300話 私のお兄様
王太子妃になるべくを精進するリリアンにとって、ちょっと声を上げたくらいで叫んだと言われるのは心外だ。なのでそこのところを説明しようとしたのだけれど、お兄様に全然通じなくって・・・。
「え〜っとですね、お兄様。
さっきの声は、ベアトリス侯爵夫人にお聞きしたフィル様があまりにも可愛かったので、思わず出てしまっただけなのですよ」
「は?
可愛い?
殿下が??
叫び声を上げるほど???」
「いいえ、叫び声ではなくて歓声ですよ」
「殿下の話なら可愛いではないだろ、可愛いでは。
いったいどんな話をしてたんだ!?」
「え?だからフィル様が可愛い話です」
二人の会話を聞いていたカトリーヌは思わずクスクスと笑ってしまった。
彼女は奇しくもニコラのクラスメイト。普段のニコラをよく知る人物だ。
(リリアン様とニコラ様が普通の兄妹みたいな会話をしているわ〜!!
今日は急に王宮にご挨拶に来ることになって、王太子殿下が大層大切にしているという特別な少女は王宮でどんな取り澄ました顔をして暮らしているのかしらって思って来てみたら、全然そんなことなくて、自然体でとっても可愛らしい方だった。
それにニコラ様の方は学園では無口であんまり細かいことにこだわらない感じなのに、妹相手には結構言うのね!なんだか裏の顔を知れた気がして嬉しい!今日は来て良かったわ〜!!)
第三者の笑い声に、そういえばまだ挨拶をしていなかったと気が付いて、ニコラは遅まきながら客人の方に向き直り「アングラード侯爵家の皆さん、いらっしゃいませ」と会釈した。
その挨拶にカトリーヌは驚いた。
だって伯爵家の子息が侯爵相手にするには余りに簡単過ぎるものであり、王太子が最も重用する側付きとして鳴らしているニコラとは思えないほど礼を欠いていたのだ。
これでは礼儀、特に侯爵である自分に対する若い貴族の非礼に対してうるさい父が黙っていない。
しかし、カトリーヌの予想に反して侯爵夫妻はニコニコと上機嫌だ。
「おお、久しぶりだね」
「ニコラ様はますますご立派になられて。ご両親もさぞ鼻が高いことでしょう」
それに対してニコラの父クレマンが笑顔で返す。
「ハハ、そうですね。王太子殿下に可愛がっていただけるのは真に有り難いことです。しかしいつも忙しくしておりますのでこちらが用事があるって時になかなか捕まらないのが困ったところでしてね」
「そうそう、でも私は忙しいくらいでちょうどいいと思っていますわ。
それに今はこっちでリリアンの様子を見てくれてますしね」
「ホホホ、そうねニコラがいるからリリアンがこっちにいても安心ね」
ジョゼフィーヌ夫人や祖母のグレース辺境伯夫人まで参戦して和気藹々とした雰囲気だ。
(まあ、どうしてなの?怒られるどころか皆んなニコニコしているわ。あれでいいの?でも私がやったら絶対大目玉よね!?)
カトリーヌは首を捻るがニコラが使った社交術は何てことはないもので、親しい間柄では格式張った挨拶は却って他人行儀になるというのを逆手にとって、気安い挨拶をすることで私たちは親しい間柄であると思っていますという意思表示をし、親しみを持ってもらって相手の懐に入るというやり方だ。
もちろんある程度知っている相手でないと使えないが、今日の場合は侯爵家と辺境伯家、ベルニエ家が親戚であると分かったばかりなので、名も名乗らず今までより砕けた挨拶をしたことで "私はもうあなたを身内のように思っていますよ、仲良くしましょう" というメッセージを送ったことになり、それが侯爵夫妻を喜ばせたのだ。
カトリーヌは長らく人騒がせな令嬢として名を馳せた弊害で、人との距離を読むのが苦手でこういった隠されたメッセージを読み取れない。最近は徐々に汚名を返上しつつあるのだが社交上手への道のりはまだまだ遠い。
さて、親たちが盛り上がるなか、ニコラをジッと見つめている少年がいた。ニコラは彼とは多分初対面だと思ったので「初めまして、リリアンの兄のニコラです」と個別に挨拶をした。
すると彼はパッと立ち上がりはしたものの、棒のようになって固まってしまった。それから親に促され、ルイーズに小突かれて、ようよう「私はアングラード侯爵家の長男、マチアスです」と蚊のなくような声を出した。
マチアスはルイーズの兄でリリアンよりも年上なのだが、ルイーズに突かれていたせいでニコラの目には幼く映ったようだ。ニコラは(はあ、またか。安易に話しかけてまた小さい子を怖がらせてしまった・・・)と心の中で溜息をついた。
レーニエなどは小さい子供にも好かれて向こうから寄って来るほどなのに、そんな子もニコラを前にするとどうしてか固まってしまうのだ。
(どうしてって、やっぱ怖いからだよね?慣れてるけど、ちょっと寂しいなぁ)
ニコラは極力怖がらせないように口角を上げて「よろしく」と笑いかけ、マチアスに着席するように促すと自分も空いていた椅子を後ろに引いて、なるべく粗野に見えないように静かに腰を下ろした。
ニコラが座ったので、侍女たちがお茶の用意を始めた。
その間誰も喋らずシンとしたのでニコラが気を利かせて「どうぞ話を続けて下さい」と促すと、リリアンはちょうど紅茶に口をつけたところだったので、代わりにベアトリス夫人が応じた。
「私たち、さっきエリソンの話をしていたのですよ。
ニコラ様は覚えておいでかしら?」
「ああ、あのトゲトゲのことですね。覚えてますよ」
「あら、お兄様も知っていらっしゃったの?」急いでティーカップを置いてリリアンが尋ねた。
「もちろん、俺も持ってたし!
お前も知ってるだろ、散々一緒に転がしたり投げたりして遊んだんだから」
「私がエリソンで?そうなの?覚えてないけど」
「黄色い紐を巻いたボール、アレがそうだ」
「あらお兄様、エリソンはボールじゃなくてハリネズミのヌイグルミですよ?」
小首を傾げてリリアンが言うと、ニコラはさも当然という風に頷いた。
「そうだよ。
いっぱいあるからって殿下に貰ったんだけど、貰った時の姿は確かにハリネズミだった。俺のはヒモを巻いてカスタムした時に邪魔なトゲを短く切ったからもうハリはないけどね」
「ええーっ、カスタムー?」
「そう、ああやって固くして威力を上げてんだ」
「い、威力って・・・」意味が分からないと絶句したところで、ようやくリリアンはエミールから伝言を頼まれていたことを思い出した。
「そうだ。先ほどエミールが来て、お兄様に『黒のサロン』に至急来るようにって言っていましたよ」
「ん?俺はそこに呼ばれてないぞ」
「ええ、だからわざわざエミールが呼びに来たのですよ。フィル様がヴィクトル伯父様との会談に同席して欲しいと仰られているのですって」
「何だって?伯父上との会談だったらもうとっくに始まっているはずだが?」
「そうよ、だからもう随分長くお待たせしているの。急いで行ってちょうだい」
「マジか、分かった!」
納得してからが早かった。
じゃあなと言うように手を上げたと思ったらアッという間にいなくなってしまった。
リリアンは慣れているから平気だけど、アングラード家の人たちはあまりもの早さに驚いて、侯爵は目を見張って「まさに聞き及んだ通り、疾風だ」と呟いてたし、マチアスは口をポカンと開けたまま目が点になっていた。
その様子を見ていたリリアンは、嬉しそうにうふふと笑った。
ね、お兄様は凄いでしょう?私のお兄様はいつだって誇らしい自慢の兄なの。強くて優しくて頼りになって面白いのよ。
だけどね、『疾風』はお父様の異名でお兄様は『稲妻』よ。




