19話 ニコラとジョギング
ニコラとの朝のジョギングの初日は、5分走って5分歩くを繰り返すというものだった。
朝の30分だから3回通りだ。しかもそのたった5分も早く走ろうとしてはいけないという。なんという生ぬるさだ。せっかく早起きしたのに甲斐がない。
きっと私のレベルに合わせてくれたのだろう。申し訳ない気持ちはあるけれど伴走に付き合ってもらう、確かに自分でも最初はそのくらいじゃないと無理な気がする。
走り出すと「もっとペースを落として、それではすぐに息が上がってしまいますよ。たった5分でも丁寧にいきましょう」という。
えええ?
マジか。これ以上ゆっくりか、まるで亀だぞ。
次の5分は喋りながら歩く。
学園の中にランニングに適したコースがある。軽いアップダウン、キツいアップダウン、ただ平坦で真っ直ぐなコースと。ここは平坦コースで今日はここを行ったり来たりだ。
右手は林で境界に細い木でできた柵があるが所々で途切れている。届け出が必要な林の中を走るアスレチックなランニングコースもあるからだ。学園自体の境界はもっと外にある。
「殿下、ここはやけにセミの抜け殻が多いエリアなんですよ」
「そうか?」なぜ急にセミの抜け殻の話になった?
「あそこまでで100は超えますよ」
「まさか」
「いやいや、ちょっとざっと数えますよ。1個でしょう?ほら2、3・・・50・・・」
「うわ、本当だ。ちょっと多過ぎだろう。だがお前、普段はここを走って通っているんだろう?なぜそんな事に気付いたんだよ」
「以前、あそこまでに2回オシッコを引っ掛けられましてね、危険なので気をつけていたら、すごくあったんです。抜け殻があるということはセミも多いということですよ」
「え」
「ほら、だからそっちの木の近くは危険です」
ジジッ
あまりにもタイミング良くセミが飛んだ。
「うわっ無理っ」咄嗟にフィリップも飛び上がる。
「ね?」ね、じゃない。
「それからちょっと入ったあの木に誰かハチミツか何か塗ってるのかな?よく早朝はカブトムシやクワガタが来てますよ」
「お前は昆虫好きだったんだな」
「いいえ、むしろ苦手です」
「ええ!?そのナリで?」
「いや、逃げ惑うほどではないんですが、こっち来るなって思う程度ですけど。だから目につくんですかね?走りながら探すでしょう?動体視力や危険察知能力がお陰で格段に上がった気がして若干感謝はしてますけど」
「あはは、虫嫌いで動体視力って、あはは、危険察知能力って、あはは」
なんか久しぶりに笑ったら笑いが止まらない。真面目な横顔のニコラが面白いから余計に可笑しくて、おかしくて、涙が出てきそうだ。
そんなフィリップを横目で見遣り、ニコラは思った。
(隠れた虫を見つける探査能力に虫の殺気を感じる感知能力、蜂も苦手だから気配を消す能力もアップしたのだがな、こんなに笑われたら言えない)
「ニコラ、
ありがとう」
ニコラは返事をしなかったけれど、前を向いたまま少し笑った。
それからは毎日一緒に走っている。筋トレは雨が降る時までおあずけだ。
5分5分が今は10分走って5分歩くになって、その間の走る時のスピードはかなり上がっている。
途中で歩くと思うと遠慮せずに攻めれるものだ。
走って歩き、走って歩き、同じ時間内で走っていてもスピードが上がってきたからだんだん距離が伸びてきた。
そうしたらもっと走りたくなって距離を伸ばす為にもう少し早起きするようになる。でもニコラはまだ通して走っていいとは言ってくれない。
逆に朝は体にエネルギーが蓄えられていないからそんなに沢山走ろうとしてはいけないと言うのだ。これだけでも飛躍的に早く長く走る能力がアップするのだと言うけれど、ちょっとガッカリだ。
たまには雨の日もあって鍛錬場で筋トレも教えて貰った。そっちもあの店でウェアとシューズを揃えた。シューズは走るのと同じものではいけないらしい。
最初はプランク20秒、腕立て伏せ、スクワットを10回を1セットだけ。
たったそれだけって思ったよ!?だけど腕立てやスクワットはすごくゆっくりするんだ。
どれもめちゃめちゃキツかった。初日はもう腕や足がぷるぷるして授業中ペンを握るのに力が入らなかったし翌日は全身筋肉痛だ。ちょっとしただけなのにこれ筋肉にすごい効き目あるんじゃないか。僕もマッチョになれるかな?
筋肉がつくと走るためのエネルギーも沢山蓄えられるようになるとニコラが言うから筋トレは夜にもするようになった。自主トレだ。
ジョギングも筋トレも負荷を上げても耐えられるようになって、背筋も鍛えたりとメニューもセット数も増えたし日に日に上達して、みるみる強くなる。力こぶを作ってみる。腹筋を手で触ってみる。ちょっとコレ凄くない?なんだか、面白くなってきた。
以前は朝は食欲がなく食べていなかったが、終わってシャワーしてニコラと食堂で食べる。
ぺこぺこにお腹が空いて食べるハムエッグはやけに旨い。あと牛乳飲めとか水分取れとかもっと食べろとか急にニコラが食べることに煩くなった。
肉や魚は筋肉になって水分や塩分そして甘いものは筋肉に貯蔵されて後でエネルギーとして使われる。主食や甘いものが足りないと判断力が落ちるしパワーが足りなくなる。筋肉をつけるためにだとか、エネルギー切れを起こさない為にうんぬんかんぬん‥‥。食べてる間に即席講義が始まった。
あいつ最近よく喋るし、案外世話焼きだな。
なんでもそういった事は、辺境伯領騎士団で代々伝わっているらしい。ニコラは年に2回夏と冬に強化合宿に参加しているとか。あそこの騎士団は王立騎士団とレベルが全く違うので説得力があるから言うことを聞いておく。
体が疲労するせいか、よく眠れる。
日中も『あの事』について考える時間がほとんど無くなってきた。それより筋トレの方が興味あるっていうか。
遠巻きにしていた者たちが戻ってきてワイワイと賑やかだ。ちょっと皆んなの中でも筋トレがブームだ。腹筋を突つき合ったり、ポーズをとって背筋選手権とか言って見せ合ったりして。誰が一番かって?まあニコラだろ。
彼らと話すのもそんなに億劫ではなくなり、かなり日常が戻ってきた。
フィリップの様子が落ち着きを見せるようになったそんな秋も深まったある早朝、ニコラは1人で走っていた。
殿下は王宮に呼ばれて帰っているからいない。
昨日の朝「ずっと帰ってなかったから行って来る」と言うので寮の門の前で見送ったままだ。
後ろから来た馬車からニコラに声が掛けられた。
「ニコラ、会いたい会いたいと思っていたんだ」
「マルタン?朝帰りか?」
宰相補佐のマルタンだった。彼は年は3つ上だけど殿下を通じて幼馴染であり気安い仲だ。ニコラはリリアンと違い王子との交流があったので元々学園に入る前からタウンハウスで暮らしていたのだ。
馬車から降り、ニコラに今良いかと聞いて馬車をそのまま帰らせた。
「ああ、昨日会った時に殿下がかなり復調していて驚いたよ。殿下に尋ねたらニコラのお陰だと言っていた。礼を言う。彼のために何かしたいと考えあぐねていたがなかなか良い案がなくて困っていたんだ。父上たちはそっとしておくのがいいと言うし、寮に入ってちっとも会えないし、手紙を書いたけど返事がないのでそれ以上声を掛けるのが憚られたというのもあって」
やけに言い訳が多いな。
「で?」
「本当にもう、すっかり良いんだろうか?全てを以前に戻しても良いと思うか」
「何か気になることが?」
「ああ、実は昨夜、殿下の私室の前まで話しながら一緒に行ってドアの前で別れたんだ。部屋に入った途端、殿下の叫び声がした。すぐに部屋に飛び込んだよ。
ベッドの上に赤いバラの花が1本置いてあった。殿下の部屋は女人禁制だ。後で聞いたら掃除夫が殿下が元気に帰ってきたお祝いに気を利かせて置いたらしい。それが『事件』を思い出させたらしく部屋の隅で座り込んで震えていた。だから心配で私も残っていたんだ。
朝、様子を見に行ったけど従者も外へ追い出されて部屋に入れないって。ベッドに入らず部屋の隅に座り込んでいるらしい。陛下や父上はそろそろ殿下に公務をさせる意向だが、まだ早い気がして・・・」
「そんな状態・・・。宮殿で執務は難しいかもな」
「そうだよな、もう一度進言してみよう」
「事件か、マルタンはその『事件』とやらの内容を知っているのか」
「ああ、父上に私が資料をまとめるようにと言われたからな。関係者からの調書や処遇。殿下の状態を記録したもの。専門家の見解を聞いたものや資料、薬の検証、それらは全部私のところに集まる。多分誰より知っていると思う。これはもちろん極秘事項で誰にも言ってはいけないことだが。
でもニコラ、お前の意見が聞きたい。殿下は今、お前にだけ気を許している。殿下を元の殿下に戻したい。あんな状態の殿下は痛々しくて見ていられない」
「なるほど、その資料を殿下自身に見せたい。人の言葉からではなく、公式記録を読めば疑いがようがない。殿下は自分がどんな事件に合ったか知らないのでは?確かに女性をひどく怖がっている様子がある。だけど、それは単なるトリガーで、本当に恐れている核心は他にあるような気がするんだ。
他にも何か別の人に言えないような恐ろしいことがあったのでは?私は知るべき人間じゃないから聞けないが、女性が怖いということが原因で全ての人に対して疑心暗鬼になるものだろうか?陛下や王妃様さえ信頼していないようだったが」
「ああ、そうなんだ。陛下は本当に殿下を心配しているんだが‥‥。
事件が起きてしばらく殿下は目を覚まさなかった。目を覚まして皆が『大丈夫だった』『何もなかった』と常に元気付けていたが安心するどころか表情が固く、頑なになった印象だった。直ぐに誰の言葉も聞かなくなって。私のことも目を合わせてもくれなくて・・・。怯えた様子だし、食事ももどしてしまって受け付けないし。
でも医療班は体調が悪くなる原因が見当たらないというし、扱いに困って殿下が寮に入ると言ったのを幸いに学園に預けたというところだ」
「例えば人って他の人だけ知っていて、自分の事なのに教えてもらえない、自分の事なのに分からないって事があると何か隠されてると不安になるんじゃないかな?何か考え込んでは辛そうなお顔をされる。
もし、酷い目にあっていたとしても、それが客観的にどんなことだったのかを自分で知っておくって大事な気がする。乗り越えるために。殿下の心の不安定さはタイミング的にも事件が関わっているのは間違いないだろう。体調は心の不安定さが影響していると思う。殿下が事件の全容を知れば或いは!見当違いかもしれないけど・・・」
「いや、ニコラの言うことを聞いていたら私もそれが状況が良くなる一番良い方法のように感じてきた。
一つは、事件の時はどんな物か分からなかったが、ある薬を使われたんだ。それの影響を気にしているのかも。あれはあの後検証されて、相当濃い濃度で長時間吸わない限り問題ないと分かったんだ。気にしているのが薬ならば、それを知れば殿下の杞憂だと解るな!
ではどうするかだ。正攻法で陛下と父に頼んで殿下に資料を見せるか、隠れて見せるか、会議の時にこっそり宰相執務室に呼ぶか・・・。後でバレたとして私が怒られても殿下が咎められることはないよね?」
「危ない橋を渡るな、マルタンの今後の信用に関わるぞ。それに極秘情報を私に喋りすぎだ。
この事はまず殿下にお伺いを立てる。私が明日会った時に殿下にどうやって見たいか、もしくは見たくもないか聞くよ。正攻法で行こう。
殿下の意向を連絡するからマルタンには国王陛下と王妃様に許可を取って欲しい。自分達のお子だ。望みのある方法をダメとは言わないと信じたい。それに上手く事が進んだら、殿下からマルタンの信用も取り戻せるだろう」
「お前!私のことまで心配してくれるのか。ありがとう。きっと上手くやり遂げてみせる。連絡を待ってる」
「ああ」
マルタンの邸はここからほど近い。歩いて帰るらしく2人は別れた。
ニコラは日が昇りだんだん活気をおびてくる街へランを再開した。
フィリップが筋トレオタになった! _φ( ̄▽ ̄ )
前回までのシリアス路線は皆さんに楽しんで読んでいただけるのかしらと心配していましたが、ここまで読んでくださいまして、本当にどうもありがとうございます!
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