137話 もう一つの苦手だったもの
お店を出るとリリアンによく馴染みのある香りがどこからかしていた。
「あら?これって」
「ああ、ラポムの鞍につけてる香油の香りに似ているな」
リリアンもラポムの匂いに似ていると思ったが後ろにいたニコラも同じように感じたようだ。
ラポムに使っている馬具のお手入れに使うレザーオイルには極少量のジャスミンの香油が混ぜられていてほのかに良い香りがした。
これはリリアンの乗る馬にお洒落をさせているという側面もあるけれど、実はそれより何より一番の目的は鞣された皮革からする独特の臭いを軽減する為だったりするのだが、まあとにかくラポムは良い香りがするのだ。
それを聞いたソフィーが通りの向こうを指して言った。
「リリアン様、それでしたらきっと向こうの白い建物からですわ。あの店はこの国で一番古い香水店でジャスマンというんですよ」
教えられた方を見ると、並んでいる他のお店とはちょっと趣の違うレトロ感たっぷりの白っぽい石造りの建物があった。でも外からは中が見えず、香水店と聞けばお洒落な店を想像するがここはそうは見えない厳しい佇まいだ。ドアに金色のプレートが貼ってあり何か書いてあるから多分そこに店名が書いてあるのだろう。
「以前、私の侍女が母のお使いでそこのジャスマンに来たことがあるのですが、中は100年前の世界に迷い込んだような気分になれるレトロな感じで素敵だったと言っていました。
母によるとなんでもプリュヴォ国が興る以前からこのお店はあるとか。最初に南の方からここに来た頃は薬を作っていて、それが香水屋に転じたそうです。
その名残がドアの上に残っている+マークなんだそうですよ、すごいでしょう?」
ホラ、と言われて改めて見ると、かなり朽ちているが確かにドアの上にそんなマークの痕跡があった。人が触れるような場所でもないのに石がそんな風に風化しているなんていったいどれ程昔からあるのだろう、とにかくめちゃめちゃ歴史を感じる。
「わぁ、とても古くからあるのですね凄いです。
その頃この辺りはいったいどんな街だったのでしょう、やはり立派な建物がいっぱい立ち並び人が多く賑やかな街だったのでしょうか」
「うふふ、どんなだったのでしょうね。
リリアン様もせっかく近くまで来られたのですから中に入って歴史の息吹を感じてみられたらどうですか。実を言うと次にご案内しようと予定していたお店がそこなのです。
香水は紳士淑女の嗜みと言われていますが年齢に関係なく楽しめるものですもの、リリアン様は普段香水はお使いになっていらっしゃらないと仰っておられましたがきっとここなら素敵な香りに出会えると思いますよ?」
香水は紳士淑女の嗜み・・・そう、元々この国の貴族達は大の香水好きだった。それはもう、生まれてきた赤ちゃんへの親からの最初の贈り物は香水だったりするくらいに。
お店にはちゃーんと赤ちゃん向けにアルコールが入っていない専用の香水が売られていてその種類も多かった。そして朝やお風呂上がり、お出かけ前にと男女関係なく香りに親しんで大きくなり、やがて自分の香りに拘るようになって『一番のお洒落はお気に入りの香りを纏うこと』な〜んて誰もが当たり前のように思っていたのだ。
そんな文化が花開いていたから街には香水を売る店が沢山あった、ほんの数年前までは。
でも次々と店を閉じ、今は下火だ。
理由は王太子フィリップがキツい香水の匂いを嫌ったからだ。
例え香りが人々の暮らしにしっかりと根を張っていたとしても次代の国王が嫌う香水を誰が身につけたいと思うだろうか?
それに実際にフィリップは気分が悪くなって意識を失ってしまったことさえあって影響が大きいことから国王や王妃がまず香水をつけるのをやめた。学園でも控えるようにと指導があったと知れると次第に宮殿で開かれるパーティーに出席する時でさえ誰も使わなくなり、すっかり流行らなくなってしまったのだ。
ソフィーも今はお風呂上がりに付けて香りを楽しみながら寝るだけだ。
ちなみにニコラとリリアンについて言えば、父クレマンは無骨な男だったから香りについての拘りは全く無かったし、母ジョゼフィーヌは前世・異世界での除菌消臭ブームの影響で香りを付けたいというよりも、消臭スプレーがあるならそれを噴霧してニオイを消したいと思う派だったから子供に香水をつけるという発想は全く無かった・・・という訳でベルニエ家の子供達は香水に親しむ事なく育っている。
そんなベルニエ伯爵家のようなケースはちょっと異例中の異例だが、結果的に調子の悪かった頃のフィリップにとってはニコラが香水をつける習慣が無かったのは幸いだったと言える。
「香水、ですか」リリアンは思案気な顔をした。
私は香水自体にはあまり興味がないけど、歴史のあるお店の中はちょっとは見学してみたい気はする。もちろんいつもならソフィーが案内してくれるお店だったら何も言わずすぐに入るのだけど、気がかりがあるの。
フィル様はさっきお化粧はもう気にならないと仰っていたけど香水はどうかしら?お店の中はきっと香水の強い香りがいっぱいするわ、そのせいで気分が悪くなってまた倒れてしまわれるような事になるかもしれない。
入るのは止めておいた方がいいような気がするんだけど・・・。
リリアンがそっと顔を上げてフィリップを見ると、目が合ってニッコリ微笑んでくれた。
「ちょっと覗いてみようか、何かリリィの気にいる香りがあるかもしれないよ。
それにそこで買った香水を一緒にお揃いでつけるなんていうのも面白いかもしれないね」
お揃い!!!
「はい、素敵ですね!」
リリアンはコロッと気が変わってお店に入ってみることにした。フィル様の表情はこの香水店に入るという状況を楽しんでいらっしゃるみたいだから大丈夫ね!
それならとフィリップは「次はあの店に入る」と言って従者見習いと護衛1人を先にジャスマンに向かわせた。
今日、立ち寄るかもしれないお店には昨日の内に先触れを出しているが、この香水店ジャスマンもリストに入っていた。
もう知らせてあるのならお店の近くにいるのだし、サッと入れば良さそうなものだけどフィリップとリリアンはこのまま入って行く訳にはいかないのだ。
このジャスマンに入るとなると先に護衛と従者見習いが入っていってまず「これから王太子と王太子婚約者候補がみえる」と改めて先触れを出す。王太子に対して失礼無きよう相手に準備をさせるという意味もあるが、その時に店内を見て安全かどうかを確認する必要がある。他に客がいれば外に出すし店員も事前に調べてある者だけがいることを許可される。
フィリップが指示しなくても店に入る時には常にこういった手続きが行われているのだ。
従者見習いが出て来て「大丈夫です」と言ったのでフィリップ達は店内に入った。
「いらっしゃいませ、ようこそおいで下さいました」と声がして見るとずっと奥、重厚なしつらえのカウンターの向こうにはダンディーな細身の男性が一人立っていた。
中の様子はというと内装はマホガニー材で統一されていて、その重厚感に溢れた設えは大変趣があった。それにどこもかしこもよく磨かれてツヤツヤとした光沢あるのも手入れが行き届いているのが感じられて素敵だ。
部屋は広く天井はとても高い、外が見えるような窓らしい窓は無いが上の方に明かりとりとスリットのある換気窓がある。たぶん空気が下から上に抜けていく仕組みになっていて匂いが籠らないようになっているのだろう。
床は中央に広くスペースがとってあり広々としているが、逆に壁は賑やかだ。正面は全面に引き出しがあり左右の壁には飾り棚があった。引き出しも棚も細かな細工が施されていてそれだけでも豪華だ。
棚には何があるかというと右手には美しいフォルムのガラス瓶が並んでいた。また左手の棚にはサシェや石鹸、可愛い容器に入った練り香水やハンドクリームやマッサージオイル、ロウソクなどなど実に様々な商品が並んでいた。手の届かない高い所には年代物の香水瓶が置いてある。
またお店の男性がいるカウンターにはメスシリンダーやガラス棒、スポイトや秤など様々な道具が置かれ、背後には香水の材料である香油の入った瓶がオペラハウスの観客席のように段々になってギッシリと並んでいてそれも壮観だ。
見るべきものが多すぎてどこからどう見れば良いのか分からなかったのでリリアンはまず手近な場所にあった可愛くて良い香りのする石鹸を見ることにした。
並んだ商品にはラベルが付いている。
そのまんま『薔薇』とか『桃』など花やフルーツの香りはどんな香りがするのか分かりやすいが『小悪魔』とか『妖精』などとあるのはそのイメージの香りということかな?どっちもこの世に存在しないものだから匂いなんて分からないはずだもの。
わ〜、こっちの『初恋』って見ただけで甘酸っぱそう!鼻を近づけなくても分かる、きっとこの黄色い石鹸はレモンの香りがすると思う。
中には『背徳』や『娼婦』なんていうのもあって、これらはちょっと手に取りにくいネーミングで鼻を近づけることさえ憚られたが実に様々な香りがあるものだ。
あっ、こっちの『新妻』とあるのはエマへプレゼントに良さそうだから買って帰ろうかな、赤と白のマーブルになっていて可愛いからきっと喜ぶと思う。
「妖精ってリリィにピッタリだ。ホラ、可愛い」とフィリップがリリアンの顔の横に妖精とラベルのついた石鹸を持ってきて香りを胸に吸い込んだ。
「まあとっても可愛い香りがしますね。若々しい緑を思わす爽やかな香りに、ちょっとお花の甘い香りもします・・・なるほど、確かに妖精っぽい感じがしますね」
次に小悪魔とラベルのついた石鹸をやはりリリアンの顔の横に持ってきて目を閉じて香りを胸いっぱいに吸った。
「うーん、これもリリィにピッタリくる」
「え?悪魔の香りがピッタリだなんて嫌ですよ」と言いつつリリアンも鼻を近づけて香りをかいでみた。
「どれどれ、それも良い香りです。なんでしょう焼いたリンゴのような、ちょっとビターな香りも混じってるし、シナモンのようなスパイシーな香りも。
とても美味しそうな香りです。小悪魔ってこんな感じの香りなんですね?」
「小悪魔・・・確かにそんな感じだ。これはやばい、無性に食べてしまいたくなる」
「うふっ、美味しそうな香りだったからお腹が空いてしまいましたか?ということは小悪魔って食欲が出る良い悪魔なんですね」
「うん。だけどひとまずこれで我慢しとくよ」と言ってフィリップはリリアンを抱き上げて、頬にぱくっと食べるようなキスをした。
やわらかい感触と温かさ、そして滑る唇に頬を摘まれて。
「!?」
リリアンはびっくりした顔のまま固まってしまった。
頭の中がグルグル目まぐるしく回転してるけど何も考えられなくて、そっちにリソースを割かれてしまってるから起動にはもうちょっと時間がかかりそうだ。
ビックリして固まるリリィも
うん、可愛い。
ラベルの『小悪魔』というネーミングについ反応してしまった。
うっかり思い出したんだ、初めて小悪魔リリィが降臨した時の事を。
馬車でベルニエ領から帰ってる途中だった。窓の外はずっと森の木々が流れてて指笛を教えるリリィの可愛く突き出した唇と、赤く可愛らしい舌が艶めかしく動いて引き寄せられそうになったあの時のあの場面を。
多分、1個前の『妖精』の香りに森を連想させる植物を思わせる香りが入っていたから余計記憶が呼び覚まされたのだと思うけど・・・。
リリィの純真無垢な少女の顔から時々しょっちゅう垣間見える色香の衝撃力は正に小悪魔、いや大悪魔級だから気をつけておかねば簡単にタガが外れてしまう。ヤバい、ヤバい。
「リリアン様、こちらにはバスソルトがありますよ。ハーブやエッセンシャルオイルと合わせて使うんですって」
ニコラと別のコーナーを見ていたソフィーから声が掛かり「へー」とパメラ達も集まって来た。
皆で鼻を近づけては香りを嗅いで良い香りだとか好きとか嫌いとか何に効くのか等と言っていると、先ほどまでカウンターの向こうに立っていた男性が声を掛けてきた。