202話 マロンのサロン
フィリップにエスコートされて戻って来たリリアンは、応接室に入る時に片手を持ち上げられてご機嫌だ。
たぶんリリアンの大好きな設定の王子様とお姫様のようだったから嬉しかったのだろう。
リリアンが「ただいま帰りました〜」と言うとクレマンは立って行き、さっきまでの仏頂面はどこへやら緩みきった顔で片膝を付いて両手を広げ「おかえり〜」と出迎えた。
フィリップの手を離れてクレマンに抱き上げられたリリアンは父に甘える子どもの顔だ。こういうところを見ると(顔は似てないけど)やっぱり親子なのだな、と思う。
「ねえお父様、工房の時計師の方でもお祖父様の時計の開け方は分からないのですって!でも他に分かる方がいるかもしれないから預けて来ました。
あっ、もちろんちゃんと傷をつけないようにって伝えましたよ」
「そうかい、ちゃんと言えたかい、偉かったね〜リリアンは!」
「うふふ、そうですか?」
クレマンの大きな手で頭をグリグリと撫でられてもう髪が大変な事になっているのにリリアンは褒められて嬉しそうだ。その様子を見ていたフィリップの顔も自然と綻んだ。
(ああ、このままリリィをいつまでも愛でていたいがそういう訳にもいかないか)
フィリップにはまだやるべき事がある。それなら早く終えて早く戻って来た方が良いと判断し、ヴィクトルに声を掛けた。
「では別室に移って先ほど言っていた話をしようか、クレマンとグレース夫人も同行してくれ」
三人は「はい、喜んで」と応えフィリップの元に来た。
「コレットには向こうで給仕をしてもらう、場所はマロンのサロンでエミールを入れて五人だ」
「はい、畏まりました」とコレット。
「ではニコラ、リリアンをよろしく頼んだぞ」
「お任せください」
テキパキと指示を出し皆の返事にそれぞれ頷いた後、笑顔で言った。
「じゃあリリィ、ニコラとゆっくりしておいてね」
リリアンに対してだけえらく態度が違っているが、フィリップの変わり身にツッコミを入れられる者などいやしない。リリアンに至ってはいつも通りだからツッコミを入れるもなにもない、笑顔で手を振った。
「はい、フィル様。皆んな、行ってらっしゃいませ」
リリアンの言葉に皆は手を振ったり笑顔で応え去って行った。
これから彼らが向かうサロンは床材に茶系の大理石を使っているところからフィリップ達は『マロンのサロン』と呼んでいる。
フィリップが最も好んで使うのは黒のサロンだが、そこは硬質で角張った形のインテリアを配置し洗練された雰囲気の部屋だ、しかしマロンのサロンはそことは対照的にゆったりと広く丸みのあるインテリアを多用し温かみのある雰囲気にしている。
たった四人の会談だから人数的には十人対応の黒のサロンでも良かったのだがグレースがいたからこちらにした。
椅子も黒のサロンは若向きの座面が高く硬いものを使っているが、こちらは座面が低く柔らかいからグレースが座りやすいだろうと思ったのだ。
女嫌いで通っていた一年ほど前であればとてもじゃないがそんな事は考えなかったがリリアンに対してあらゆることを気配りしている内に今ではこんな風に自然と気配りが出来るようになっていた。
ふとそれに気付いて苦笑する、以前のダメさ加減も大概だがそれにしてもリリアンが自分に与えた影響のなんと大きいことか。
自分で言うのもなんだがリリアン以前と以後では別人のようだ。
さて、皆が座るとさっそく先に来ていたエミールが提案書なる物を三人の前に置いた。
「こちらをどうぞご覧ください」
「ありがとう」
ヴィクトルは手に取って中をパラパラと捲り、密かに口角を上げた。
フィリップのサインが入った提案書は中の文字もフィリップの字だ。
要望とその理由、想定されることにリリアン護衛隊について・・・それから騎士団を運営する当事者であるヴィクトルが熟知している現在の騎士の配置人数などもご丁寧に資料として添付してあった。
それだけじゃない、確認用に用意した現行の協定書の写しには関連箇所にしおりまで挟む心遣いまで!
この程度の内容にこの馬鹿丁寧な仕事ぶり。
元々彼がこういう仕事の仕方をする人物なのかどうかは知らないが多分リリアンの為だからなのだろう。
フィリップの並々ならぬ熱意というか、必死さが伝わってきて微笑ましく思った。
勿論これは一昨日トマ達が帰った後にフィリップが自ら作ったものだ。熱意が伝わるほどの仕事ぶりも当たり前で近く辺境伯の代替わりの際に見直しが行われる『王立辺境騎士団相互支援協定』にフィリップの要望を盛り込んで貰う為にはどうしても次期辺境伯ヴィクトルの協力が必要で首を縦に振って貰わねば困るのだ。
今回この改正を必要とするに至ったのは先日のトマとトマスがリリアンに会いに来た時にフィリップがふと思い付いてリリアンの専属護衛になってくれと声を掛けたことに端を発する。
彼らは喜んで来たいと言ってくれたが、結果として辺境伯の孫で今後辺境騎士団の中核を担うはずの二人を王立騎士団へ引き抜いた形になった。
このままでは辺境側が損をした形になり面白くないということでグレースがトマ達の抜ける穴を埋めるべく『辺境から派遣することが義務付けられている騎士の人数を現行より2名減らしても良いなら』という代替え案を出してフィリップはそれに賛成したが、現行の協定には『辺境出身者が王立騎士団所属になる時、彼らを辺境騎士としてカウントしても良い』とはどこにも書いていない。
1年だけとか短期であれば例外として認めることもあるだろうが長期に渡っては難しい。例外が当たり前になってしまうと協定が意味をなさなくなってしまうからだ。
グレースの提案を実現するにはこの条件を盛り込んだ改正が必要なのだが他の決まり事と違ってこの協定だけは例え王族であれど独断で変えることは出来ないのだ。
建国以来この協定は新辺境伯就位の度に見直しを行うことになっていて、それには国王、新辺境伯、王立騎士団総長の三者が話し合い全員一致しなければどんな軽微な内容でも変えてはならないということになっている。
これはアウトゥーラス一世が遠く孤立した辺境騎士団が不利益を被らないようにと特に配慮して決めたことで、今も脈々と守られている。
だから例えこの国の王太子と現辺境伯夫人が話し合って合意したと言っても一切の効力は無く、フィリップ達に出来るのは協定の見直し案を提案することだけだ。
グレースはヴィクトルの横でページを捲りながらウンウンと頷いている。
彼女を呼んだのは現辺境伯夫人であるし、先にこの問題についてやりとりしているのだからフィリップの提示する案に齟齬がないか確認してもらう意味があったのだがこの様子ならどうやら問題はなさそうだ。
クレマンは難しい顔をして読んでいるが、これは普段の顔と同じなので多分問題はないだろう。
彼を呼んだのはベルニエ領の私設騎士団は他領の私設騎士団と違い辺境騎士団の傘下にあるからその運営に影響が出るからだ。
彼らは有事の際は国境に派遣されることになっているし、王立騎士団へ騎士が派遣される際にも辺境騎士のくくりでベルニエからも何人か来るのだから私設と言っても自衛というより辺境騎士団の分団のような役割だ。
だけど実際のところはフィリップがどれほどリリアンの事を大事に思っているか普段離れて暮らす父クレマンへのアピールする為だったりもする。
ちなみに王立騎士団側にはもう根回しをしてあるのだが、向こうは大喜びで賛成してくれた。
まあ王立騎士団側にとっては1〜2年でちょうど馴染んできた頃に交代になり帰ってしまう派遣騎士よりずっといてくれる辺境出身の騎士の方が良いし、それが若くて腕のある辺境の騎士二人(しかも辺境伯の孫!)ならば尚更だ、もうメリットしかない。
それにレーニエとジローはリリアン専属護衛隊を抜けたら次のステップに移るという約束だ。騎士団総長と軍事相はそれぞれレーニエとジローの父親だから個人的にも大歓迎、これでようやく息子達を自分の側に付けて後継の為の本格的な指導を始められるのだ。
ではヴィクトルはどう出るか?
デメリットしかない、と言うだろうか。
フィリップは提案書に目を通している彼らに向かって話し始めた。
「この度見直しが行われる騎士団協定について提案したい事があったのでこの場を設けさせてもらった。
詳しいことはその提案書に記載しているから目を通して欲しいのだが、そこで想定されている王立騎士団へ入団する辺境騎士というのは具体的にはトマとトマスのことだ。
私は将来的にトマとトマスをリリアンの一番近くに置く専属護衛にしたいと考えている、その為には王立騎士団に所属してもらわねばならない。
だがそうすると事実上こちらに来る辺境の騎士が増えることになる訳でそちらの負担を軽減する為にグレース夫人から派遣騎士を二人減らしてはどうかと提案された。
私もそうするのが良いのではないかと思っているのだがどう思う。
いや、それよりもまずトマとトマスをこちらへ貰って良いか、という話が先なのだが・・・」
まずはそこからだった。
辺境のトマとトマスが王都で働く為には本人の意思とは別に彼らの家の当主と領主の許可がいる。
貴族は成人していようといまいと当主の指示に従わなければならないし、領主は自分の領地に住む人間を把握しておかなければならないからだ。
最悪、当主に反対されても領主の許可があればなんとかなるのだが、ヴィクトルは彼らの育ての親でありジラール家の当主であり、辺境領の領主であり辺境騎士団の団長でもある。つまり今回のケースは絶対にヴィクトルの許可が必要で承諾書もしくは推薦状を書いて貰わねばならないということだ。
そもそもトマとトマスは手放さないと言われたら・・・そこが一番の問題だ。