229話 大変だ、大変だ
いきなり扉が開いたと思ったら、若干息を切らし慌てた様子のフィリップだった。
「リリィ、ここに居た」
「フィル様」
リリアンは立ち上がってフィリップの元へ駆け寄ったが、どうしたことかフィリップは左手を扉に残したまま立ち尽くし、近づいてくるリリアンをジッと見つめている。
リリアンは少し手前で速度を落とし心配そうに小首を傾げた。
「フィル様、どうなさったのですか?」
「・・・リリィごめん。昨夜は僕の言葉が足りなかった」
「えっなんのこと」
目を見張り動きを止めたリリアンを、フィリップはそのまま抱き上げ連れ去った。
昨夜フィリップは父と宰相それに騎士団長とエミールを日付が変わる前に帰らせた。彼らは翌日にグレース関連の発表やら何やら控えていたがフィリップは翌日に決まった役割がなかったから自分がやれば良いと思ったのだ。
ダルトアとユルリッシュにも帰れと言ったが、彼らは王太子に仕事を押し付けて帰るのは気が引けたようでしばらく残ってくれていた。だがダルトアはもう年も年だ、だからユルリッシュにダルトアを屋敷まで送ってやってくれと頼んで二人も帰らせた。
重要事項は決まっていたがそれにしても全ての案件を一人で請け負い、また大勢の者を使わなくてはならなくなって、覚悟はしていたもののその大変さは予想以上だったのだ。しかしどんなに大変でも今夜中にやり遂げなければならないのだ。それもこれもリリアンの為、いや二人の未来の為に!
ではちょっとフィリップがどんなに頑張ったのか、その奮闘ぶりを聞いてやって欲しい。
最初は終わった物からチェックしていき進度によって仕事の割り振りを調整したりしていた。そのようにフィリップ自身も仕事があり暇ではなかったのだが予定外のことが起きる。相談を受けて対応策を考えていた時に後ろで突然ガターン、ドサッと音がして、見ると疲労がピークに達した司書が一人青い顔をしてぶっ倒れていた。
他の実働要員の手を煩わす訳にはいかないと思い、騎士団の救護室に王太子自ら担いで行った。後から考えれば廊下にいた自分の護衛を呼んでやらせれば良かったのだがそれよりも先に体が動いていたのだから仕方がない。
護衛も護衛で気を利かせて来てくれたらいいのだがフィリップがいつも煩がって邪険にしているせいで彼等はいつもこちらから呼ばないと近付いて来ようともしないのだ。
救護室の帰りにはわざわざ使用人用の食堂に寄ってお菓子を持てるだけ持って戻った。前にレーニエにそこに行ったら昼も夜も常時お菓子が山盛りあるのだと聞いていたのを思い出したのだ。
作業の合間にお菓子をつまめることにしたら殺伐としていた空気が少し和らいだ。
そんなこんなで自分にしか出来ない仕事をこなしつつも皆に気を使い、雑用まで引き受けて一晩中走り回った。
だがどんなに忙しかろうと終わらない仕事はない。色々あったがとうとう夜が明ける前にやり遂げた。
「よし、これが最後の一枚だ!皆んな、終わったぞー!」とフィリップが言うと「わあ・・」と声があがった。歓声は力なく疲れ切ったものだったが、それでも皆で達成感を共有し合った。
エミールが気を利かせて早くに来てみたら、ちょうど暗く森閑とした宮殿の廊下に力のないどよめきの様な歓声が聞こえ彼等が仕事を終えたのが分かった。
「お早うございます。作業は無事に終わったのですね、皆様本当にご苦労様でした!
今は6時です、帰宅せずに就業時間までこちらで過ごすことを希望する者には二階の大会議室を解放します。マットと寝袋、朝食はこちらで用意しますのでそちらへ移動して下さいね」
明るい声で大広間に入り、深夜番の騎士を使って二階の部屋に案内させて寝袋を配らせた。
とりあえず徹夜になることが分かっていたから昨夜の内に手配していたのだ。今の時期の日の出の時刻は8時半頃で外はまだ星が出ている時間帯のせいか誰一人帰宅するという者はいなかった。
フィリップは皆が案内されて大広間からゾロゾロと出て行くのを立ったまま眺めていたが、最後の一人がこちらに礼をして出て行くと椅子にストンと腰をおろし、背もたれに背中を預けて目を閉じた。
(あー、なんか疲れた)
エミールが来て気が緩んだのか、急に疲れと眠気を感じてきた。
フィリップは元々ショートスリーパーであまり眠らなくても動ける性質なのだがグレースの出自を父や皆の前で明らかにしようと画策し、ここのところずっと寝る時間を削って調べ物をしていた所での徹夜だったから流石に堪えたようだった。
「殿下、昨夜はありがとうございました。さぞお疲れになられたことでしょう」とようやく向こうの世話を終えたエミールがフィリップの元にやって来た。
「ああ、昨日は日中も色々あったし一晩中忙しかったから流石に疲れた。あとは父上に託すのみだが父上はいつ出て来ると言っていた?」
「それは聞いておりません。ですが国王陛下が来られるまでにはまだしばらくかかるでしょう、私がここにいますから殿下はそれまでどうか休んでください」
「そうさせてもらいたい。
だがその前にここにあるものを一応お前に説明しておく。これが今日発表する声明文と段取りを書いたもので、こっちが通達、配る地域ごとに束にしてあるから混ぜないように。
それから騎士団間協定書はここに清書したものが三冊ある。これは当日合意のサインを入れる物で内容は全く同じだ。あとこれが入学式のだ」
「はい、分かりました」
最後の『入学式の』は、入学式でリリアンを婚約者とすると発表する時の台本である。
そうなのだ。
フィリップには今日明日中にリリアンにプロポーズをするという期間限定重大ミッションが残っているのだ。
大事な事だからまずはコンディションを整えてよく考えて計画を練りたい。
「では殿下、どうぞそちらで休んでいて下さい」
フィリップは私室に戻るつもりだったがエミールは奥にある部屋で寝るよう勧めてきた。私室だと呼びに行くのが大変なので近くで休んで貰おうという魂胆だ。
作業に使われたこの部屋は舞踏会に使われる大広間だ。
床が傷つかないように全面に絨毯を敷きテーブルや椅子がズラリと並べられているからすっかり様子は変わって見えるが、部屋の両側にはカーテンが幾重にも掛かりその奥にそれぞれ4室ずつ部屋があるところは変わらない。
これらは例えば舞踏会でコルセットを締めすぎて体調が悪くなったり靴が合わなくて足が痛くなったりした時などに人目を気にせず直したり休んだりできるようにと用意されている休憩室だ。
フィリップ自身も移動距離が短くすぐに寝られてすぐに起きてこられる方が有り難かったのでエミールの提案に乗ることにして「父上が来たら起こしてくれ、それまで少し仮眠をとる」と告げてカーテンの奥に入って行った。
パチリと目が覚めた。
(よく寝た気がする)
よほど眠りが深かったのかぐっすり寝た感が半端ない。大広間付属の休憩室は初めて使ったがとても静かで快適だった。
外に面していないので窓が一つもなく灯りはドアを入った所に一箇所あるだけで室内は薄暗い。
目が慣れると天蓋付きのベッドの他にサイドテーブルにテーブルとソファ、それに洋服掛けに鏡といった最低限の家具が設えてあるのが分かった。シャワー室はないようだが壁面に手や顔を洗える程度の小さな洗面台はある。
(ちょうど目も覚めたことだしもう起きるか、出来れば朝食の前にシャワーを浴びに部屋に戻りたいし)
どうやらフィリップが寝た後でエミールが持って来たらしく着替えと靴が用意してあったのでそれに着替えて部屋を出た。
この時は父が早めに顔を出せばその時に、来なければ食事の時間に間に合うようエミールが起こしにくると思っていたからまさか昼が近いとは思いもしなかった。寝たのはせいぜい1時間くらい、むしろ早めに起きたつもりでいたのに。
「殿下!お早うございます、よく眠れましたか」
「ああ、お陰でスッキリした。もう大丈夫だ」
「それはようございました。あの後陛下と宰相殿が来られて持って行かれましたが完璧だと大変喜ばれておりましたよ」
「なんだもう父上は来たのか、それならば起こしてくれたら良かったのに」
「申し訳ございません。陛下が起こさないでやってくれと仰ったので」
こちらは起こせと言っておいたのだが・・・。
「まあいい」
「ところで殿下、朝食はいかがなさいますか?召し上がるのであればすぐにこちらに軽食を用意させますが」と手元の書類を手早く片付けながらエミールが言った。
改めて見たら広い部屋のこの一角だけ絨毯とテーブル、椅子を残し他はすっかり片付けてある。エミールはここでフィリップが起きるのを待ってくれていたらしい。
「なんでここで軽食を?いつも通りダイニングに行く。それともまだここでやることがあるのか」
「いいえありません。しかしそちらはもう昼餐の準備を始める頃です。
えーっと殿下?実を申しますと朝食の時間はとっくに過ぎておりましてもうお昼の方が近いのですよ。ですからお腹がお空きになられているなら軽く召し上がるものをお持ちしましょうかということなんですが」
「・・・ちょっと待て、今何時だ?」
「もうそろそろ11時の鐘が鳴ろうかという頃かと」
「本当か。そんなに時間が経っていたとは・・・。確かによく寝た気がするとは思った。昼が近いなら何もいらない」
外を見ると確かに太陽の位置が高そうだ。フィリップはようやく寝過ぎていたことを理解した。
「そうですか、では私の方からは伝達事項が3つほどあるのですが、先に殿下の本日のご予定をお聞きかせ願います」
「私の今日の予定はだな、まず部屋に戻ってシャワーを浴びる。
それからリリィの顔見に行って、昼まで執務をして、昼食の前にリリィを迎えに行って一緒に食事をしたあとまた執務をする。
時間に余裕があればお茶の時間にリリィの所に行くかもしれないが、主には執務の続きかな・・・まあいつも通りだ。
それより私は早急にプロポーズについて考える必要があるのだが焦っては事を仕損じるだ、そっちは夜にでも落ち着いてから考えようと思う」
「分かりました。では私の方のお話をさせていただきますね。
まず一つ目はヴィクトル様がアンリ殿下に関するとんでもない情報を得たのでお話ししたいと殿下に面会を求めておられます。学園に馬を届け終わったらこちらに向かうとの言伝がありましたのでもうそろそろ来られるでしょう」
「えっ!何?アンリの?
昨日の今日でいったい何があったというんだ。とにかくそれは楽しみだ、待つ時間が惜しいちょっとヴィクトルを迎えに行ってみようか」
「殿下、それはお控え下さい。
では二つ目です。昨夜ニコラが特権を発動して時計塔で時計師を事故を装って殺そうとした犯人を捕まえたとのこと。幸い時計師は命をとりとめ未遂に終わったようですが過去の類似事件もその男が犯人の可能性が高いそうです。
この事件は騎士団預かりになってレーニエが捜査を担当することが決まったとのことです」
「ほお、その類似事件ってあの昔私が初めて差し戻したやつではないか?多分そうだ。
やったな、さすがニコラだ!大手柄だぞ」
「はい、そうですね。それでは次、三つ目いきます」
「ん」
「リリアン様は昨夜私室でお休みになられていない、との報告を受けました」
「は?誰がそれを言って来たんだ」
フィリップにしてみればリリアンは間の部屋にいたと思っているのだから私室で寝てないのは当然のことなのだが、問題にしているのは誰がそれを知り得たのかだ。
もしも門番をしていた騎士が部屋を覗き見してリリアンがいないと言っているのであれば大問題だ、それで不快感を露わにしたのだが・・・。
「パメラです。
今朝パメラが予行演習に出かける前にコレットを連れてここに来たのです、殿下のお耳に入れておくべきだと言って。
コレットが事の成り行きに詳しいらしいのですがリリアン様は殿下に一緒にいることを拒絶されたと思われて部屋を抜け出し客室にまで下りて来られたとのこと。
そしてそのままグレース夫人の部屋で朝までお過ごしになられたそうです。夫人に慰められて一時は元気を取り戻したように見えたのですがリリアン様のお心は完全には癒えておらず、今朝の泣き腫らしたお顔はお労しいほどだったと。
二人は直に誤解は解けるものと承知しておりますがリリアン様が悲しい思いをしておられるのは忍びなく、殿下のお力で早く明るい気持ちを取り戻して差し上げて欲しい、と申しておりました」
言われてみれば心当たりがある。
でもそんなことになっていたなんて!
「なぜそれを早く私に言わない」
「もちろんパメラが来た時に起こしに行ったのですがいくらお声を掛けても殿下は目をお覚ましにならなかったのです。
それにリリアン様は朝食後は父君とお茶会の招待状を作ると聞いたので一刻を争う必要はないかと」
沸き起こる感情を抑え付ける。
日中どう過ごしているかなど関係ない、リリアンが辛い気持ちを抱えていることが問題なのだ。
それを知りながらこんな時間まで放置していたのかと腹も立ったが結局のところ諸悪の根源は昨夜中途半端な事を言ってリリアン傷つけ、それに気付かず呑気に眠り呆けていた自分だ。
「分かったもういい、お前は自分の仕事をしてろ。私はリリアンの所に行く!」
何もかも、リリアンより優先することなど有りはしない。
フィリップはリリアンの応接室に向かった。もちろんリリアンの誤解を解く為に。




