293話 婚約者に決まった日
リリアンが昼食を終えて自分の応接室に戻ってくると、部屋の様子がすっかり様変わりしていた。テーブルと椅子は別のものに入れ替えられているし、お花もいつもより多く飾られていた。
「わあ!
いつもと違う部屋に来たみたい。し〜んせ〜ん!」
入って来るなり両手を広げ無邪気に喜ぶリリアンに、双子の侍女もニッコリだ。
この二人、今は優雅に笑っているが実はリリアンが戻る直前までバタバタと右に左にと走りまわり目の回る忙しさ、正にてんてこ舞いだった。それはそうだ、だってこの短い間にリリアンが違う部屋かと言うくらいなのだから。
そもそもお客様の来訪が決まったのも急だった。
グレース達の給仕をしながら午後からの段取りを考えていたクラリスは、ふと来客用の椅子が足りていないことに気がついた。もちろん隣の遊戯室にも椅子はあるのだが、そこから借りてくる訳にはいかない。
揃いでない家具で間に合わせるなど王太子の婚約者の応接室には似つかわしくないし、最高位の侯爵様をお迎えするのなら何から何まで最高のものでお迎えしなければ失礼だ。・・・そう考えたクラリスは急遽インテリアの総入れ替えを決意した。
宮内相による働き方改革で侍女達の勤務時間を見直して以降、侍女達がゆっくり次の準備が出来るようにと気遣ってリリアンは30分くらい長めに昼食タイムを取ってゆっくり戻ってくるようにしているのだが、今日はその30分で模様替えまでしてしまおうと言うのだからかなり無謀な挑戦だった。
しかもこんな時に最も能力を発揮する頼みの綱のコレットがニコラに連れて行かれて不在なのだ。おっとりとしたアニエスがのん気そうに言うのを聞いた時、クラリスは絶望で「ウソー」と叫びそうになった。
それでも気を取り直して宮内相のマルタンに『最高級のテーブルセットとそれに合うその他諸々』を手配して欲しいとお願いすると王妃殿下のサロンから丸々一式借りられる事になった。そこから外に立っている騎士達に応援&増援を頼んで運んでもらい、なんとかかんとかやり遂げた。
まあそんな具合でそれはもう大変な騒ぎだったのだが、リリアンが戻って来てからの二人はそんなバタバタ劇があったことなど微塵も感じさせずいつも通りの和やかさだ。
これはもちろん二人が元々持っている人柄のせいもあるが、明るいリリアンの言動がいちいち可愛くてついつい頬が緩んでしまうせいもある。お陰でこの部屋はいつも笑顔でいっぱいだ。
さて、ちょうど衣装部屋から出てきたところだったクラリスは手に持っていたトレーをリリアンに見せながら言った。
「おかえりなさいませリリアン様。
お客様が来られる前にこれを付けておきましょう」
「はーい」
素直に返事をして後を付いてくるリリアンを先導し、部屋の奥に設置した衝立の裏に連れて行く。そこでドレスを着替えさせ、髪を解かして最後にトレーにあったネックレスを着けた。
「とてもよくお似合いです」と出来栄えに満足げなアニエス。
「リリアン様、いかがでしょう?」とクラリスがリリアンの手を取って壁にある鏡のある方へ向かせる。仕上がりの確認はリリアンの大事な仕事だ。
リリアンは鏡の前で一周くるりと回って言った。
「いいわ、これでいきましょう」
確認を終えて許可を出すその佇まいは、わずか七歳ながらも上に立つ者の風格を漂わせすっかり堂にいっていた。侍女二人は「はい、かしこまりました。ではこれで」と頭を下げて下がり、広げていた化粧道具を片付け始めた。
リリアンは鏡の中の自分に視線を戻した。
そのネックレスは初めて宮殿に来た時にフィリップから贈られたものだった。指先は自然と首元へ向かい、ネックレスに付いている青い石に触れた。
(初めて会った時、妹になって欲しいお願いされて、なると約束をした王子様みたいに素敵なお兄様のお友達。
そして次にお城で再会した時にこれをいただいたのだわ・・・。フィル兄様の瞳の色の石が入ったペンダントは綺麗で可愛くて、嬉しくて絶対に一生大事にしようと思った)
(でもこの贈り物はただ妹役を引き受けた私にお兄さんとしてくれた『契約の印』的な物というイメージで、それ以上の意味があるなんて思いもしなかった・・・)
(でも今になって考えるとフィル様の『特別』であることを示すこの石は、そんなに簡単に贈れるものじゃない。確かにあの時フィル様自身がこれは他の人は持てない物で自分とリリアンだけが持てる物だと仰っていた。フィル様はそれが持つ意味を十分に理解した上でこれを贈ってくれた)
(私は妹じゃなく、最初からフィル様にとっての『特別』だった。
フィル様は初めて会った時に私に一目惚れをしていたのだと仰っていらした。それは夢のような嘘みたいなお話だけど、本当なんだ。だからこれを、こんな大事な物を、出会って間も無い私に贈って下さった)
(それを私が知らなかっただけで、もうあの時から私はフィル様に選ばれていた)
この贈り物は声無き愛の告白だったのだ。それに気付いた時、リリアンの中にじんわりと幸福感が広がった。
(そして今日、名実ともに本当の『特別』になった。もう何も心配したり不安にならなくてもいい、私はフィル様のお嫁さんになるんだ)
「うふっ、うふふふ」自然と笑みが溢れた。
鏡の中にツヤツヤとした頬の女の子がいた。自分を彩るアウイナイトを触りながら微笑んでいる。我ながらとても幸せそうだった。
ちょうどそこに両親と祖母が戻って来た。そして運の悪いことにリリアンを隠していたはずの衝立は既に片付けられ、廊下からリリアンが丸見えだった。
「あらリリアン、何一人でニヤニヤとニヤついてるの〜?
あっ分かった!どうせさっきの殿下からのプロポーズを思い出していたんでしょ?」
先頭に立って入って来た母ジョゼフィーヌが目敏く見つけ、さっそく大きな声を出してリリアンを揶揄ってきた。
「そんなっ、ニヤついてるだなんて・・・!」
正に図星だったリリアンは恥ずかしくて顔が真っ赤だ。いつものことながらずけずけと人の悪いお母様。上手く言い返したいけどそれ以上続く言葉が出て来なくてアワアワしていると、父のクレマンが助け舟を出した。
「これこれ、娘をそんな風に揶揄うものじゃない。
お前だって人のことは言えないじゃないか、お前もよく学生の頃は一人でニヤニヤ思い出し笑いをしていたからな」
「うっ!」っとジョゼフィーヌは痛いところを突かれたと胸を押さえた。
確かにあの頃、ジョゼフィーヌはしょっちゅうニヤニヤとしていた。その自覚は自分でもあったし周りからもよく "何があんなに楽しいのかしらね、一人でニヤニヤとして気持ちが悪い" などと聞こえよがしに言われたりした。
大抵は一学年上の王太子リュシアンとお話しした後で、彼との会話を反芻してはニヤニヤとニヤついていたのだ。聞こえよがしの嫌味は周囲からのやっかみでそれだけリュシアンと親しくしていたということだ。
(こう見えて私はリュシアン様と相当仲良くしてた。学年が違うのによく中庭でお喋りをしたり、昼食を一緒に食べたことさえあった。
でもそれは私がクレマンと婚約する前のことだし、リュシアン様は私の『推し』だから別に浮気とかそんなのではない。推しにお声を掛けていただいて、そのご尊顔をお側で見られて・・・ただ純粋に話をするのが楽しくて、ただ単純に一緒にいるのが嬉しかっただけ。推しだからドキドキするのは当然だけど、別に私はリュシアン様と結婚できるとかしたいとか全然思ってなかったし)
まあ、そうは言ってもその時の弾んだ気持ちはリュシアン本人には知られたくないし、夫や娘にも悟られたくないと思うくらいには後ろめたかった。
(この話は膨らませない方がいいわね、誰の得にもならない話だもの)
ジョゼフィーヌはシラを切ることにした。
「ま、まあそうだったかしらね〜?よく覚えてないけど!
でもさ、いつもニコニコしてる方が可愛くていいじゃない。リリアンはあなたに似てなくて私似で良かった、あなたに似ていたら仏頂面で王太子妃どころじゃなかったものね」
「そんなことはない、まあ見た目はともかくリリアンはお前より私の方に似てる」とクレマン。
「あら、どこが?
可愛いところも、頭の良いところも、ニコニコ明るいところも全部私に似てるわ」
「う、運動神経の良いところは私似だろ!」
「それはあなたじゃなくてニコラに似たんでしょ!?」
「は?
父親は私だが?ニコラにはリリアンは産めないが?」
「何言ってるの、あなたも産めないじゃない。産んだのは私でしょ!」
いい歳をして馬鹿な言い合いをしている。でも意外なことにこの二人、これで本気の喧嘩に発展したりはしないのだ。
いつもはジョゼフィーヌが勝気なことを知っているクレマンが一歩引いて尻に敷かれたフリをしているが、そんなクレマンもリリアンの為なら盾になる。でもそれだけだ。
ジョゼフィーヌも分かった上でふざけてる。これは大人同士の戯れなのだ。
それを知らないグレースが「まあまあ、どちらにも似てていいじゃない」と仲裁に入ると、二人は「そうですね」「もちろんリリアンは私たち二人の子だからな」と言って笑った。あまりにもアッサリと終わったので逆にそれでいいのかとグレースが呆れるほどだった。
「まあ、あなた達ったらあんなに言い合ってたのにもう仲直りなの?」
「うふふ。お祖母様、お母様達はいつもこうなんですよ。
ベルニエにいる時だって、よくこうやって」と言いかけてリリアンは急に黙り込んだ。
そしてその目には涙がみるみる浮かんできた。
今の光景はよくあったと思った途端、まるでベルニエの家にいた頃にタイムスリップしたかのような不思議な感覚があって、ふと(これから先、何度こんな光景に会えるのだろう?もしかしたらもう二度とないかも)という思いが胸をよぎったのだ。
二年の学園生活が終わったらすぐに結婚に向けての準備が始まるらしい。そうなったらもう領地に帰ることはない。パトリシア母様だって結婚してから一度もリナシスに帰っていないとおっしゃっていた。きっと私もそうなる。
そう考えたら無性に寂しくなった。
「まあ、どうしたの?」リリアンの異変に気がついたジョゼフィーヌが心配して顔を覗き込んだ。
「ねえお母様、私はもう二度とあのハリネズミがいた丘を駆け上がることはないのかしら?川に葉っぱの船を浮かべて競争することも、見張りの木に登って遠くを見ることも。もうナディアやサラに会えないの?
ねえお父様、私はもう二度とあの風景の中であの草の匂いを吸うことはないの?あの家の明るい日差しの入る暖かなお部屋でお父様やお母様と一緒に過ごすことも、私のあの小さなベッドで寝ることも・・・」
「あらあら、明後日から学園に通うのに急に里心がついちゃった?心細くなったのかしら?」
「ううん、心細いわけじゃない。・・・もうベルニエには帰れないのかなって思っただけ」
「また帰れるさ」とクレマンが優しくリリアンを抱き上げた。
「その時はお父様が迎えに来てあげるよ。リリアンはクードヴァン(疾風)を覚えてるだろう?あのお父様の馬が他のどの馬より早く遠くまで走れることも。あれに乗ればリリアンが瞬きをしている間にすぐベルニエさ」
「うん、知ってる。クードヴァンは早い」
「あれに乗って帰ろう」
「じゃあ、お母様が学園の夏休みに里帰りできるようリュシアン様に頼んであげるわ!リリアンはまだウチの子だもの、お家に帰りたい時に帰る、その権利があるでしょう。
それで帰ったらお母様と外乗しましょう?マロンとラポムでベルニエの丘や草原を駆け巡るの、それでお弁当を持って行ってお外で食べたらきっと楽しいわよ」
「楽しそう!ねえ、お母様の馬はマロンっていうの?」とリリアンは目を見開き、顔を輝かせた。
「ええそうよ、お母様の馬は栗毛だからマロンっていう名前にしたの」
「わあ、可愛い名前!早くマロンに会いたい」とリリアンが笑顔になると、ジョゼフィーヌは「マロンもリリアンに会ったら喜ぶわ」と頷いた。
それから「今泣いた烏がもう笑った」とリリアンの鼻をちょんと触ったので、リリアンは「きゃあ」と母の手から逃げて父の首にしがみついた。
父は「ハハハ、苦しいよリリアン」と言いながらちっとも苦しそうじゃなく、愛娘に甘えられてご機嫌だ。リリアンも両親に思いっきり甘えたせいかなんだかスッキリした気分だ。
「まあまあ、赤ちゃんみたいに甘えて」と祖母に笑われたけど、リリアンはまだ甘えていたくて「もうちょっとだけ」と肩をすくめて再び父の首に縋りついたのだった。




