292話 夫人の思い出
アンリ殿下、アナベル、アンナ、グレース夫人・・・。
まずこの中でヤニックがはっきり分かるのは、グレース夫人と呼ばれる人のことだ。
「えっと、グレース夫人とはマルセル辺境伯様の奥様でいらっしゃいます。私のいた領の領主の奥様で、普段お目にかかることはないのですが、一度だけ隠れ里に来られたことがありました。
とても綺麗な方で、私の頭を撫でてくれたのを覚えています」
ヤニックの言葉にヴィクトルが意外そうな顔をして「へえ?」と言った。
ヴィクトルはその話を自分も一緒行った時のことだと思って聞いていたのだが、そこにヤニックのような者がいたことは思い出せない。ましてやグレースが誰かの頭を撫でたとかそんな出来事があったことも記憶になかった。
それで悪びれもなくヤニックに「君はあの時いたのか。私も一緒にいたのだよ、覚えているかい」と尋ねた。
王太子の質問への返答中に横槍を入れるなど大変無礼なことで、とても褒められたものではないのだが、ヴィクトルはそれに全く気付いていない。
ニコラは伯父の度重なる非礼にそろそろひとこと言いたくなっていたが、この会話が糸口になって何か新しい事が分かるかもしれないとも思ったので、もうしばらく黙っておくことにした。
フィリップもそう考えたらしく、エミールがみかねて何か言おうとしたのをそっと手で制して言わせなかった。
ヤニックはというと特に問題に思わなかったらしく、ヴィクトルの質問に素直に答えた。
「いいえ、その時マルセル様は奥様しかお連れではありませんでした。
丘の上まで私達はお迎えに行き、お見送りもしたので間違いありません、他には誰もいませんでした」
「へえ?そう言えばヤニックはこっちに来て一度も里に帰ってないと言っていたか、私が母上と行ったのは3年位前のことだ。では母上はあれ以前にも隠れ里に行ったことがあったということか?
でも一緒に時計工房に行った時、そんなことは一言も言ってなかったがなぁ・・・」
「奥様が来られたのはもっとずっと前です。
それにその時は工房の方には行かれなかったので、後に工房にいらしても同じ所に来たと思わなかったのかもしれません。
奥様が来られたのはマルセル様が里に来られた時に使われている家で、工房があるところとは離れていますから」
「工房に行かなかったのならその時夫人は何の為に里を訪れたのだ?」と今度はフィリップが聞いた。
「はい。私たち里の者総出で領主の奥様をもてなす会を開いたのです。
料理をたくさん並べ、歌ったり、踊ったりしました。とても楽しかった思い出です。奥様からも大変楽しかったと後でお手紙とお菓子を頂きました。それもとても甘くて美味しかったです」
「交流をする為か。しかしそんな楽しかったのにその一度しか『もてなす会』をしなかったのか」
「はい。
隠れ里に住む者は普段は外の人と接してはいけないとマルセル様に厳しく言われていますので。その時は特別でした。
ちょうどもう一人、外からお客さんが来ていた時で、その人が絵が上手いのでマルセル様が奥さんを描いてもらうのだと言って奥様をお連れすることにしたのだと聞いています」
「ではグレース夫人にその時の事を聞こうと思ったら、絵を描いてもらう為に連れて行かれた所と言えばいいのだな」
「いいえ、絵を描いていたことを奥様はご存知ないはずです。
奥様が恥ずかしがるといけないので秘密にすると、絵は隣の部屋で描かせていました。
ふふふ、でも里の人たちは奥様じゃなく、マルセル様が恥ずかしがっているのだろうって言ってましたけど。ふふふ」とヤニックは当時の様子を思い出したのか目を細めて笑った。
「どうしてマルセルが恥ずかしがる?家族の絵を描くくらい恥ずかしがる必要はないだろう」
「はい、それはそうなのですが、その時のその絵はマルセル様が肌身離さず持っている懐中時計に入れる絵だったのです。マルセル様は奥様にそれを知られるのが恥ずかしくて内緒にしたかったのですよ」
「それがあの肖像画?」
「はい、そうです」
「マジか!それは凄いな!」
フィリップは驚いてつい友人達といる時のような言葉を使ってしまった。王太子にあるまじき態度だったとちょっと反省だ。
「それにしても辺境伯が懐中時計に肖像画を入れさせた時の話など、まさか聞けるとは思ってもいなかったよ。これは大変興味深い話でリリィが聞いたらとても喜ぶ。良い話を聞かせてくれて礼を言う」
「あ・・・はい。こちらこそありがとうございます」とヤニックは直接王太子に褒められて何と答えたものかギクシャクと礼を言った。
実際のところはフィリップが聞きたいのは結婚後のグレース夫人の話ではなく、それよりもっと前のアンナと呼ばれていた頃の話だ。もっと言えばアンナの両親の話が聞きたいのだがそれを若いヤニックに聞いても知らないだろう。
とはいえヤニックは本当に辺境伯に近いところにいたようだ。我々が知らないことを当たり前に知っているし、他にも聞くべきことがもっとあるに違いない。
「ヤニック、他にはないか、例えばさっき我々が話していたアンリやアナベルという人物について何か聞いてないか」
「申し訳ありませんが先ほど王太子様がされていたお話は、何と申しますか、何のお話をされているのかよく分からずに聞いてました。なのでたぶん、その方々について私が知っていることはなさそうです。
それと皆さんが驚いていたアンリという名もマルセル様の懐中時計のことを父達が『アンリの時計』とか『アンリ式懐中時計』と呼んでいたので私もそう言っていただけで、実を言いますと今日のお話を聞くまでずっと人の名前と思わずに懐中時計の型の名前だと思っていたのです。
それとアナベル?という名については、聞いた覚えがありません」
「アンリは懐中時計の型の名前として呼んでいただけなのか・・・」
「そうなんです。ですが皆んながそう言っていた訳ではなく、マルセル様はご自分の懐中時計を『私の時計』と仰ってました。
ですが工房の職人達は何故か皆それを『アンリの時計』と言っていたのです。私の父も時計師なのでそう言ってました。後に改良されたものを『改良型』、現行のは『新型』と呼びます。それと同じ感覚です。職人達の呼び方です。
・・・私にはそれくらいしか分かりません。申し訳ありません」
「なるほど。
でもそれは良いことを聞いたぞ」とフィリップはニヤリと笑った。
正統派のフィリップにしては珍しい表情だが、どんな表情をしてもキラキラしくその魅力が損なわれることはなかった。むしろここにリリアンがいたら "フィル様ステキ" とときめいてくれたことだろう、実に残念だ。
まあそれはいい、フィリップは良い事を思いついた。
「ヤニックは父親や里の大人から色々と聞いたのだろう?
辺境に行けばまだ誰かの記憶にアンリとアナベルが残っているかもしれない。いや、当時を知る者が一人や二人必ずいるはずだ。他にもその気で探せば何かが足跡が残っているかもしれない。
決めたぞ、私は今年の夏、辺境へ行く!そしてそこで二人の足跡を調べる。
ニコラ、ヤニック、お前達二人は私に同行して辺境の案内をしてくれ。
休暇に入ったらすぐに立つ」
「はい、殿下のお心のままに喜んで」とニコラが言い、ヤニックも咄嗟にニコラの真似をして「は、はい、喜んで」と答えた。
こうして彼らの今年の夏の予定は突然決まった。
ブックマーク400件のお礼に番外編「ルネがいるから」5話をアップします。
11月16日18時更新の予定です。
いつも読んでくださいましてありがとうございます。最近はなかなか以前のようなスピードで書けなくなりましたが結構頑張って書いてますのでどうかこれからも応援よろしくお願いします。




