16話 パトリシアの涙
パトリシアはフラッペを持たせた侍女を連れジョゼフィーヌの寝かされている控えの間に来ていた。
「ジョゼ、具合はどう?」
「大丈夫。例の発作よ、ありがとう」
「ふふ、分かってるけどね」
「そのせいでフィリップ様の名シーンを沢山見逃してしまったに違いないわ」
肩を落とす様子を見てしばらく微笑んでいたパトリシアは徐にジョゼの手を取り言った。
「ジョゼ、本当に本当にありがとう」
「どうしたの?」パトリシアの真摯な態度にジョゼフィーヌは居住まいを正した。
「私たち、きっと、ずっと、ずっと、対応を間違っていたんだわ。実はフィリップは女嫌いじゃなくて、女性恐怖症だったの。もし、もしリリアンちゃんに出会わなければっこんな日はっ」
何とかそこまで言って言葉に詰まったパトリシアの目から涙がぼとぼとと零れる。
パトリシアに明かされたのは、王になろうというのに国の人間の約半数に恐怖を感じるという、とんでもないトップシークレットだった。
特に学園に入って間もない頃に起きた事件はフィリップの心の一部を閉ざしてしまった。私たちはいったい、どうしたら良かったのだろう?
最初の間違いはもはや伝説となっているあの出来事の対応だ。
5歳の同い年の3人娘の取っ組み合いは見ていた者が多かっただけあって有名な話だ。
あの時はフィリップは驚き、傷つけられて怯えていた様子だったが後で「僕の力が足りずあの場を治おさめることが出来ませんでした。しかし、父上のように立派な王になるため研鑽します」と健気な事を言っていた。
まずは令嬢達に貴族として必要な振舞いを学んでもらい身につけてもらわねば。そう考えてしばらく顔を合わせる機会を作らなかった。その代わりマナー講師をこちらから紹介した。アングラード侯爵家には特に侯爵令嬢としての高い自覚を持たせるために宮殿から派遣した。無駄だったみたいだけど。
その時はどちらかというと、令嬢方が心構えやマナーを身につけてから子供達のお茶会を再開しましょう、という程度の感覚だったのだが彼女ら有力貴族の令嬢を遠ざけたことが別の輩を刺激したようで、フィリップに正攻法ではない接触・誘惑を図ってくる者が出てきだした。結果として、つけいる隙を与えてしまっていたのだ。
あれ以降、パーティーやお茶会は開いていない。ハンカチを落としたり、ぶつかってきたりなどはそもそも護衛達のおかげで最初から叶うものではない。こちらとしては完璧に守っているつもりだった。シャワー室の事件も、教師の誘惑も何もかも一つ一つは個人的な出来心による小さな出来事のようで一ヶ月の謹慎や停職後の配置換えという甘い対応をしてしまったのは、歯止めには役に立たたずこれも大きな間違いだった。事件はそんな頃、フィリップがまだ12歳の春に起こった。
あの日、手品師や踊り子など普段出入りしない大勢の芸人達が宮殿のパブリックエリアに入っていた。ここは賓客をもてなす場所なのだが “静かな離宮で隠居生活“ をしている前王が久しぶりに戻り、それに合わせて南方の国から呼んだのだと自身が連れて来ていたからだ。
賑やかに催される宴にはもちろんリュシアンやパトリシアも前王と並んで座っていた。というか、座らされていた。前王は享楽好きで、愚か者だった。リュシアンの父親であったが反面教師だったんだろう正反対の性格だ。ギリギリまで祖父が父に譲位しなかったため、在位期間わずか5年。その間に国内をガタガタにしてしまった。引退したからといって本質は変わらない。だからもっと警戒しなければならなかったのだ。
宰相モルガンは馬鹿げて面白くもない宴の最中に『不審な者がプライベートエリアに入ったようだ』というだけの報告を受けた。不審な者がいたなら何故確保していない。見かけて撒かれたのか?不審者の容姿は?要領を得ないのがおかしい。すぐに『至急探し出して拘束せよ。抵抗するなら容赦するな』と指示をだし、宮殿内に散らす。
騎士を連れ自分も急いだ。まず一番に向かったのは王の部屋。リュシアンの私室が安全かどうかだ。
視線をあちらこちらに向けながら問題の糸口を探してとにかく急ぐ。途中、遠目にフィリップ王太子の私室の前に騎士が配置されていないのに気がついた。
ここも警備を強化している。通常時の1人ではなく、廊下に等間隔に増員して複数人いるはず。
「フィリップ殿下の部屋だ!急げ!!」
フィリップは今、危機に瀕していた。
先ほどまで自分用に新しく割り当てられた執務室で、王太子の側近という名の友人達と王から与えられた課題について議論していたので頭が沸きそうだ。
これまで一緒に将来に向けて研鑽を積んできた。新しい執務室は未来への扉だ。気分が高揚してわいわいと盛り上がり過ぎたようだ。
シャワーの後、部屋に戻ると何か強い香水の匂いがした。
おかしいな、こんな匂いがこの部屋でするなんて。強い匂いは苦手だ。明日掃除させることにして今夜は別の部屋で寝よう。
まだあれこれとさっきの続きで頭を巡らせていたせいか不審に思ったのにそのまま奥の書棚に向かい、頭をクールダウンさせる為の本を選んでいたら背後に何か気配がした。
誰も自分以外いないはずの部屋。
うっすらと先ほどの香水とは違うエキゾチックな香料の匂いも。
確実に悪い状況にあると認識した。
恐る恐る振り向くとドアを背にして異様な女がいた。
長くうねった黒い髪、弧を描く細い眉、真っ黒なまつ毛に縁取られた獲物を狙う黒い目、真っ赤な口紅が塗られたいやらしく笑う大きな口。背は高い。腕を組み真っ赤な長い爪の指には葉巻が紫煙をくゆらせている。テラテラ光る黒と紫のガウンの前を上下とも肌蹴させたまま脚が見えるのも構いもせず。中は何も着けていないのか? 歳は、歳は母上より上に見える。
まるで森の深くに住む、悪い魔女だ。それもとびきり悪い魔女。取って喰われそうだ。
どこから来た?
そういえば、いつもドアの前に立っている護衛の者は?
何もかも普段と違っていたのに、油断していたにもほどがある。
この部屋にある武器の2本の槍は、いざという時この部屋の閂の役目もあってドアの横に盾とともに据えられている。ほとんどインテリア感覚だ。護身用に携帯するはずの短剣は今、身につけていないし、もう1本はベッドの枕元に隠してある。危険を知らせるホルンは槍と同じくドアの横。もう1本は窓の横だ。何もかも、今のこの状況を救いやしない。
宮殿は広過ぎて声を出しても誰かに届くかどうか、どうやってこの状況を脱する?走って?突き飛ばす?途中で掴まったら?
恐怖で足がすくむ。冷静になれ。
つとめてゆっくりと息を吐く。相手に緊張を気取られてはいけない。落ち着け。
「お前は誰だ、何のためにここにいる?すぐに出て行け、これは命令だ」
ようやく声を出し必死で威圧してみたが、全く怯む様子がない。何故だ。
ああ、こいつらはいつもそうだった。獲物を狙った女達は。言うことを聞いた試しがない。
女は長い爪を見せつけるように葉巻をゆっくり一服してからニヤニヤ笑って言った。
「いらっしゃい、ぼうや、イイ事しましょう、私が教えてあげる。とっても気持ちがいいことよ。きっと満足して夢中になるわ。さあ、いらっしゃい。おうじサマ」
その声はねっとりベタベタして気持ちが悪い。
「きさま、近づくな!あっちへ行け」
唸るように言い、後ろ手に書棚にあった本を掴みとにかく投げつけドアの方に逃げる機会を伺う。まだ12歳のフィリップより、相手の女の方が百戦錬磨に見える。逃げの一手しか思いつかない。
時間をかけ過ぎた。あの匂いには何か作用でもあるのかふらついて意識が遠くなる。
膝をつく、腕をつく、苦しい。もう起きていられない。
ああ、これからどうなるんだ?あいつはまだ何か言っている。誰か助けて
一番嫌な、一番恐ろしい事が起こりそうだ・・・怖い
かすんできた視界の中で女が近くまで来てかがみ込んで来るのが見えた
もう、お終いだ・・・
「殿下!殿下!フィリップ様!!」
躊躇なくドアを開け、なだれ込んだ部屋の中で宰相モルガンが見たものはおぞましい光景だった。