3話 竜の呪い
辺りに竜の居る痕跡が無いのを確認して、光弥は彼女の手を離した。彼女はもうフードは被らず、素顔のままで頭を下げてきた。
「助けてくれてありがとう」
「構わない。それより腕を強く握って悪かったな」
もしかしたら傷に響いたかもしれないと少し罪悪感を抱いていた。
「大丈夫。それよりあなた、元々森の方に逃げるつもりだったの?」
「ああ。あれ以上街に竜が入ったら、それこそ大惨事だろう」
それを聞いて彼女はホッとした顔をする。
「そうよね。私てっきり、あなたは人混みに紛れるんじゃないかって思ってしまったから、心配だったの。でも私の先入観が酷かったみたい。疑ってごめんなさい。そしてありがとう。本当に助かったわ」
光弥は微笑む少女に軽く動揺した。ずっと強ばった顔をしていたのに、初めて、少しだけ心の扉を開いてくれたようだった。しかし顔はまだ青ざめている。
「大丈夫か、顔色が悪いぞ」
「気にしないで。今日は気付けの薬もあるし、少し竜に驚いただけだから」
それは無理もない話だ。昼間から竜に襲われかけたのだ。この年頃の少女が平静で居られるはずがない。
(それでも青ざめるだけで済んでいるとは、精神力は強いんだな)
光弥は彼女をせめて家まで送り届けようと思った。
「街に戻るなら送ろう」
すると彼女はギクリと身体を震わせ、気まずそうに目を逸らした。
「大丈夫、街に家は無いから。それに私にはそれ以上関わらない方がいいわ。それがあなた自身の為よ」
不自然な態度だった。
「どういう意味だ?」
「言葉のままよ」
「森なら街以上に危ないぞ」
けれども彼女の意思は固かった。断固として光弥を拒否する。
「いいえ、結構よ。それに私は一人が好きなの。放っておいて」
***
桔花は誰も近寄らない洞窟の岩の影に隠れてローブを脱いだ。そして上衣の首のボタンを外して上半身をはだけさせる。誰も居ないと分かっていても、服を脱ぐのは恥ずかしい。
そして今日買ってきた巾着から小さな薬壷を取り出して、ねっとりとした液体を腕の小さな切り傷に塗り込んでいく。
「あぁ・・・・・・痛い、滲みる・・・・・・」
桔花は涙目になりながら傷薬を塗った。そして次に背中の傷に手を伸ばそうとして四苦八苦した。背を反らしたり、腕を回したりしてみるが、それでも届かない場所がある。
「背中に塗るのは本当に骨が折れるわね。お兄ちゃんが居たら、いつも助けてくれたのに」
でもここには誰も居ない。風人も、あの竜から救ってくれた黒髪の青年も。
『送ろう』
(・・・・・・ああ言ってくれた時どんなに心が暖かくなったことか。けれども命の恩人をこれ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない)
『私は一人が好きなの』
自分の過去の言葉を思い出して嫌になった。脱いだ服の上に突っ伏して、
「一人が好きなんて嘘よ!」
桔花の嘆きは誰にも聞こえない。
「誰か助けて・・・・・・」
でも誰も助けてはくれない。それが彼女の運命だった。
桔花は呪われてる。それは竜の呪いだ。竜に憎まれ、蔑まれ、疎ましく思われ、嫌われる。今時、人を食べない竜が唯一食べようとする人間は桔花ただ一人だ。
彼女の一族の祖先は昔、竜の呪いをかけられた。古い呪いで子々孫々受け継がれている。しかし時代が変わって竜が人を襲わなくなり、人を食べなくなった頃から呪いは弱まり始める。そしてようやく呪いから解き放たれる人間が産まれだした。
呪いから解き放たれた人間は、一族から離族して普通に暮らし始める。この因果を断ち切ろうとしたのだ。そして小規模になっても一族から離れなかった人間達もまた、何世代もかけて普通というものを手に入れた。
しかし最後に竜の呪いの残り香を受け継いでしまったのが桔花だった。
呪いが発覚したのは桔花が六才の時。祖父母と両親も、兄も呪縛痕は無く、この六十年呪いを受け継ぐ者は生まれていなかった。だから安心しきってきた一族は、桔花の背中の呪縛痕を見て絶望したという。
桔花は危うく一族を危険分子として殺されかけたが、十六歳の兄である風人、桔花と共に一族から追放されることを条件に助命された。
そして風人は桔花を連れて一族から出たので、桔花は親の顔も故郷も覚えていない。
幼い桔花はある日目が覚めると知らない場所に風人と二人で居て、家族は皆死んで、故郷は燃えてしまったと聞かされ育てられていた。風人は桔花を竜から守って育て、呪いや一族の事実を六年間ずっと隠していたのだ。
だから兄が時折何も言わずに彼女を守っていたことは、風人が死んでから、その日記を見てから知ることになる。
桔花が十二歳、一人ぼっちになった年だった。
それから守り人の居なくなった桔花は竜に襲われるようになり、傷だらけになりながら生き延びてきた。街に居ると竜が現れ、自分以外の誰かにも危害を加えるので、迷惑をかけないように潜んで生きていた。そうしてようやく、このマグマの流れるこの洞窟だけは安全だと分かったのだ。
ここには昔一際大きな竜が住処にしていて、今もその匂いが残っているせいで他の生物が近寄らない。そして桔花も呪いの効力か、汗はかくものの熱さにはかなり耐性がある。だからこの洞窟でも暮らしていけるのだ。
(竜の呪いを受けた身で、竜の元住処に守られ、呪いの恩恵で生き延びられるなんて、これ以上無い皮肉な話ね)
桔花は服を着て、ローブの上に横になった。
(ここに住んでいても外に出なければ水は無い。何か仕事をしなければ暮らしも立てられない。なのにその度に竜に襲われて、他の人が襲われないように人気のない場所や川に飛び込んで、そのせいで身体は傷だらけ。そしたらやっとの日銭が薬代に消えていく)
ギュッと目を瞑った。
(もう嫌だこんな生活!!!)
いっそ死んでしまおうか。今までだって何度もそう考えていた。けれども兄の言葉を思い出して踏みとどまっていた。でも今日は久しぶりに人に優しくされて、逆に惨めに感じてきた。
とうとう心が折れかけた時だった。誰かの足音がして桔花は飛び起きた。
「誰!?」
しかしその人物の顔を見て驚いた。何故彼がここに。
「お前は・・・・・・」
さっき自分を助けてくれた彼も驚きを隠せていなかった。
***