変更するのは中々難しそうだ。


「調度品などは最低限のものは揃えてはありますが、何かご入用であればその都度に何なりとお申し付けくださいませ」

「……はい、ありがとうございます」


 居室に一歩踏み込むと、そこには見間違えかと思うくらい上質なソファやテーブル、天蓋付きのベッドが広々とした室内に然るべき場所に置かれていた。


 反射的に汚さないようにと直立しそれらから離れていると、サラがワゴンを押して入室して来た。

 そのワゴンにはカバーがかけられており、ケイトはそれらをテーブルの上に一つずつ丁寧に載せていく。


 瞬く間に周囲に湯気が立ち込め、良い香りがクレアの鼻腔をくすぐった。


 瞬間それらの方を見ると、温かいポタージュスープやハムとチーズを挟んだバケット、彩り豊かなサラダが並んでいた。

 それらを目にすると、これは夢なのかと思うほど現実味がなく感じるが、間違いなく良い香りが漂っているのでこれは現実なのだと実感した。


「既にパーティーでお料理をお召し上がりになられているかと存じますが、コルセットを締めた状態では中々食事もままならなかっただろうと皇太子殿下からのご配慮でございます」


 思わず耳を疑った。

 何故皇太子が、自分のことをこのように気にかけてくれるのだろうか。

 そもそも彼は、イリス公女のことを想っているはずなのに、クレアに対してこのように配慮をする理由がわからかなった。


(いいえ、きっと婚約者だと偽装しているからこそ、周囲を欺く必要があるのだわ)


 そもそも、クレアがこれまで生きてきた世界が異常であって、通常であれば他人に対してこのような配慮をすることは何も特別なことではないのかもしれない。


(それでも……私にとっては……とても特別なことで……)


 クレアは目の奥から熱いものが込み上げてくるのを必死に抑えながら、椅子に腰掛けて目前のスープをスプーンで掬って口にする。

 すると、コーンの芳醇な香りが身体の中で自然に溶けて、心がホッと落ち着いたように感じた。


「……とても美味しいです……」


 そう言って微笑んだクレアの目から、一筋の涙が溢れた。


 サラは取り乱すことなく、クレアにハンカチを差し出してくれた。

 ああ、ここでは自分自身の弱さを他人に見せても否定されないのだ。


 そう思い、そのことのありがたさを噛み締めながら、残りの料理をゆっくりと味わったのだった。


 そして、食事が終わってからは椅子に腰掛け食後に休息をとっていたのだが、酷く疲れているのか睡魔が猛烈に襲ってきたので、今日のところは就寝することにした。


「それではおやすみなさいませ、クレア様」

「はい、おやすみなさい」


 侍女に就寝の準備をしてもらいベッドに横になると、そのふかふか加減に心底驚いた。

 この世にこのようなふかふかで、寝心地の良いベッドが存在していたとは……!


 これまで、寝ていてよく倒壊しないなと思うほど横になるとギシギシと音を立てるベッドだったからか、今横になっているベッドのふかふか加減が、より心身を優しく包み込んでくれているように感じるのかもしれない。


(ここは天国だわ……)


 あくまで自分は仮初めの身なので、ここにいられるのはそう長い期間ではない。

 加えて、ここは敵国であり敵国の皇太子であるアーサーや侍女らにも安易に心を開いてはいけないと頭では分かってはいた。


 だが今は、与えてもらった幸せに感謝をして、少しでも誰かの、皇太子であるアーサーの役に立ちたいとクレアはぼんやり思いながら、眠りについたのだった。


 ◇◇


 そして時が流れ、今日はクレアとアーサーの婚約式の日だ。


 朝から第二宮中では、侍女や下女たちが忙しく動き回り支度を整えていた。


 婚約式自体はこの後午前十時ごろから敷地内の礼拝堂で行うので、今は主にクレアとアーサーの身支度を行っているのだが、ある侍女の悲鳴から婚約式事態に暗雲が立ち込めた。


「きゃあああああああ‼︎」


 自室で侍女たちと共に婚約式の最終確認をしていたクレアは突然の悲鳴に驚き、その声の方向へと走り出した。

 幸い今身につけているのは簡易的なドレス、ラウンド・ガウンであるので、走るのは問題なかった。


 作法的には非常に不味いが、咎めなら後で受けると内心思いながらその声が聞こえた部屋へとたどり着いた。

 普段、全速力で走ることなど無いので、到着した途端に呼吸が乱れるが、必死に整えながら室内を確認すると──


 そこには、トルソーに掛けられたズタズタに切り裂かれた婚約式衣装が置かれていた。


 あまりの事態に、クレアは自分の目の前で今、何が起きているのかを理解をすることができずにいた。


「……これは何ですか……?」


 ほぼ放心状態で、抑揚の無い声で呟いた。

 目前で起こっていることが認識することができない。そのトルソーには婚約式で着るはずの衣装がかけられていたはずである。


 それなのに、実際に目の前にあるのは見るも無残な元の姿とはまったく異なる布切れとなった存在だった。


「クレア様……」


 クレア付きの侍女は身を震わせて振り返った。その表情は固く凍りついている。


「まさか……これは……」


 侍女は目を閉じて大きく息を吐くと、小さく頷いた。


「はい……。先ほど衣装を移動するために参ったところ……既に……このような姿に……」


 それは紛れもなく婚約式の衣装だった。

 

「………………」


 言葉がでてこなかった。

 大切な衣装だったのに。それがみるも無残な、ズタボロな姿に成り果ててしまった。

 思考が停止する。誰かの仕業なのかもしれない。その思いが掠めるが、だが停止する。


「大丈夫か?」


 どうやら、思考が停止してから幾らかの時が流れていたようだ。

 気づいた時には、先ほどの侍女の姿はなく代わりに目前にアーサーが立っていた。


 音が、時間が、一気に身体に戻ってきたように感じる。


「アーサー様……」


 人は真の衝撃に突然見舞われた時、身体が硬直し思考は閉ざされ言葉を発することができなくなると人づてに聞いたことがあったが、まさに今クレアはその状態であった。


 アーサーは真っ直ぐトルソーの方を見ていた。


「……至急、衣装を切り裂いた輩の捜索を行うように取り計らう。……クロ」

「はっ!」


 どこからともなく、黒の衣服を着用した黒髪の男が現れた。


「ことの収束に速やかに当たれ」

「御意」


 次の瞬間には、その男は室内から姿を消していた。まるで先ほどの出来事など始めから何もなかったようだ。


「クレア、すぐに替えの衣装を用意させる。式は問題なく開始できるだろう」


 俯くクレアの肩に手を置くと、反射的に彼女はアーサーを見上げた。

 アーサーは大きく目を見開いた。おそらくクレアが大粒の涙を流しているからだろう。


「……駄目です……」


 この事態は駄目だ。

 これまで散々悪意は向けられてきたし嫌がらせもされてきた。だが、この衣装に手を出すのだけは許されないことだと強く思った。

 この衣装は、先日仕立て屋に赴きアーサーと共にデザインを決めた大切なものだったのだ。


「……大切な想い出の詰まった……大切な衣装だったんです」

「クレア……」


 アーサーは、クレアの涙をそっと自身の指で拭った。


「大丈夫だ。衣装は切り裂かれても想い出は決して消えはしない」

「……想い出は……消えない……」


 その言葉を飲み込んだ瞬間、クレアの中に一気に渦巻いていたドス黒い感情が綺麗な光によって浄化されていく、そんな感覚が過った。


 ──マイナスからプラスへ。


 クレアは無意識にトルソーに右手を翳した。

 すると瞬く間に白光が衣装を包み込み室内中に光が広がり、それは優しく温かみのある光だと感じた。


「私にとって、とても大切な衣装だった。だから────!」


 破れた衣装を両手で抱え込むと、それ自体が光に包み込まれていった。

 眩い白い光。何処までも温かく心地の良い光だった。


 そして、目を見張るような出来事が起きた。

 ズタズタに引き裂かれた衣装が光に包まれ、修復を始めたのだ。


「……一体、何が……?」


 クレアもアーサーも呆然と目前の光景を見ていたが、十秒も経たぬうちに完全に元の姿を取り戻した衣装を目の当たりにするとクレアの身体が小刻みに震え出す。


「あ、あの……、い、今のは……」


 直感で、今の出来事は何だったのか悟ることはできていた。

 だが、その旨を言葉にする勇気はまだ気が動転してできそうになかった。


「君は今……」


 アーサーも何かを言おうとしたが、震える彼女の身体に気がついたからか、少し間を置いてから切り出した。


「君は、魔法使いなのか?」

「魔法使い……?」

 

 魔法使いはこの帝国において総人口の一割にも満たないほど少なく、その代わり彼らは生まれた時から貴重な人材として丁重に帝国に管理をされていた。

 当然、クレアも幼い頃に連れて来られてきた当初に魔力鑑定などは受けたのだが、魔法使いではないと鑑定されたはずである。


「い、いえ。私は魔法使いではないと鑑定されているはずですが……」


 だが、だとしたら先ほどの現象の説明がつかなかった。

 何故なら先ほどの現象はどうみても非科学的であり不可思議なものだったからだ。


「……ともかく、このことは私と君の間の秘密にしよう。幸い今ここにクロはいないし、先ほどの侍女には根回しをしておけば問題はないだろう。……このことが万が一皇帝に知られたらまずいことになるだろうから」


 背筋が凍りつくようだった。

 自分に何か未知なる力があるとはまだ判断がつかないが、先ほどの現象を皇帝が知ることになったらおそらく利用されるか、それとも強力な力を持った人間は不要と始末されるか……。


 ともかく、どちらも想像するだけで恐ろしく蹲くまりたくなった。


「……分かりました」


 そうして、アーサーとはクレアにとって最大の秘密を共有することになった。

 だが、クレアは何故か不思議とそのことに対して嫌悪感や不安感は抱かず反対にどこか安堵感を抱いていたのだった。


 これから、クレアはアーサーと共に様々な経験をし、その不思議な力で周囲の人々やクレア自身にとっての幸せを呼び起こしていくのである。


(短編版・了)

今作を、最後までお読みいただきましてありがとうございました!


もし、少しでも面白いと思っていただけましたら、今後の励みになりますので、ブクマ、スクロール先の広告の下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎でのご評価をいただけたら嬉しいです!


★今作は、現在連載中の作品の短編版となります。


続きが気になっていただけましたら、下にリンクがありますので、覗いていただけますと幸いです。

なお、連載版は1話から短編版と構成等が異なります。

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