163話 マルセル・ジラールという男
マルセル・ジラールはとてもマメにメモを取る男だった。
思い起こせばいつも胸ポケットに手頃な大きさの手帳を入れていた。
グレースがマルセルの書斎に足を踏み入れたのは、その死がハッキリした後だ。
空虚な気持ちでなんとなく入って来た。
今まで気に留めていなかった本棚に何故か引き寄せられるような気がしたのは、よく見られた手帳に何かを書き留める彼の姿が目に浮かんだからかもしれない。
彼のその習慣は、子供の頃に父や祖父に連れられて行った氷の山の探索日誌から始まったものと思われ、当時の物はバラバラの一枚の紙で後から日付順に紐で綴り、更に表紙に番号を振って几帳面に並べられていた。
いくつか思いつくままに手に取ってパラパラと中を見たけど、子供の頃の物は氷の宮殿や銀の民について聞いたことや調べたことを書き留めていて重要だと思われる部分には色が付いていたり、付箋が付けられ『重要』とか『覚えておくこと』などと書いてある。
やがて綴りはマルセル・ジラール辺境伯個人のシンボルである『蠍』のマークが型押しされた手頃な大きさの手帳になった。
確か父と祖父が亡くなった為にマルセルはわずか11歳で辺境伯となったはずだ。当時は10歳から爵位を継げたのだ。
以降は内容がガラリと変わる。
氷の宮殿の探索は一人では出来ないのか止めてしまったようだ。
イラストや地図なども多く崖などの危険な場所、隠れやすい場所、泉の湧き出ている場所、夜営に向いた場所などが重要ポイントとして記され、付近の植生や動物の分布、季節による変化などが書き込まれ氷の宮殿についての記述は全然見当たらなくなった。
最初の結婚をした時も子供が生まれた時もその手帳は変わらず探索日誌であり、日々のちょっとした出来事をメモするくらいだった。
結婚した
男子が生まれた
ヴィクトルと名付けた
などとシンプルに欄外に一行書いてあるだけだった。
しかしある日を境にその日にあった出来事と思ったこと細かく綴る日記のような書き方に変わった。
それはマルセル23歳の時、領地にある神殿を訪れてからだ。
「神殿にいる少女に」という文字が読み取れた。
これによるとグレースの覚えていないマルセルとの最初の出会いは、神殿を訪れたマルセルに飲むための水を所望されコップに汲んで渡した時らしい。それから彼は度々自分の様子を見に来ていたようだ。
「今日は神殿の周りの草をとっていた」
「今日は神殿に来た足の悪い年寄りを送って行っていた心優しい少女だ」
「ようやく見つけた」
「カサンドラが去った後でちょうど良かった
彼女を貰い受けたい」
(まさかだけど、私に一目惚れしてたのかしら?フードで顔はほとんど見えなかったはずだけど)
それに名を改名させたことについては、アンナを守る為に必要なことだと書いてあった。
(それは聞いたことがある。他の銀の民が彼らが探す乙女と間違えて攫いに来るかもしれないからって言ってたわ)
グレースについてはそれ以降も「美しくて驚いた」に始まり「器量が良い」「勤勉で好ましい」「まだ緊張しているようだが笑うと愛らしくてこちらが困る」などと小っ恥ずかしくなるような事が書かれていた。
そんな風に思っていてくれたとは照れくさく、それでいてジワジワと広がる喜びを感じた。
自分の事が多く書いてありそうなこの辺りの手帳はとても興味がある。
立ち読みでいい加減に眼を通すのは勿体無いわ、腰を据えて順番に一行一句漏らさずじっくりと読み進めたいと考えてそれ以上見ることをやめ、それは元の本棚に戻した。
終盤に近い手帳には先祖達への想いが綴られ、自分も年齢的に後がないから氷の宮殿の探索を再開することにしたと書いてあった。
グレースの目には結婚した当初からずっと熱心にそれを探していたように映っていたが、彼は意外にもそれほど情熱を持っていたわけではなく、銀の民の末裔の長としての責任感で探しには行くことにしたらしい。しかも発見することについては懐疑的だったようだ。
グレースの知らないことだらけ、この探索の跡を継ぐ者はいらないとまで書いてあったのには驚いた。
考えて見ると確かに息子達を氷の宮殿の探索に連れて行くことはなかったし、銀の民について自分が知っている多くのことについても殆ど彼らに教えてなかった。
マルセルの父や祖父、そして仲間が氷の山で帰らぬ人となったことからもう銀の民は氷の宮殿を探すことを止めた方が良いと考えるようになっていたのかもしれない。
初めて知るマルセルの色々な想い。
彼は無口であまり色んなことを話してくれなかったけど、手帳には結構細々と書いてある。
どのくらいいたのだろうか、もう部屋は暗くなってきた。
すごく興味があって、すごく読むのが楽しみ。死ぬまでに絶対全部読みたいと思ったグレースだった。
こう見ると、彼の行動に矛盾があると思われるだろう。だって最期の時も氷の宮殿を探索していたのだから。
マルセルは寿命が短いと言われる銀の民の中で長命だった。
子供の頃は父と祖父に『銀の民として如何に生きるか』を教え込まれた。ジラールの家系は他の者たちより多く氷の女王や氷の乙女と交わっているお陰でその形質を強く残し続けていると考えていたから、代々彼女たちが住むという氷の宮殿を探すことに執念を持ち人生の全てを費やしていた。
父と祖父を亡くして辺境伯となってからは防衛のため、また山で暮らす者の安全の為に山の探索は続けたものの、銀の民の枷を自ら外し氷の宮殿を探すことを放棄した。
放棄したはずだった、なのに・・・。
年を取るとさすがに衰えてきて自分の人生が残り少なくなってきたと感じるようになった。それに伴い親や先祖達の思いが重く心にのしかかってくるようになった。
気付けば世の中は変わり、銀の民復興の担い手はもう自分しかいない。持ち前の責任感からだんだん自分は過ちを犯そうとしているのかもしれないと、このままでご先祖様にどう顔向けするのだと後悔の念に見舞われるようになった。
そういう気持ちになった一番のキッカケは三男の所に娘が生まれたことだ。我が家系初めての女児しかも伝説にあるままの美しい銀の髪と水色の瞳を持っていた。先祖代々語り継がれた夢物語は夢ではなかったのだ。
更に『銀の馬』を見つけたことで思いは加速する『氷の宮殿』は絶対に存在するという確信を持った。
マルセルは長年の研究と探索により、氷の宮殿の場所は固定されたものではないと考えていた。許された者の前にだけ現れ、中に入ることが出来るのだ。
(とうとう氷の宮殿が我が目の前に現れる時が来たのだ!)
早く見つけなければとか、銀の民を我が手で再興をしなければという妄想のような事を本気で思い込み少しもジッとしていられなくなっていた。
そんな精神状態で書かれた日記には目を疑うような事が長々と記されていたから、最後の年の日記がグレースや他の人の目に触れる事なく失われたのは幸いだった。
グレースはあの日、日が暮れて暗くなりすっかり字が読めなくなってしまうまで、独り夫の書斎で彼の遺した手帳を読んでいた。
新婚の頃12歳だったグレースは年の離れた24歳のマルセルに妻としても女としてもどう接していいのか分からず随分と遠慮していた。こんなに私を認め、愛してくれていたのに・・・若き日の勇気も度胸もなかった自分にもっと自信を持てと言ってやりたい気分だ。
でももう今更遅いわよね・・・グレースはしみじみと言った。
「どうやら毎日のように顔を合わせていても、どんなに近くにいても、気持ちは言葉にして伝えようとしなければ伝わらないものらしいわ。
私もね、意地を張ってたつもりはなかったんだけどね、もっと素直に言葉にすれば良かったのよね。だって私は後から知ることが出来たけどあの人は知らないままいってしまったんだもの。
私の気持ちを伝える術がない、今はそれがとても残念」
私の気持ち。
それは私もよく分からないけど・・・。
いつも居ないくせに、その存在感はとても大きかった。頼りにしていたし辺境伯の夫人であるという事実が私の心の拠り所だった。
残念ながらマルセルが生きている時は愛されてるとも愛してるとも思っていなかった。結婚当初から子供たちがいたし慣れない環境のなか毎日バタバタでそんなことを考える余裕もなかった。
でも、間違いなくマルセルは私の夫で、私の家族だった。こんなふうに居なくなって心にポッカリと穴が空いてしまったように感じるのは、私も彼を愛していたからじゃないかしら。
一度でもマルセルに「私のことどう思ってるの?」って聞いてみれば良かった。
もしこの日記に書いてあるような返事をくれたらなら、愛されていると知ってきっと嬉しかったでしょうに。
「お祖母様・・・」
何度となく繰り返す後悔の念を、また一からおさらいしていたようだ。
心配そうに自分の顔を覗き込む孫を見てグレースは気を取り直した。
リリアンに私は大丈夫だと伝える為に笑顔を作り、努めて明るく言う。
「でもね、リリアン。私はあの人のことを誤解したまま一生終えてしまうところだったけど私には彼の日記がある。あの人がこうして文字にして残しておいてくれて良かった。
私はこれからマルセルを知る心の旅に出るのよ、どんな旅になるのかとても楽しみなの」
「心の旅って素敵ですね、お祖母様。なんだかロマンチック」
「お祖父さんがロマンチックかどうかは分からないけど、でもね読む方はとてもロマンチックにはいかないのよ。領地ではね日中忙しくて読む暇が無いんだけど夜になったら部屋の灯りではとてもじゃないけど読めないの。
それって明るい昼間でも読むのが大変なのよ。昔のは大きな字で書かれていたからまだいいの、でも最近に近くなると筆記具がよくなった分字が小さくなって、書くのも走り書きみたいにチョロチョロになって、ただでさえ読みにくい字なのに、もう私の目が遠くて!!何とか読もうと頑張るんだけど何が書いてあるのかさっぱり分からなくて苦労してるのよ。
もう本当に歳をとるって嫌ね〜、だからほら、ちっともロマンチックじゃないでしょう?
それで王都なら何か良い道具があるんじゃないかと思って期待してるんだけど、どうかしらね」
「そうですね、きっとありますよ。セントラル広場のお店には色んな物がありますから。私も一緒に探します」
「ええそうしてくれると助かるわ!」
マルセル・ジラールは頑強で銀の髪に銀の眼と実に銀の民らしい風貌をしていた。そして孫のリリアン以外には性格はとても偏屈で、気難しい男だと思われていた。
だが本当は不器用なだけだったのかもしれない。
現存している日記を見る限り、奥さんと子と孫を、とても愛していたようだ。
そして銀の民の特性でもあるのだが、嘘のつけない真っ正直な男だったのだろう。
日記の表紙の裏には使い始めの日付とサイン、そして「私はこれに真実だけを書く」と記してあった。
マルセル・ジラールの印章はサソリ。
なぜ辺境にいないサソリなのかと言いますと子供の頃に長い髪を三つ編みにしていて先っぽが跳ね上がっているのがサソリのシッポを連想させ『辺境の蠍』と呼ばれていたからです。
また、小さいのにめっぽう強くて怖がられていたからとも言われています。
確かに偏屈で気難しいところはありますが、なかなか奥が深いというか愛すべき男なのですよ。
_φ( ̄▽ ̄ )
<お知らせ>
次話は8月1日11時に更新予定です。
しばらく暗い話が続いていましたが次回は明るい感じになる予定です。
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