296話 ミルフィーユ談義
侯爵の目にうっすらと涙が浮かんでいた。
人知れず、脈々と紡がれていたアンリ殿下の血。『プリュヴォの至宝』とまで謳われた天才王子にまさか娘がいたとは思いもしなかった。
出生を証明する持ち物もあったらしいが、本当のことを言えばここを訪れるまでは疑う気持ちが少しあった。
しかし夫人を目の前にするとそんな思いは霧散した。彼女の持つ瞳と髪の色は絵で見るアンリ殿下のそれと同じだ。
それより何より驚いたのは、グレース夫人が亡くなったリュシアンの母レオノール妃そっくりであったこと。
思わずその手を握ってしまったのはレオノール妃に再び会えたような気になってしまったからだ・・・。
あまり知られていないがあの愚か過ぎる王が立った時、僅か5年ばかりの期間といえどあの間に国が倒れずに済んだのは、あのお方が陰になり日向になり支えて下さっていたからだ。
・・・そのせいで。
美しく、賢い人だった。
これが泣かずにいられようか。目の前に立つ女性の面差しに、立ち姿に、懐かしいレオノール妃の面影がある。
陛下からの手紙には "母親はアナベル・メルシと考えられる" とあった。
なるほど。レオノール妃の母方の血筋は遡ると初代宰相デュポワに端を発すと言われているが、悲劇のヒロインと謳われたアナベル・メルシもまたそうだ。故にアナベルの産んだ子ならグレース夫人がレオノール妃と似た相貌をしていても不思議はない。彼女は二人の子で間違いないだろう。
グレースと侯爵の感動のご対面にどこからともなく拍手が起こった。
リリアンも皆と一緒になってパチパチと手を叩いていたら、誰かに背中をツンツンと突かれた。見ると犯人は父のクレマンだ。
キョトンと首を傾げるリリアンにクレマンは意味ありげに目をパチパチと瞬いた。
「なあに?」とリリアンが聞くと今度は顎を左にクイッと振った。
(うふふ、お父様ったら皆んながいるのにふざけちゃダメでしょ! いったいなんの真似かしら?当てっこクイズかな?)
遊ばれているのかと思って両手で口を押さえてクスクスと笑っていたら、クレマンは諦め顔で身をかがめてこう言った。
「リリアン、もう座ろうって言わないと放っておいたら永遠に座れんぞ。祖母様は無駄に話が長いから」
クレマンの言い草にお祖母様になんてひどいことを言うのかしらと驚いたリリアンだったが、確かに私たちはドアを入ったところで向かい合って立ったままで、お祖母様はまだハンカチを目に当てながらウンウンと深刻そうに話をしていて、このまま長話に突入しそうな感じは確かにあるわとね、と思い直した。
それに頃合いをみて皆に席につくよう促すのはこの部屋の主人の役目だ。
(うん、ここは私が言うしかないですね)
分かったわと頷いて、話し込んでるお祖母様や侯爵を傷つけないようにことさら明るく呼び掛けた。
「それでは続きは座ってお話しましょう?皆様どうぞあちらへ!」
リリアンの言葉に「あらまあ、ほんと」と皆んなが動き出した。和気藹々としていて大成功!
マルタン宮内相は「それでは私はこれで」と自分の仕事場へ帰って行った。残った者は銘々椅子に座り、侍女達はお茶の支度を始めた。
侯爵は座るとリリアンに改めて挨拶をした。彼にはまだ言っておかなければならない用件がたくさんあるのだ。
「リリアン様、この度は学園ご入学おめでとうございます。
史上最年少でしかも試験をトップでとは真に素晴らしい。お見事でございました」
「ありがとう。あなた方の娘ルイーズも同じ試験に合格しています。実に見事です。
ルイーズも入学おめでとう。いよいよ明後日からですね、仲良く学びましょう」
「はい、リリアン様!」とルイーズは元気に答えた。
「ありがとうございます。
私どもの娘ルイーズがリリアン様と御一緒させていただけることを大変光栄に感じております。娘はまだ至らない所が多くございまして・・・」とまだ侯爵が喋っている横で、ルイーズが嬉しそうに声を上げた。
「見て?お母様!お母様のお好きなミルフィーユ!
しかも今日のはお母様のお好きな苺がいっぱい挟まってる特別製!か〜わいいっ!」
「本当ね、きっとパトリシア王妃殿下がご用意してくださったのね」
「きっとそう!」とルイーズは嬉しそうに言ってリリアンの方を見た。
「ねえリリアン様、私のお母様はお父様と結婚する前はパトリシア王妃殿下の侍女をしていたのよ。今もとっても仲良しでね、お母様が王妃殿下に会いに行く日はミルフィーユをよくご用意して下さってるの。ミルフィーユはお母様の大好物なのよ!」
「まあ、そうなのですね?」
「ええ、お恥ずかしながら」
微笑むベアトリス侯爵夫人は控えめで、とても優しそうだ。
「ねえ、ねえ、リリアン様は?リリアン様もこれ食べたことある?」
「ええ、あるわよ」
実を言うとミルフィーユはよく食べている。それこそ月に2、3度は。そんなに頻繁に出るお菓子は他にないのでこれが宮殿のお菓子登場回数ランキング第一位なのはまず間違いないだろう。
もしかすると侯爵夫人が王妃殿下のお茶会に来られる度に私たちにもミルフィーユが出されていたのかもしれないと考えたらちょっと面白い。
だってそれならミルフィーユは "よく" どころか "毎回" 用意されていたはずで、ベアトリス侯爵夫人はパトリシア母様に余程のミルフィーユ好きと思われているということだ。
大人なのにお菓子が大好物だなんてなんか可愛い。さすがルイーズのお母様だわ!
・・・そう言いたい。
でも今日のリリアンは侯爵家の皆様をお客様として迎えている身なので、いつもみたいに笑ってふざけたりルイーズとだけお喋りをしたりしてはいけないのだ。
リリアンはゆっくりと息を吸って満面の笑みをなんとか落ち着かせると、皆を見渡して言った。
「私も宮殿のミルフィーユが好きです。特にこのパイが甘くてカリッと香ばしいところが美味しくて、コクのあるクリームとのバランスも最高ですね」
リリアンの言葉に対岸に座る侯爵を除く4人は、ウンウンウンと頷いた。その様子になんだか親近感が湧いてきた。みんなと気が合いそう!
「うふふ、皆さんもこれがお好きなようですね?」
「そうなの!お父様はミルフィーユはあまりお好きではないのだけれど私達はみんなこれが大好き。私はねー、特にバナナが入ったのが一番好きで、お姉さまは何も入ってない普通なのが好きなの。
でね、お母様がお土産に持って帰ってくれるから私たちいっつも食べてて食べるのがすっごく上手なのよ。私たち、ミルフィーユを食べるプロなの!」
ルイーズは鼻高々に自慢した。
「すごいわ」とリリアンは感嘆の声を上げた。
だって、ミルフィーユはマナー教育の時間にわざわざ綺麗に食べる練習をするくらい食べるのが難しいのだ。それを綺麗に食べられるのは充分自慢出来ることだ。
だけど兄のマチアスは妹の発言が気に入らなかったらしい。
「ルイーズ、お前は恥ずかしいことを言うな!
ミルフィーユを食べるのにプロなどない。宮殿のミルフィーユは他のと違ってボロボロに崩れないから食べやすいだけろう、その証拠にこの間ルネが持ってきたバサバサのやつはお前ボロボロにしてお皿をグチャグチャに汚してたじゃないか」
「そんなことないもん!お兄様うるさい!」とルイーズは口を尖らせて母親越しにマチアスを叩こうと手を伸ばした。
「これこれ二人とも」とベアトリス夫人は優しくルイーズの手を取ってその肩を抱きしめた。やっぱり優しい人だ。
マチアスは目を細め横目でルイーズを見て何か言いたそうにしていたが、長女のカトリーヌが「バサバサって・・・あなたあれはあれで美味しいって言って食べてたじゃない?」とルネのミルフィーユを擁護するとマチアスはさっきまでの威勢はどこへやら。俯いて「うん・・・」と小さく返事した。
マチアスは今しがたの自分の言動を激しく後悔していた。それはもう、泣き出したいほどに。




