193話 クレマンの馬鹿力
ドアを開けるとちょうど『時の鐘』がゆっくりリーンゴーン、リーンゴーン、リーンゴーンと3度鳴った。
厳かで神聖な空気を漂わせ冷んやりとしていた至宝殿の中と外でこうも違うものか、日差しの入る明るいホールは温室のように暖かく、なんだか別世界から日常に戻って来たような気分になった。
それにしてももう午後3時とは思ったより長居をしていたらしい、フィリップはこの後の指示を手短に出すことにした。
「私とリリィは時計工房へ寄って戻るから先にリリアン応接室に戻っておいてくれ。
ニコラは引き続きグレース夫人付きでリリアンが戻るまでの間の主人代行を頼む」
「はい、分かりました」
フィリップに頼まれニコラはリリアン応接室の仮の主人となった。短い間だから特にすることはないだろうが、皆に温かいお茶を振る舞うくらいは出来るだろう。
しかしここでフィリップがニコラを仮の主人と決めたとしてもリリアンかフィリップがいなければニコラ達だけでは入室出来ない、いくらニコラのことをよく知っている門番だとしても決まりは決まり、その辺は実に厳しいのだ。だがエミールが同行すれば大丈夫だ。
「エミールは皆を応接室に送り届けた後、会議の進捗を確認し私に報告を」
「はい、承りました」
そう言えばヴィクトルにも言っておかねばならないことがあった。集いの為に招集されていた彼らはもういつ帰っても良いのだ。すれ違いにならないようにここで一言言っておくべきだろう。
「ヴィクトル。
辺境伯が代替わりする時に王立騎士団との協定を見直すことになっているのは知っているだろう、それについて私の方から事前に打ち合わせておきたい事がある。近いうちに時間が取れるか。
・・・と言っても私も学園が始まるといつでもという訳にはいかないのだが」
「そうですね、明日明後日はクレマンの妻ジョゼフィーヌの仕事を手伝うと約束しておりまして。もし王太子殿下のご都合が宜しければこの後はいかがでしょうか」
伯父の口から思いがけず母の名が出てリリアンは咄嗟に伯父の顔を見た。伯父は弟の嫁の仕事を手伝わさせられるというのに嫌な顔一つせずいつも通り穏やかだ。
(またお母様は仕事にかまけて私のことは放っておかれるつもりね。しかも伯父様にまで自分の仕事を手伝わせるなんて。
今回も王都に来てもう何日も経つのに顔を見に来るどころか伝言さえない、もういい、もういい、そんなに仕事が大事なら仕事ばっかりしてたらいい。もう本当にお母様なんてどうでも良いもの、もう知らない)
思いっきりモヤモヤしたけど平常を装った。母についてはもうリリアンは諦めの境地だ。
フィリップはヴィクトルの言葉に少し考えてから言った。
「そうだな、今日話が出来れば私もその方が都合が良い。エミール、私のサロンで話をする。資料と部屋の準備をしておいてくれ」
「はい、畏まりました」
これでよし、と!
「行こうかリリィ」
「はい。ではお兄様、しばらくの間よろしくお願いします。
それからお父様、お父様はまだお帰りになられませんよね?」
「うん、いるよ〜」
クレマンが愛娘の言葉に目尻を下げるとリリアンも嬉しそうに顔を綻ばせた。私にはお父様とお兄様がいてくださる、だからいいもん!
「良かった!では皆さん、ゆっくりしていて下さいね」
そう言って二人が歩き出そうとしたところ、グレースがクレマンの腕をクイっと引いて下から顔を覗き込むようにして言った。
「クレマン、あなたリリアンに言うことがあったでしょ?」
「ん?ああ、そうでした。
リリアンや、その懐中時計は開け方が分からないからと言ってテキトウな工具を使って無理矢理こじ開けようとしないようにとくれぐれも言っておくれ、そんなことをしたら傷が入って取り返しのつかないことになってしまうからね。
あれはたった一つしかない大事な形見だと言っておくと気を付けてくれるだろう、なんなら私も付いて行こうか?」
クレマンはさっきもやけに修理で傷が入ることを心配していたが、実はベルニエの本邸で今リリアンが持っている父の形見の懐中時計が壊れていると知り、直せないかと考えて試しに同じ構造の自分の懐中時計を開けようとして傷を付けるという失敗を犯してしまっていたのだ。
何故そんなことになったのかというとグレースが辺境から初めて出てベルニエを訪れてくれたので歓待の酒宴を開きしこたま飲んで酔っていたからなのだが、朝起きた時に前夜の記憶が全くなく、日課の懐中時計のネジを巻いて時刻を合わせておこうとした。しかし何故か裏蓋が開きにくい、首を捻りながら無理に開き、ガリガリに入っている無数の傷に気がついて悲鳴をあげた。
よく見たら裏だけでなく表も横もあちこち傷だらけで「誰がやった!?」と鼻息荒く犯人を探そうと部屋を出たら、既に朝食を終えてくつろいでいたヴィクトルに「お前だよ」と言われ、それでも信じずにいたらグレースに「やあね、クレマン。あなたよ」と呆れたように言われて初めて信じたくらいだ。
それにしてもとても頑丈なはずの時計があんなになるとは驚いたが、後で聞いたら皆が止めるのも聞かず力任せに万力で締め上げ、ノミだのゲンノウだので闇雲に叩き、果てはバールを持ち出して来たので何をするつもりだと皆が全力で止めたのだそうだ。
彼らの全力は全力なのでクレマンは相当な目に合ったはずだ。
しかし部下達の中にクレマンに覚えのない怪我をしているものが数名いて、目の上に青タンを作ったり腕を包帯でグルグル巻きにして首から吊っていたりするのだ。それを見ると自分が何かしたのではと思うのだが今のところ分からない。こっちは覚えてないからこのまま不問にしておいてもらえると有難い。
それより無惨な姿の懐中時計だ。長年苦楽を共にしてきた愛用の懐中時計にとんでもない傷を負わせてしまったことをクレマンはとても後悔していた。
リリアンはそんな父の事情は聞いていなかったのだが、心配そうな顔をしていたので慰めるように父の手を握って言った。
「お父様、ちゃんとそう伝えますから大丈夫ですよ。私もお祖父様の懐中時計を傷付けてまでは直そうと思っていませんからご安心下さいませ」
「そうかい、安心かい?」と娘に手を握られて嬉しいクレマン。
「そうそう心配しなくても大丈夫さ、お前じゃあるまいし。あんな無茶する時計師は宮殿時計師にはいないよ」とヴィクトルが言い皆もそうだそうだと笑った。まあ本当に酔っ払いの馬鹿力の為せる技だ素面じゃ無理だと。
グレースが「その話じゃないでしょ」と言ったのは皆の声にかき消され誰の耳にも届かなかったようだ。
スランプでしょうか
書きたいことがありすぎて逆に書けない
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