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化かせずの香 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 君は、自分の視界をどれほど信じているだろうか?

 視覚は目を通して入ってくる光のエネルギーが電気エネルギーに変わり、脳へと至る。様々な感覚器官の力も借りて、私たちが見ている世界が作られているんだ。

 だから、頭が混乱していたり、異状をきたしたりしている場合は幻覚が見えるというのも道理だな。目から受け取ったAというものを、脳がBと認識してしまえば、我々はAをBと思わなくてはいけない。


 自分自身の認識が敵になるとは、なんとも恐ろしい。そして強力すぎる洗脳だ。

 自分で間違いを間違いと思えず、他人から指摘されてもそれを簡単にれられるとも限らない。へたに優秀でプライドが高い人だったりすれば、なおさらだ。

 昔の人も、この自分の認識が敵という感覚を持っていたようでね。地域によっては変わった対処法が伝わっていることもある。

 私の地元の昔話なんだが、聞いてみないかい?



 むかしむかし。

 とある村の近くの崖から、村民のひとりが転落した。

 いかに柵などが渡していないとはいえ、かの崖の上は道幅も広く、端へ寄るようなことは慣れた村人でもめったにやらない。

 家へ運ばれた彼だが、腰を強く打って立てないばかりか、口もまともに聞けなくなっていた。ろれつが回らないというより、吐き出す声が音にならないといった方がいいか。

 必死に口を動かすも、耳に手をあてる一同を見て、彼は手ぶりを変える。


 自らの鼻だ。

 両手の指でその頭を何度かつついたかと思うと、鼻の穴の中へ勢いよく指を突っ込む。

 内側から突き破らんとするほど、大いに盛り上がる鼻腔まわりの肉と皮。怪訝そうな顔を見せる若者に対し、年寄りたちは、はっとした顔を見せる。

 この後、すぐに村中では家々に香の入ったきんちゃく袋が配られた。そしてほどなく、そのきんちゃく袋を提げて、町へ買い物へ出る一部の村人たちの姿が見られたんだ。



 嫌な臭いをごまかしたりするために使われる香は、たいていがいい香りの漂うものだ。

 しかし、今回の香はいやにとがっている。懐に入れる程度ならかすかに辛みをかもす香りがするだけで済むが、袋を鼻先に近寄らせてみると、思わずくしゃみが出そうなくらい、穴の奥がつんつんと、つつかれるような気さえする。

 袋を開けたら……いわずもがなだろう。一度試した若者は、その場で鼻をおさえて、しばらく痛みに転げまわるほどだったとか。目からもしとどに涙を流してもいる。

 この危ない袋を、老人たちは肌身離さず持ち歩くように指示を出した。この中身に使われているのは、当村で門外不出の調合がされた粉末なのだとか。



「お前らに分かるように話せば、狐狸のたぐいといったところだ。人を騙すことで知られる、あの獣たちだな。

 だが、我らの知る狐狸に犬は効かん、紫煙も効かん。代わりにこの香が意味を成す。

 狐に化かされたと感じたならば、こいつを思い切り嗅ぐといい」



 そのような注意があって数カ月後のこと。

 近くの山で猟をしていた青年が、いったん家へ引き返そうとしたときだ。

 すでにキジを数羽捕まえて、棒に吊るしている。この地方では鳥肉が滋養強壮に向くと伝えられていたし、足の弱った老母の栄養になればと思い、先を急いでいた。

 彼の一族は昔より、他の村民たちに比べて高台に居を構えている。玄関をくぐって声をかけると、母の声がするものの居間に彼女の姿はない。

 代わりに奥の引き戸から、糸車を回す音が聞こえてくる。

 若いころから慣れていると、自分が幼少のころから糸を紡いでいた母。いまも調子がよくて起き上がれる時には、こうして奥へ引っ込んでいることもあった。

「珍しいこともあるもんだ」と、若者は履物を脱いで居間へ上がると、奥の戸へ近づいていく。



 その戸を少しだけ開けてみて、若者は目を丸くした。

 そこはあまりに見慣れていて、それでいて見慣れていない景色。

 糸車が置いてある六畳間はそこになく、代わりにあったのは中央に囲炉裏と、吊るされる鍋と、それを囲む板敷きの姿があった。そして奥には引き戸。

 いま、自分が立っている居間とまったく同じ間取りの空間が、引き戸の奥へ展開されていたんだ。


 はっとその場で振り返る。

 奥の間と変わらない居間の向こう。玄関口を出たところすぐ左手から、キジをくくりつけた棒の端が消えていくのが見えた。

 泥棒のしわざかと、家を出かけてふと彼は気づく。これは老人たちの話していたような状況ではないかと。

 足を止めた若者は、懐に入れていたくだんの袋を取り出す。

 やはりツンとした香りは慣れないが、それでも言いつけ通りに袋の口を緩めると、おそるおそるひと嗅ぎしてみたんだ。



 思わず、その場で何拍か昏倒してしまい、目覚めたときに青年は、断崖絶壁のすぐ手前で横たわっていた。

 先の玄関のあった位置は、ちょうど地面のなくなるところだったらしい。

 さほど離れていないところに、キジをくくった棒があったが、肝心のキジたちは大量の血と羽をあたりに大いに散らした以外は、影も形もなくなっていたのだとか。


 鼻から取り入れた空気は、脳へ届けられるという。

 老人たちのいう香の中身も、脳を正常な働きへ戻す薬のような役割を果たすのだろう。


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― 新着の感想 ―
[一言] 彼らの苦手な匂いかと思ったら、自分たちが使うものだったんですね。ふと、しばらく痛みに転げまわるとあったので、そのはずみで崖から落っこちそうとも思いましたが、幻覚に遭った時に嗅ぐとそういう作用…
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