194話 本当はグラグラきてた
「クレマン、私からも時計師に傷をつけるなと言っておくからそう心配しなくて良い。
それに今回はとりあえず修理できるかどうか確認するだけで無理に直せというつもりはないんだ。もし動くようになるなら直せば良いし、無理ならそれは飾ってリリィには別の懐中時計を作って持たせれば良いのだから」
さらっとフィリップがそんな事を言ったのでリリアンは驚いた。
「フィル様、私の為に作らないで下さい。
懐中時計が持ちたいから直したいのではありません。時間が分からなくて困ることもありませんし、ただお祖父様の形見だから持っていたいだけなのです」
リリアンが焦った様子でこう言ったのも無理はない。
実は時計はかなりの高級品で王都で時計を手に入れようと思ったら一番手頃なお値段の置き時計でさえそれ一つで王族専用高級馬車より高かったりするのだ。しかも現状ではリュシアンやフィリップでさえも自分の時計を持っていないのだからリリアンも遠慮するというものだ。
まあ、王族に限って言えば値段が高いから持っていないというよりも、そもそも時計とは個人で持つ物ではなく皆んなが見る場所にある公共性の高い『設備』だというのが一般的な認識だからなのだが。
先ほどの集いでヴィクトルが辺境では懐中時計を騎士団の騎士全員に持たせていると言っていたが、それは王都の常識ではとても考えられないような贅沢なことなのだ。
マルセル・ジラール辺境伯は戦略的、若しくは自領の騎士の命を守る為に必要と考え標準装備品としたが、それを実現させる為に作る時計を懐中時計の1種類だけに絞り、職人の数もある程度揃えることで大幅なコストカットに成功した。それにより多分王都で付くだろう価格の半額以下で作ることが出来ているのだ。
まあその値段の差も王都では懐中時計を作れる程の技術を持った時計師はいないからあくまで作れると仮定して単純に材料と工賃だけで考えた想像の値段との比較になるのだが・・・。
そこまで時計を持つことが贅沢だと思われているとは知らないグレースは安易にまだ7歳の子供に形見の懐中時計を持たせたのだが、それが王太子婚約者候補のリリアンでなければ子供にそんな高価な物を持たせてと常識を疑われるところだ。しかし、そんな貴重で高価な物だからこそ懐中時計が大手柄の報奨になり得るのだと言えよう・・・いいや、やっぱりいくら何か欲しいものはないかと聞かれたとはいえやっぱりあんな物を国王陛下に強請るなんてパメラは大胆過ぎるくらいだ。
アンブロワーズ・アルノー王立騎士団総長が通快に思って伝記を書きたくなるのも納得だ。
実際のところ、集いの場ではみんなあんなに懐中時計を欲しがっていたというのに今のところヴィクトルの所に入った注文はパメラの褒賞用と国王陛下の個人用の2個だけなのだから。
遠慮するリリアンにフィリップは言った。
「うん、リリィの言いたいことは分かる。だけどこれから学園で待ち合わせたり外で会う約束をした時に時計があった方が便利だと思うんだ。僕も一つ持つようにしようと思っているから一緒に持とう」
「フィル様も、お持ちになるのですか?」
「うん。そのつもりだ」
(わぁ、お揃いの懐中時計で待ち合わせなんてロマンチックでスッゴク素敵!!)
今断ったばかりなのにフィリップも一緒に持つというのでリリアンの心はグラグラしてきた。
「そうですね、確かに時計があるとあとどのくらいで待ち合わせ時間なのか分かって便利かもしれませんね・・・」と言いながらその様子を想像し、つい口元がニマニマしてしまう。
「でしょ?辺境の懐中時計も気になるけど、宮殿のも見せて貰ってから決めようね」
「はい!」
宮殿の時計工房に懐中時計など置いて無いことをフィリップはこの時はまだ知らなかった。これまで時計工房に用が無かったので足を踏み入れた事がなかったのだ。
フィリップとリリアンの話を聞いていたヴィクトルが今この時とばかりにフィリップ相手にセールストークを展開し始めた。
「王太子殿下、こちらの時計は精度が高くないのに(値段が)ひどく高いでしょう。辺境の時計は丈夫なだけでなく精度が高くてお手頃ですよ」
「確かに辺境のは丈夫そうだが、精度がそんなに違うものか?」
「はい、ぜひ比べてみて欲しいですね。
これは私が王立騎士団に来ていた頃の話ですが騎士団の時計と宮殿の大時計の示す時刻は1時間で4〜5分、ひどい時は7分くらいは普通にズレていました。これだけ狂うと半日で大違いです。
私はあれが気持ち悪くてね、毎日昼に日時計を見て時計の針を合わせているはずなのに夕方になるとあちこちの時計が示す時刻が20分から30分、物によってはそれ以上違ってくるものですから退勤時間まであとどのくらいあるのか分からなくなるんです。今は本当は何時なんだろう、これから別の演習をもう一本やらせても良いのかなっていつも迷っていましたよ。
時計を見ながら行動するのが癖になっているせいもありますが、あの頃は父に領地から出るときは懐中時計を置いて行くように言われていたから自分の時計が手元に無く正しい時間が分からなくてよく不安になったものです。最後には退勤を告げる時の鐘まで本当なのかと疑っていましたからね。
まあそれはあくまで私がいた頃の話ですがね、どうですか最近は正確な物が作れるようになっていますか」
昼前に見たらやっぱり時刻が時計によってズレてたから精度は変わっていないとヴィクトルは気付いていたが一応聞いてみた。現在の宮殿の時計の精度の確認の為というより時計の正確性についてフィリップがどのような認識を持っているのか知りたかったからだ。
「いいや宮殿の時計の精度は今もそんなものだ。夕方近くになるとそのくらいは時の鐘とズレている。でも時計というものはそういうものだろう?大体の時刻が分かればいいのだから。
それでも今は一番精度の高いとされる時計を基準に日に朝昼夕と三回時計の針を合わせているから以前ほど示す時間はバラバラじゃなくなってると思う」
「人力で精度を高めているのですか・・・それは大変そうですね。
時計自体の精度について言えば、大きいものは錘などで時計の針の進む早さの微調整もしやすいですが、懐中時計のように特に小さくて持ち歩くような物は部品も極小になるし静置しているものに比べて狂いやすくなるので作るのも精度を高めるのも極めて難しいものなのですよ。
その点辺境の時計は我々が既に長い間使っていますから性能の高さには自信があります。携帯してお使いになるのでしたらやはり我が領の懐中時計でしょうね」
「なぜそんなに辺境の時計は正確に作れるのだ」
宮殿の時計師も一流と呼ばれる選りすぐりの職人達だ。ヴィクトルが言う通りなら何故そのように作る時計にこんなにも差があるのだろうかと不思議に思う。
「それは『必要が育てた』ということでしょう」
環境の違う両者では必要性に大きな差があるということだ。
まず王都では正確な時間は生活の中でそれほど重要視されていない。
時計というものが世に出てからもう随分経つのに未だに時計を持つ人は少ないし、というかリュシアンやフィリップも持っていないのを見ても分かるように王都ではほぼ個人で使ってる人はいない。
彼らの話にもあったようにとても高価であるだけでなく精度が高くないのであまりアテにならないからということもあるし、そもそもそんなに几帳面に時間が分からなくても生活するのに困りはしないのだ。
一応、王宮の部屋の窓から見えるところや騎士団棟には背の高い時計塔があって窓から時間が見えるようにはなっているが、そんなの無くても宮殿でも学園でも街にいても田舎でも、正時になれば『時の鐘』を鳴らすのでそれで時刻が分かる。その他その地域での必要に応じて予鈴やラッパの合図もあって、みんなそれで十分事足りていた。
しかし辺境領は違う。時計は生活必需品で命を守る物という認識だ。
険しく高い山の上にあり雪も積もると言う厳しい環境に住む彼らは自然や天候の影響をより受けて生活している。もし曇って太陽の位置が分からないような日に出掛けたら、時間が分からなくて引き返すのが遅くなってしまうかもしれない、辺境領はそれだけで生命の危機に陥るような場所にあるのだ。
日が暮れると真っ暗で足元が見えなくなり急激に気温が下がり体力を削られる。怖い獣の餌食になるのもそんな時だ。でも時計があれば明るい内に帰れるし、道に迷って方角が分からなくなった時も方位を知れる、だから辺境では懐中時計が王都以上に役に立つ。
そういう訳で辺境では時計を見る必要があり時計の精度が高められ24時間経っても数秒しか違わないし、とても丈夫で他の地の物より圧倒的に性能が良い。それこそ宮殿の時計師より辺境の隠れ里の時計師の方が技術は遥かに上だ。なのに勿体ないことにそんな物があることさえ辺境外の人達に知られていなかった。
それはマルセル辺境伯が他領の人に売ることも教えることもなく自領の騎士団の装備品として隠れ里で秘密裏に作らせていたからだ。
優れた道具とそれを作る技術は自領の宝、この懐中時計があるかどうかでどれほど戦いが有利になることか計り知れない、というのがマルセルの考えだ。日の出や時の鐘など頼りにせずとも複数の方角から決めたタイミングで一斉攻撃に出るなど戦術を考える際にも重要な役割を持たせることも出来る。
しかしヴィクトルはこの素晴らしい懐中時計を世に広めないのは勿体無い、作る技術を外に出すつもりはないが時計自体は皆も使ったら良いと考えていた。もっと国中に轟くような大事業にしてはどうかとも。
確かにまだ個人では手を出しにくいお値段ではあるが国王陛下や王太子殿下が使う姿を見たらきっと他の人達も使いたくなるに決まっているのだ。沢山売れたら単価も下げられより多くの人が手に入れやすくなる。そのうち他の種類の時計も作れるだけの余裕が生まれ、時計といえばジラール領と言われる有数の産地になれるかもしれない、という思惑もある。
もういっそのこと宣伝がてら王太子殿下とリリアンにプレゼントしちゃおうかな、と思ったりもするが欲しくて買ったと言って貰える方がより宣伝効果が高くなる。まあどちらにするにせよもうひと押ししてからだ。
「まあ時計工房でよく見て来て下さい。私は精度が高く丈夫でしかもお手頃価格の辺境の時計をオススメしますがね」とヴィクトルは良い笑顔を見せてダメ押ししておいた。
流石のフィリップもお抱えの宮殿時計師を差し置いて辺境の時計に手を出せないという義理人情で耐えているが本音を言えばヴィクトルの言葉にグラグラだ。
僕だって辺境の懐中時計が欲しい!今すぐに!もう購買意欲はMAXなのだ。
それにしても今までヴィクトルから受ける印象は慎ましく勤勉な男というものだった。フィリップの知る限り目上の者に対しては従順で目下の者にも穏やかで押しの強さなど微塵も感じたことがなかったのに今はどうだ、王太子であるフィリップに対してこのようなセールストークを展開するほど堂々としている。それはちょっと意外な姿だった。
彼は数日後に辺境伯になることもあり自信を深めたのだろうか。いいや人はそんなにすぐ変われるものではない、元々これが素なのだろう。
普段の控えめな様子からは想像出来ないが確かにヴィクトルは辺境でも群を抜いて強いと言われているのだし、これまでも不在のことが多いマルセルの代行を務めていて事実上のリーダーだったのだ。
脳ある鷹は爪を隠す、か。
私はヴィクトルの人となりをもっとよく知っておくべきだろう。
これから騎士団同士の協定のみならず国境防衛、氷の運搬や運河に流す水の調整など色々な折衝をする相手はこの男になるのだから。
フィリップはヴィクトルが話すのをそんな事を思いながら聞いていた。
「まあ確かに辺境の懐中時計はあの無骨な感じが格好良くて憧れるが我が宮殿時計師の仕事も侮る訳にはいかない、まあちょっと行ってくる」
フィリップとリリアンは皆と別れ今度こそ時計工房へ向かった。