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青山島

作者: 社聖都子

2作目です。楽しんでいただければ幸いです。

「けぇるか。」

夕暮れ時。ぼんやりと海を眺めるのが好きだ。特に夏場はゆっくりと日が落ちていく様が見れて良い。この海で親父みたいなかっこいい漁師になるのが夢だ。

親父はすげぇ。島民みんなが親父のことを尊敬してると言っても身内びいきじゃねぇと思う。

「たでーまー。」

「おー、太一ー、けぇったかー。めしにすっがら早ぐかーさんに挨拶してこい。」

親父は海の男だ。声がでかい。あと、訛りがすごい。小中学校の先生は本土から来てるから、おれの友達で訛ってるのはいない。おれも学校ではほとんど訛っていないと思っているが、家では親父につられて結構訛った喋りになる。だが、親父のはおれとは比較にならん。友達のおっかさんは親父が何喋ってるか分かるらしいが、友達はわからん時もあると言うほどだ。

(かーさん、今帰りました。今日も海は静かで綺麗でした。)

仏壇で手を合わせ、かーさんの写真に挨拶する。若くして死んじまったかーさんのことを残念ながらおれはあんまり覚えてない。だが、かーさんは好きだ。とりあえず、べらぼうに美人だ。うちの親父なんかのどこが良かったのかと思う。本土のテレビに出てるアイドルとかと比べても綺麗だと思う。この血がおれの体にも流れてるかと思うとなんだか体がむず痒くなる。友達に言うと馬鹿にされっから誰にも言わないが、おれはかーさんが大好きだ。

台所に行くと、親父がしゃもじでご飯をよそっていた。親父が持っていると茶碗もしゃもじもおままごと用のものと間違ってるんじゃないかと思うくらいの大きさに見える。

「手ぇさ洗っだが?洗っだら汁さくいで持っでっどげ。」

味噌汁よそって食卓に運べ。という意味だ。もっと酷いのも沢山ある。確かに友達に分からんと言われるのも頷ける。

「洗った!」

返事しながら、味噌汁をくいだ。小さいの頃はよく返事をしないで怒られた。おかげで学校でも近所のおばちゃんたちからも太一の返事はしっかりしてると評判が良くて嬉しい。小学生の頃は「はい。」と返事してたが、最近は照れくさくて親父への返事はぶっきらぼうになってきてる。

今日の晩飯はたたきとあら汁と米とサラダ。うちの晩飯は基本的にその日の朝の漁で親父が釣ってきた魚だ。夏のこの時期はほぼ毎日アジになる。もう少しするとマゴチになって、秋に入り始める頃に運が良い日はクロダイになる。毎日新鮮な魚で羨ましいという友達もいるが、毎日アジを食うことはきっと想定していない。だが、毎日アジでも意外と飽きないのは親父が料理もうまいからだろう。週の中で料理が被ることはほぼない。アジのメニューが豊富だ。たたきや刺身になるのは親父が今日の漁は上手くいったと思ってる「いい魚」の日だ。逆にあんまりいいのを持って帰れなかった日は、焼き物や焚き物になる。

「いただきます!!」

挨拶は訛らないので、声がそろう。

「ん!今日の魚は良いな!」

予想通り、親父は今日の漁の成果が良かったようで、上機嫌だ。ちなみに、ひらがなに直すと「ぎょうのさがなはいいな!」だ。

「いつも美味いからあんま分からんよ。」

この後親父が言うことは、お前も漁師の息子なんだから魚の善し悪しが分かるようになれ。だ。

「おまんも漁師の息子だっがら魚の善し悪しさ分がるようんなれ。」

「悪いんはわかるよ。給食の魚はあんまり美味くない。」

この会話は親父の機嫌が悪い時はしない。あんまり美味くないとか感謝が足りないと怒られることになる。機嫌が良い時は、良いが分からんうちは分からんのと変わらんと言われる。

「太一、明日から遠漁さ出る。3日けぇってこん。何があっだら美代ちゃんとごさ頼れ。」

「分かった。」

予想と違う話だったが、時々あることだからぱっと返事をした。遠漁は本土のでかい船に乗って東京湾の遠くまで行って漁をしてくる。毎日の漁の中で、そろそろいいタイミングだと思った翌日から遠漁に出る。親父の漁師仲間のおっちゃんから聞いた話だと、遠漁では日々の漁の何10倍も稼げるらしい。普段の漁は島の港に魚を卸して、自分の分を持って帰ってくるが、遠漁は本土の港に魚を卸して大金を持って帰ってくる。親父が遠漁に出ている間は島の港から魚が少し減ってしまうくらい、親父の漁の腕はよい。本土にも親父のファンがたくさんいて、親父が遠漁に出ると本土の料理人が港に買い付けに来ると、おっちゃんが誇らしげに話していた。おれも誇らしい。

「そんでな、今回の遠漁のあと、本土の高校におまんの入試手続してこようと思ってる。」

これまた予想と違う話で今度は何を言われてるのかわからず、そのまま固まった。

「おまんももう高校生だ。いつまでもこの島の小さな社会に閉じこもってちゃいかん。一度本土に出て、それでも島が良いと思ったら戻れば良い。」

「本土の高校って…おれは青校に行くつもりだったが!本土の高校ってここから通えるんか?」

滅多なことじゃ親父に逆らったりせんおれだが、親父の目をまっすぐ見て強い語調で言った。

「ここからは通えん。お前は向こうで寮に入っで一人暮らしすんだ。」

「嫌だ!おれは島が好きだ!島に残る!」

「だめだ。さぎも言っだ通り、また戻れば良い。島はいつまでもあるが、高校生活は一度しがない!!高校は本土さ行げ!!」

「嫌だ!!」

「嫌だじゃダメだ!!わしを納得させるような理由があるんなら別だが、ないんなら本土さ行がせる!」

「おれは島が好きだ!!島さ離れたぐねぇ!!」

「太一!外を知らずにここだけ好きで、そんなのはほんどの好きじゃねぇ!そったら島が好きならなおのこと一遍本土行げ!!」

「嫌だ!この分からずや!あほんだら!」

「あほだ!?言うに事欠いて親にあほたぁ何事じゃ!あほじゃないから本土さ行げいうんじゃ!」

親父の声はでかい。普段怒ったりしない親父が大声で怒鳴ったもんだから、近所中に響き渡った。おれは逃げるように食卓から離れ部屋にこもった。

「嫌だ。おれは高校に入ったら土日は親父と漁に行くって決めてたんだ。本土の高校なんか…いやだ…。」

頭っから布団をかぶるとこぼれる涙をぬぐった。




翌朝、目は覚めたが学校の時間ぎりぎりまで部屋を出たくなかった。家の作り上、おれが学校に行くためには今を通らなければならん。んだが、今日は遠漁だから、親父も家を出るのが遅い。まだ間違いなく居間に親父がいる。あんな喧嘩をしたのはガキの頃以来だから、どんな顔をして居間に行って何を話せばよいのか分からんかった。部屋で身支度を整えて何をするでもなく机に向かって座っていると部屋の扉の向こうから親父の声が聞こえた。

「太一、起きでるか?」

「起きてる。」

ふてくされながらも、返事をした。

「おれはちょっと港見てくる。握り飯さこしらえたから食って出ろ。」

「あどな、昨日は悪かった。お前の気持ちも聞かずに勝手に喋った。だが、手続きは今回の遠漁逃すとできなぐなっがもしれんが、してぐる。受けるか受けないかは遠漁がら帰っできたら改めて話しよ。」

悔しいのか何なのか、涙があふれた。駄々こねてふてくされて、譲られて、何もかも親父に勝てなくて、すごく惨めだった。涙を拭いて部屋を出たが、もう親父はいなかった。

「遠漁、きぃつけてなぁあ!!!!」

親父譲りの大声で全力で叫んだ。




「たーいち!」

ちょっと低めの心地いい声が坂の下からおれを呼び止めた。

「今日からたっつぁん遠漁なの?」

たっつぁんというのは親父のことだ。達川太郎。達川のたからたっつぁんなのか太郎のたからたっつぁんなのか分からないが、島ではたっつぁんで通っていて、おれら子供の世代もたっつぁんと呼ぶ。

「何で知っとる?」

「いやいや、太一が教えてくれたんじゃん。朝っぱらから。あんな大声で言わんでも聞こえるだろ。ファザコンめ。」

親父譲りの大声は島中響き渡っていたらしい。ということは昨日の親子げんかも当然響いていただろう。穴があったら入りたいとはこのことだ。とりあえず海に潜りたい。

「ファザコンとかそういうんじゃないし。」

「あ、それも知ってる。あほんだらって言うぐらいだもんね。」

とりあえず海に潜りたい。

「でも綺麗な顔してるね。たっつぁんにあほんだらなんて言ったら、顔にこぶしの跡でもついてるかと思ったけど。」

それは多分、あのまま口論をしてたらついていただろう。おれがビビって部屋に逃げ帰ったからついていないんだ。海にでも潜りたい。

「太一、不機嫌だね。」

「あー!もう!美代!うるさい!!」

「おーこわ。今日は太一にかかわらんとこう。先に学校行ってるよー。」

美代がふざけて逃げるように走っていった。その背中を見て、本当に逃げた昨日の自分を思い出しておれは一層みじめになった。

とぼとぼと坂を登り学校についた。いつもは何でもない坂だが今日はえらく急こう配に感じた。

青山島小中合同校舎

人口100人今日のこの島で今学校に通っているのは全部で16人。

中学3年生はおれと美代の二人で、中学生全体でも5人しかいない。

親父が小さな社会というのももっともだ。

校庭に入ると、ちびっ子たちが走り回っていた。

「あ!たいちくんきた!」

一人が叫ぶとみんなが寄ってきた。生徒の人数が少なく、必然的に先生の人数も少ないこの学校では中学生は小学生と遊んであげるのが当然の環境になっている。先に行った美代はもう女の子たちと遊んでいる。

「このわからずや!!あほんだらぁ!!!」

寄ってきた男の子がいっせーのーせで大声で叫んできた。直情的にはぶっとばしてやろうかとこぶしを握ったが、お兄ちゃんとしての理性がかろうじて勝った。親父がおれをぶん殴らなかったのに、親父に比べたらはるかにあほんだらのおれが子供に言われて殴るわけにはいかない。

「お前ら!待っとけよ!カバン置いたら全員とっ捕まえてやるからなぁ!!!」

大声で叫ぶと、校舎にカバンを置きに走った。朝のお遊びは鬼ごっこで決まった。

「男子~。今日の太一は機嫌悪いから捕まらんように気をつけときぃ!」

美代の声が聞こえる。

「みよちゃん、たいちくんのことなんでもしってる!ものしりぃ!」

「当たりまえだよ!みよちゃんたいちくんのお嫁さんだもん。」

図らずもというかなんというか、16人の全校生徒の中で同学年で男子女子一人ずつの学年はおれと美代の中3しかない。他の学年はすべてなぜかわからないが、男子だけか女子だけの2パターンだ。1人しかいないという学年もある。上の学年でも男子と女子1人ずつという学年はおれが覚えてる範囲ではなかった。なのでこの手のからかいは小さい頃から数えきれない回数受けてきた。おれも美代もお互いが結婚するなんてこれっぽっちも思っていはいないが、中学に入ったくらいから美代は結構本気で嫌がるようになった。ちびっ子どもは気づいていないので、このやり取りがなくなることはない。

「あー。太一より先に私につかまりたいやつがいるな。どこのどいつだこの野郎!!!!」

他の子を知らないので体感でしかないが、美代は足が速い。ちびっ子の頃から2~3年上の子相手でも追いかけっこ系の遊びで負けてるところを見たことがない。ちなみに、追いかけっこをすることになってもおれは美代を追いかけたことはない。捕まらなかったら恥ずかしいからだ。そのくらい、美代は足が速い。そして容赦ない。

おれが校庭に出ると既に犯人は逮捕されており、美代の前で正座して謝っていた。

「この度は大変失礼なことを申し上げまして、申し訳ありませんでした。」

「有無、苦しゅうないぞ。面をあげぇい。」

お決まりのやり取りだ。ちなみに、犯人は一人かと思っていたが、なぜかちびっ子男子全員逮捕され正座させられている。

「あ!たいちくんだ!」

「たいちくん助けて!」

「おにばばだよ!」

「たいちくんの奥さんキョウサイだよ!」

きっとこうやって余計なことを口走り続けた結果だろう。

果たして、恐妻という言葉を島のどこで覚えてきたのか。とりあえずうちは母親がいないからうちが原因ではない。が、世の中には言っていいことと言ってはいけないことがあるのだ。

きーんこーんかーんこーん

「チャイム!」

「授業!」

男子たちが正座をやめ一斉に教室へ走っていく。

「あいつら、昼休みシバク。」

言いながら美代も校舎へ入っていく。もちろんおれも後を追った。




学校では小、中合同のHRを行った後、小学校低学年、高学年、中学校に分かれて授業を行う。先生は各クラスに1人ずつ。その他に校長先生と教頭先生、保険の先生がいるので計6人だ。HRは校長先生も含めた6人が持ち回りでやってくれる。本土では授業ごとに先生が違うと以前先生が話していたことがある。その先生はもう本土に帰ってしまったが、だとしたらこの島の学校の先生は大変だ。全授業を一人で教えなければならないのだから。

HRでは、今日も元気に過ごしましょう。と、明日から台風が来るからしっかり準備するように。と、父親にはあほんだらなんて言葉づかいで話すのはやめましょう。という話があった。最後の話は完全に蛇足じゃないかと思いながらも、世の中には言って良いことと言ってはいけないことがあるということをかみしめた。この島は確かに社会は小さいが学びは多く、良いところだと思う。なぜ親父があんなに本土の高校へ行けというのかおれにはわからなかった。

「失礼します。」

放課後、おれは職員室を訪ねた。そこで先生に進路についての相談をした。親父と話したことを話をして、なんで本土の学校に行った方が良いんかおれには分からんから教えて欲しいと聞いた。すると先生は、

「どっちが正しいかなんて今はわかりません。未来のことは誰にも分からないから、迷うんですよ。迷った末に選択した道ならどちらも悪くはなりません。でも、本土の学校という選択肢がなかったなら太一君は悩むことなく青山島分校に進んでいたでしょう?少なくとも、ほかの選択肢と迷うことなく分校に進むよりは、悩んだ末に分校に進む方が良いと思いますよ。」

と答えた。結局おれには分からずじまいだったが、その日はそのまま家に帰った。




帰宅して、おれは夕飯を温めてテレビをつけた。遠漁の時、親父は必ずシーフードカレーを作っておいてくれる。カレーはいつも通り美味かった。テレビでは台風が島に直撃するコースであることを報道していた。窓からは雨が地面をたたく音が聞こえてきて、明日の大荒れを予感させた。おれは家の雨戸を閉めて回り厳重な戸締りをしたうえで眠りについた。

翌朝、おれはけたたましい電話の音で目を覚ました。電話は休校を伝える連絡網だった。自部屋の雨戸を少し開けて外を見ると想像をはるかに超える大荒れだった。生まれて初めてじゃないかという規模の荒れ方を見て、小さく体が震えるのを感じた。

それからしばらくして親父から電話があった。今朝、本土を出る予定だったが船が出向せず、島行きの船も出ていないので本土に泊まり船が出次第島に戻るとのことだった。おれは一人、家に閉じこもった。ザーザーという音は次第にピチャピチャ、ジョボジョボという水が水を打つ音に変わっていき、ついに家の玄関に水が入ってきた。

これはあかんな。と一人思っていたころ、うーうーと緊迫感のあるサイレンの音が鳴り響き、続いて島内放送が流れた。住民は近くの学校に避難するようにという役所の人の声は心なしか震えているようにも聞こえた。




おれは、身支度を整えてブレーカーやガス栓などをすべて落とすと、玄関のドアを開けた。

(重っ!)

おれの家は古いので左右に動かして開けるタイプのドアだ。そのドアを開けるために右にずらそうとしたが予想に反したドアの重さに驚いた。

ドアを開けると水が一気に家の中に流れ込んできた。慌てて、玄関のドアを閉めたが、閉めるのにも力が必要なほどの水圧で玄関は水浸しになった。おれがドアを閉めたのは、玄関が水浸しになるのを嫌ったからじゃなく、改めて着替えをするためだった。外を流れる水の量を見て、服ではなく漁の手伝いに行くときの格好の方が良いと思ったのだ。普通に歩くには少し重いが、もし海に落ちても安全なように袖や足に空気を入れることができる、頑丈なゴム製の服だ。急いで服を着替えて、もう一度ドアを開けると、さっきよりもはるかにすごい勢いで水が玄関に入ってきて、ひざ上まで水につかる格好になった。自分の判断は正しかったと思いながら、玄関の外に足を出すと一気に足が持ってかれそうになった。慌てて地面に強く足をつけると玄関に残していたもう片足も外に出した。すごい急流に自分の体を支えているのもつらかった。何とかドアを閉めると、学校の方へと足を向けた。学校があるのは水が流れてくる方なので水をかき分け進まなければならなかった。

「みんな無事だろか。」

思わず不安が口をついた。水をかき分けながら慎重に一歩一歩進んだ。

普段の登校時はゆっくり歩いても10分しかかからない道を25分かけて歩いた。家からの一本道を歩いていくとT字路に出る。右に曲がって坂を登ると学校。まっすぐ行くと美代の家がある。一瞬美代は大丈夫かな?と心によぎったが、学校に向かい右に曲がった。恐らく、おれの方が後だろう。学校に着けばわかることだった。学校は小さな丘の上に立っているため、学校に着くころには水面が低くなり、水は足元を猛スピードで駆け下りていた。学校に着くと、多くの島民がすでに到着しており、校舎の中にも人影が見えた。

「太一君!」

呼ばれて振り向くと、校門付近に先生が立っていた。

「よかった!たっつぁんは漁だもんね。太一君家に一人だから心配だったの。これでまだ来てない生徒は美代ちゃんだけだわ。美代ちゃんちはご両親もまだ到着してないから、きっと一緒ね。」

「え。」

美代のおっかさんはかなり慎重な人だ。こういう天候であれば、いち早く学校に着いててもおかしくない。おれの「え。」という感想に先生も不安をあおられたらしく。

「やっぱり遅いかしらね。」

先生の顔を見るとさっきより白く見えた。いや、まぁ大丈夫でしょう。親父さん待ってから家出た方が安全と思って少し遅れて出たのかもしれないし。と先生に残し校舎へと向かった。校舎へ入ろうとしたとき下からむせぶ声が聞こえてきた。気になったおれの足は止まっていた。

「美代が!!!」

今度ははっきりとそう聞こえた。おれの足は先生と校門を置き去りにして坂を下る水を追い抜いた。

「おばちゃん!美代がどうした!!?」

「太一君!美代が!!流された…。」

美代の母親が崩れ落ちた。

「おばちゃん、美代どっち!?どこで流された?」

「うちの、学校の登り道のすぐ手前の、山の横で。」

今一つ要領を得ない返答だったが、

「おばちゃん家から学校までの間ね!?」

と返すと、

「うちの方。」

とだけ返ってきた。そこに先生が後ろから走ってきた。

「太一君、待ちなさい。大人が行くから!太一君は待ってなさい。」

「少しでも早い方がええ!先生、おばちゃん学校連れて男の先生連れてきて欲しい。でもおれはもう行く!」

「行けません!太一君まで流されたらどうするの!先生、たっつぁんに顔向けできないから!太一君も一緒に学校へ戻るよ!!」

「嫌だ!おれは大丈夫だ!!おれはそのたっつぁんの息子だから!ここで助けに行かなきゃ後悔する!このくらいの水大丈夫だ!漁の手伝いの高波に比べれば大したことないし、漁の時に着る溺れない用の服もちゃんと着てる。漁師になる訓練もしてる!親父のような立派な漁師になるまでおれは絶対死なん!」

「大人がすぐに追いかけるから!無茶はしないで。慎重に動いてよ!!」

先生は思いの外すぐに折れた。たっつぁんの息子が効いたのか、先生自身も問答をしてる時間がもったいないと思ったのか、理由はよくわからなかったが、おれはすぐに走り出した。




坂を駆け下りT字路に出た。水かさは登ってくる前よりも増しており、腰がつかるのも時間の問題だと感じた。来た道とは反対側、美代の家の方に体を向け、少し進むと美代が流された原因が分かった。進むと水がどんどん濁ってくるのだ。

(どこかの土砂が崩れたか?学校ごと崩れるような規模じゃないといいけど…)

逡巡したが悩みながらも、前へと進んだ。

学校の丘沿いに少しカーブした道を進むと崩落の現場が目に入った。道の右側の丘から何本か大きな木が倒れ道をふさいでいる。道の左側は切り立った崖になっていて、家の二階の屋根を見下ろすことができる。がけ下に立ち並ぶ家々のうちの一軒が美代の家だ。その崖を茶色い濁流が流れ落ち、崖の下の家の庭では太い木の枝が何本も家に引っかかり折り重なるようにして、水の流れをせき止めている。崖の真下には用水路があるのだが、木々や泥水は用水路を超えて民家の庭に落ちているように見える。

(美代は、土砂と一緒にここから流されて落ちたのか、それともがけ下で流されたのか。どっちだ)

美代の家まではまだ距離がある。と言ってもおれも倒れた木を越えなければがけ下に降りる階段に出られない。

(くそっ!おれの家の方から遠回りした方が早かったか!?だが、この辺りに美代がいる可能性も0じゃないし)

「太一~!!!」

後ろから先生が呼ぶ声が聞こえた。

「美代はいたかー!!?」

「いや!!先生、こっちの道はだめだ!気が倒れて道をふさいでる!!逆から回って下に抜けて!おれはこの辺に美代がいないか探して学校に戻る!あと、もし何人か来てるなら、一人戻って校舎裏から丘の様子を確認した方が良いかも!丘が崩れるかもしれん!」

「分かった!!太一、気をつけろよ!!」

「おう!」

大声で話したが土砂降りの雨の音で先生の声はとても聴きとりにくかった。おれの声は届いただろうか。

倒木に近づくにつれて、丘から流れてくる水の勢いがどんどん増してくる。

(これは確かに、女の子じゃ流されるかもしれね)

おれは、道のがけ側をガードレール沿いに歩いた。

(ガードレールが崩れたらヤバイ。が、ガードレールに身を預けないと前に進めねぇ)

倒木のところまで必死に歩いた。近くに来ると悲惨さが身に染みた。

(これは…)

遠目には土砂降りの雨で視界が遮られ大まかにしか見えてなかったものがしっかりと見えて絶句した。木は、ガードレールを突き破り崖側に少し飛び出していた。木の周りから土砂が下へと流れていく。他の部分もガードレールの下から水はがけ下へ流れ落ちているが、水かさはまだガードレールの高さを超えていない。なので、ガードレールの範囲の水が逃げ道を探して、この辺りに流れ込んできている。ガードレールのくぼみがちょうど水路みたいになって、がけ下に水が滝のように注がれる。時折、ガードレールがギシギシと音を立て崖の方、空中に向かって曲がる。今までこれに身を預けて歩いてきたのかと思うと、全身が震えた。

「美代―!!!」

ザザザザザザザという大雨の大音量ですぐに消えたが、何度もこだましてくれと願いを込めておれは全力で叫んだ。

(この雨じゃ返事があってもでかい声を出す元気がない状態だったら聞こえんか)

呼ぶことに対する意味を失いそうになる。だが、今できることはそれくらいしかない。ガードレールから離れ、倒木に沿って丘側に向かって歩いた。道路の右側いっぱいまでたどり着くと上を見上げた。猛烈な雨で視界はほとんど遮られたが、丘がえぐれて学校が浮いてるような状態ではなさそうだ。

「美代―!!!!」

もう一度叫んだが返事は聞こえない。さっきまでよりたたきつける雨が強くなったような気がした。この辺りにはいないと確認して、倒れた木を向こう側へ乗り越えようとした。だが、木が泥で滑ってうまく登れない。木を登って乗り越えるのはあきらめ、流れ来る泥流に逆らって丘側に残った崩れた土砂のなだらかな斜面に上り木を跨いで逆側へ降りることにした。流されそうで大変だったが一歩一歩踏みしめるように歩き何とか木の向こう側へ足を踏み下ろした。

ぐちゃあぁ。

逆側はこちら側より流れが激しかったのか、泥が積みあがっていると思っている部分は泥で濁った水が流れておりこちら側よりもはるかに深く、ぬかるんでいた。想定より深かったこととぬかるみに足を取られたことで滑ったおれは、転び、濁流の流れに耐え切れず、一気に流された。激痛が頭に走った。どこが痛いのかもわからなかった。泥で視界もほぼなかったが、倒木の出っ張りを必死でつかんだ。流されてどっちが地面だかも不確かな状態から、木を支えに何とか立ち上がった。右手は木から離さず、左手で顔をぬぐおうと腕を上げた瞬間

「がぁっぁああ!!!」

痛いと思う間もなく叫んでいた。どうやら転んだ時に左腕を打っていたらしい。あまりの痛みに一刻も早く左腕を見たかった。右手を木から放し顔をぬぐうと、左腕を見た。視界に入った肘より先は変な方に曲がっているなど分かりやすくおかしな状態ではなかったが、それより肩の方を見ようと首を曲げようとするとさっきよりは弱いが痛みを感じ、それ以上肩側を見ることはできなかった。右手で木を掴みなおし周りを見ようとした瞬間

ずずず

と音を立て気が少し横にずれた。さっきのおれの転倒から流されたおれが木を掴んだこと気も少し動いていたのだろう。もう一度おれが掴んで体重を預けた瞬間に崖側に数センチ木が流れたのだ。おれは慌てて木から手を放しその急な動きが左肩に痛みを与え、痛みに耐えきれなかったおれはよろめいて、再度木にぶつかった。今度は木は動かなかった。

改めてあたりを見渡して、まず気づいたのは、おれ自身が崖っぷちにガードレールのすぐわきに立っているということ。どうやら道路の端から端まで流されたらしい。

(とにかく美代を探さなきゃ)

そう思って一歩歩いたが、その瞬間、また左肩に痛みを覚えた。

ガードレールが左側なので捕まることもできない。

(くそっ。学校に戻るか?)

そう思い、向きを変えたが、倒木が目に入り、あきらめた。もう一度あの木を乗り越えることの方が怖かった。

(階段から下に降りて、町の中を歩いて美代を見つけて、おれんちの方から坂を登って学校へ)

前へ進む覚悟を決めたおれは先の方にぼんやりと見える階段に向かって歩いた。痛みと雨と泥で視界は更に悪くなった。

(すぐそこのはずなのにな。階段が遠い。)

崖から落ちるかもという恐怖がおれの足を自然とガードレールから遠ざけた。道のなるべく真ん中を流されないように一歩ずつしっかりと歩いた。

ようやく階段にたどり着いた時にはもうくたくただった。はた目にも階段を流れる水の量と速さは階段に腰かけて休むことを許す雰囲気ではなく流れる水の音はお前も流してやるぞと脅しかけるかのようだった。

階段にはコンクリートの縁があり、そこに手すりがついているのだが、その手すりの高さまで水が流れている。両脇を縁でおおわれている分、水がここに集中的に流れ込み急流になって下に流れているのだ。

(まるで渓谷だ)

今すぐにこの階段を降りる体力はないと感じた太一は、階段の縁によじ登り、腰を掛け休んだ。足を下に投げ出すと、足首くらいまで水につかり、その水の早さを体感できた。階段を見下ろし、頭の中でシミュレーションした。子供のころから何度も通った階段だ。階段の作りは体が覚えてる。右左に縁があり、その縁に手すりがついている。真ん中にも手すりが立っている。階段の段数は12段。12段降りると2歩分程度の踊り場がある。この踊り場には中央の手すりがない。そこから下に12段。チョキかパーで勝ち続ければ4回でぴったりゴールできると島の子供全員が知っている。

(これなら、下りは降りられっけど、危ないから真ん中の手すりを右手でつかみたい。できれば両手でつかみたいけどそれは叶わね。左手が流されんか。水の流れで左手が持ってかれたとき、痛みに耐えられるんか。考えてもしょうがねが。)

恐怖が脳裏に張り付く。必死に歩いてきて、転んだ時からもう1時間でも経ってようかという体感だが、実際にはまだ10分程度。全身がさっきの痛みを覚えている。

(踊り場では一回手すりを放すしかね。流れ次第だが、下の手すりをつかみ損ねたらアウトだな。そこから12段。もう一度痛みに耐えるしかねぇな。)

「よし、行くべか。」

つぶやいた。大きく息をついておれは縁から降りた。

最初の関門として、階段に流れ込む水に耐えて中央の手すりを掴む必要がある。今も縁に立っているおれの背中をぐいぐいと水が押してくる。おれがここに立ったせいで、水がせき止められ、降りた直後は腰辺りを押していた水は、あっという間に背中を押すようになった。やはり、想像通り左腕が痛い。

(ここに立ってれば立ってるほど、痛みが積み重なって…もう行くしかね。)

意を決しておれは大きめに一歩踏み出した。足は思ったより水に流され、足の着地より早く焦った右手が中央の手すりを掴んだ。上半身投げ出すような形になった。右足をつくことはできず、左足も踏み出した。右足は中央の手すりの下をくぐり向こう側まで流されたが、右手で踏ん張り、左足を右手の近くに着いた。全身の膂力を振り絞り何とか右足も地面に着くことができた。

(何段目に足を着いたんだ?)

とても下を見る余裕はないし、下を見ても泥水で底は見えない。段数が分からないと途中で踏み外す可能性がある。

(降りないと。もう太ももが踏ん張れない。早く降りないと!!)

頭で考えていた時は、足は降りること、踏み外さないこと、太めの木の枝などがつっかえていた時に引っかからないようにすること、後ろから何かが流れてきてぶつかっても踏ん張ること、そういうことに注力して、右手で踏ん張るつもりだった。だがそんな余裕はなかった。ただ、とにかく流されないことに全力を賭して、一刻も早く降りるしかなかった。

(9,10、っとぉ!!)

最初に着いたところは2段目だった。11段目を降りるつもりで進んでいたが手すりの先がそれ以上なかった。

(ということはあと一段降りたらそこは踊り場。で、その先は、あそこに手すりか。)

中央当たりの水の流れが不自然に見えるところがあった。恐らくそこに手すりの最初の柱が立っているからそれを水がよけているんだと推測した。

(最初から手すりを掴むのは無理かもしれん。まずは柱。仮に流されかけても右手を伸ばしとけば柱にぶつかる。何としても柱を掴まんと。)

柱を掴むイメージを強く持って、おれは一歩踏み出した。捕まるものが無くなって、踊り場を一気に歩いた。右手を強く柱に打ったが、もはや気にならなかった。柱を掴むと手すりの高さまで手を滑らせ、必死にブレーキをかけながら3段階段を降りた。

(止まれた。助かった。)

また一歩ずつ階段を降りるが途中で違和感を感じた。

(6,7、あれ?水の嵩が減ってる?)

思えばそんなことを考える余裕も出ている。背中を押していた水は今は太もも辺りまでしかない。

(なんで!?まさか何かでかい物が階段の入り口でつっかえた!!?)

慌てて後ろを向いたが、特に何も落ちてきてはいなかった。左肩と首の間に痛みだけが残った。

(くそ!!)

あまりの痛みに慌てて振り向いた自分の馬鹿さ加減を呪ったが、実際に何かが落ちてきていたらその行動が命を救ったかもしれなかった。

(なんで水かさが減ってるんだ?)

改めて前を見た。今までは完全に水がかぶっていた手すりも今掴んでいるところは既に水の上にある。一番下の柱も少し見えている。

(水が用水路に落ちてるんだ!)

階段の間、縁はコンクリートでできている。階段を降りると十字路になっていて、正面の太い道と、用水路沿いに細い道が走っている。用水路沿いの方は住宅を囲うブロックと用水路落下防止のフェンスの間に人がすれ違えるくらいの細い道だ。

(階段を下った水は三方向に進んでるんだ。左右はUターンするように用水路に水が落ちる。階段の入り口で狭いところに水が流れ込むために増えた水かさが出口付近で広いところに流れるから減ってるのか。)

考えながら右の用水路沿いの道を眺めた。肩が痛くて左は見えないが、美代の家は幸いにも左だ。

「美代っっ!!!!」

言うなりおれは走り出していた。階段を踏み外すとか段数とか、一切を気にしていなかったが、小さい頃から何度も行き来した階段の作りは体が覚えていたのだろう。反射的なおれの走りは見事に濁流と階段を攻略し、階段の降り口を右に曲がった。

階段から、用水路沿いの右の道の奥の方、民家の塀に不似合いな小さなピンクの塊が見えた。おれにはそれが、いつものピンク色のレインコートを着て、塀に寄りかかって体育座りでへたり込む美代に見えたのだ。近くまで走ると確信に変わった。

「美代っっ!!!!」

もう一度呼びかけるとピンクの塊が動いた。

「たいちぃぃい。」

弱弱しい声がした気がした。

近くまで寄ると、美代は体育座りでむせぶように泣いていた。腕で抱え込むように顔を胸とひざの間にうずめてむせびながら言った。

「たいちぃ。」

今度ははっきりと聞こえた。

「大丈夫。」

問いかけではなく、おれははっきりと美代に言い切った。美代は顔を上げおれの方を見た。こんなにすがるような顔でおれを見る美代は初めてだった。目は赤く腫れ、唇が細かく震え、これだけの豪雨を受けているのに頬をつたう涙が分かった。

「大丈夫。」

おれはもう一度、言うと、

「ちょっと遠回りだけど、おれんちの方からぐるっと回って学校まで行こ。」

と続けた。繰り返す「大丈夫」は自分への励ましでもあったのかもしれない。

「そっちは、無理。太一んちまで行けない。」

おれは美代の左側に回り込んで隣に座った。今まで、座ったらもう立てないんじゃないかという疲労感から、座るのが嫌だったが、美代が話を続けようとしていたので、隣に座って聞きたい気持ちになった。美代の右側に座ると、美代が寄りかかりたいと思ったときに左肩が痛くて支えられないと思い美代の左まで回り込んだ。

「お母さんと学校に行くときにね、この階段は水が急で危なそうだからって太一の家の方から、回ろうとしたの。そしたら途中で左からものすごい勢いで泥水と木が流れてきて、私はそれに飲み込まれた。飲み込まれる直前にお母さんは太一の家の方に進めたのが見えたの。お母さんはこっちに戻ろうとしたんだけど、行って!!って叫んだ。ちょっと流されたところで普通に立てたんだけど、向こう側に行くための道のところに車とか岩とか木とかたくさん落ちててちょっと通れる感じじゃない。海の方の道も見ようと思って行ったんだけど、波が荒れてて、道の上まで波着てて、今にも船が港の上に入ってきそうな感じで、あっちは危なっかしくてもっと通れない。で、階段から登ろうと思ってここに来たんだよ。ふもとまで行ったんだけどさ、上の方、手すり見えないし、あんな流れに逆らって上るとか無理じゃん。って思って。なんか疲れちゃって、この辺水ないし、座り込んだら泣けてきちゃって。しばらくここにいたんだけど、もう家に帰ろうかなと思ってたら太一が来てくれたんだ。」

ゆっくり、時間をかけて美代が話した。

「ふぅ。なんか太一と話したらちょっと元気出たよ!来てくれてありがと!」

美代が笑った。無理に笑ったのか泣き崩した顔だからそう見えたのか、すごく不器用な笑顔だった。

「おばちゃんはちゃんと学校着いてるよ。先生たちはおれの家の方からこっちに来ようとしてるんだけど、それじゃ来れないかもだね。もう一度、道見に行ってみる?」

「へへぇ。」

今度ははっきりと美代が笑った。

「どうした?」

美代はちょっと戸惑ったが

「んーん?なんでもない!道はいいよ。もっと酷くなっててもあれだし、途中で流されるとかも心配だし。こっち側は水来てないからうちに行こうよ。一人で家にいるのは怖かったけど、太一いるなら大丈夫。」

「え。でもなんか美代んち入るのハズイわ。」

「はぁ?何言ってんの?ちっちゃい頃よく来てたじゃん。でも、嫌ならいいよ。太一にはお庭貸してあげる。」

「おれは犬か!!」

言いながらとりあえず立ち上がった。一度座ったらもう二度と立てんかもと思っていた疲労困憊のはずの体は思ったよりもしっかりと言うことを聞いてくれた。

「美代、立てる?」

手を差し伸べたが、美代は普通に自分で立つと

「馬鹿にせんといて。」

と言って笑った。



美代の家に行くまでの道のりは比較的穏やかだった。一般的な大雨と変わらない程度の水が道路を覆ったが、極端に流れが早かったり水かさが増したりすることはなかった。用水路を経由して海に流れ出ているのだろう。

美代の家は階段から数分歩いたところ、用水路と海岸線のちょうど真ん中かやや用水路寄りにある。学校と海岸沿いで考えると、美代の家から学校に行く距離の半分くらいで海岸に辿り着く。おれの家の方は海岸線と言っても切り立った崖のようになっているが、美代の家の方は港や砂浜がある。家に着く頃には山から降りてくる泥水よりも海から上がってくる波の方が危ないのではないかという気さえした。

家に着いて、美代がドアを開け中に入った。

「お邪魔しまーす。」

おれは一応挨拶をしたが、中に人はいない。おれが家を出た時、雨水が中に入り込んできたので、美代の家は低地にある分もっと酷いだろうと思ったが、中は綺麗だった。

「とりあえず、シャワーお湯出るか見てくるね。」

美代はそう言うとビショビショのまま中へと歩いて行った。おれは玄関で待った。床には美代が歩いた跡を示すように、水跡が付いているが、おれが歩いたら、床が泥だらけになってしまう。用水路から家までの道のりで振られた雨に表面的には洗い流されたが、ブーツの中は多分まだ泥だらけで、靴下も泥だらけだろう。

「あったかーい。生き返るわー。」

どうやらお湯は出たようで、美代の声が聞こえた。

ピチャピチャと小走りな美代の足音が近づいてきて廊下から美代が顔を出した。

「はい。タオル。何してるん?上がっていいよ。」

美代は相変わらずビショビショの服を着ていた。ズボンから、シャツの袖から、髪の毛から、水がした垂れ落ちて床を濡らしていく。少し顔を上げると、美代の表情がだいぶ元気になっていたのが嬉しかった。

「いや、おれ多分泥だらけだから。タオルありがと。」

タオルを受け取ると右手で頭を拭いた。だらーっと垂らした左腕が気になったのか

「左手、どうかしたの?」

と美代が怪訝な表情で覗き込んできた。

「ちょっと転んで。」

そう答えながらも、なんとか左側も拭こうとしたがうまくいかない。と思ったときに、左側頭部を強くタオルが撫でた。少し顔を上げると美代が目の前にいた。

「なんだー。そうならそう言ってよ。ここまで大丈夫だった?」

美代はおれの頭をタオルで拭きながら言った。玄関の段差のせいで、美代の声が頭一つ上から飛んできてだいぶ違和感があった。ただそれ以上に目のやり場に困って顔を伏せると

「シャワー浴びてきたら?お湯いつ出なくなるかわからんし、寒いでしょ。」

と照れ隠ししながら、強がった。

「もー!腕大丈夫かなと思って心配したのに。」

そう言いながら美代はタオルから手を離し少し遠ざかった。

「泥、気にしなくていいから上がってね。あとで掃除すればいいんだし。私、さっとシャワー浴びてくるから、そしたら太一もシャワー浴びてね。」

と付け加えて、美代はまた廊下の向こうへ歩いて行った。

少し経つと、ガラガラと、さっき美代がお湯が出るか確認する前に鳴った、独特なドアの音が聞こえた。おれは美代から受け取ったタオルを玄関を上がったところの床に敷くとその上に座った。漁に行く時用の特殊なブーツの右足を脱いだら予想通り泥だらけだった。左のブーツもなんとか脱いだ。いつも左は左手で脱ぐので、少し大変だったが、幸い手を下ろしている分にはそこまで痛くなかった。

(とりあえず雨で流すか。)

ドアを開け外に出て、ブーツの中に入っていたスネより下の部分の泥を洗い流すともう一度中に入った。

さっきまで敷いていたタオルを拾い右手で拭ける範囲の体についた水滴を拭った。またタオルを床に敷いて座って、スーツを脱ぐことにした。ジッパーを下ろし右手をスーツから抜き出したところで絶望的な痛みが全身を襲い、おれは形容しがたい悲鳴をあげた。

「太一!!!」

美代が叫ぶ声が聞こえた。靄がかかったような視界の中に、ぼんやりと美代の顔が見えた。太一、太一と何度も名前を呼ばれたような気がしたが、よく覚えていない。ぼんやりと見えた美代の顔を最後におれは目を閉じた。



目が覚めると病院のベッドだった。

「太一!」

美代に呼ばれ、声がした方向を向いた。ぼやけた視界の中にしっかりと美代の顔が見えた。

「美代。」

「たっつあぁん!!太一、起きたよ!!!」

奥の椅子から親父が立ち上がって歩いてきた。

(あぁ、親父に会うの久しぶりだな)

何となくそう思った。

「太一、心配したんだからね。いきなり倒れて。もうあんな無茶したら嫌だよ。」

「倒れた?おれ、倒れたの?」

美代の言葉は涙声で最後の方はかすれていたが、その言葉にかぶせるように驚いたおれの声が重なった。驚きのあまり、反射的に体を起こそうとしていたが、左肩が少し痛く、またとても重く、それ以上動かなかった。その痛みで台風の日の出来事を思い出した。

「太一、台風の日のごつは覚えでるか?」

親父が後ろからぬっと姿を出して聞いた。

「あ、今思い出した。まだちゃんと思い出してないけど、なんとなく。」

「そうがぁ。話は先生から聞いた。まぁ、なんだ。よぐ頑張ったな。」

無理をするなと怒られるものかと思ったので意外な言葉だった。

「父ちゃん。」

普段ほとんど表情に感情を出さない親父が、すごく驚いた顔をした。父ちゃんと呼んだのは、小さい頃以来だった。

「おれ、本土の高校行くよ。」

「え!?」

間髪入れずに美代が思わず驚きの声を上げたが、おれと親父の顔を交互に見るとすぐに黙った。

「おれ、漁師になる。親父みたいな漁師に。中学卒業したら、すぐになれると思ってた。青高通いながら、漁師の手伝いして土日は漁について行ったりして、そんな生活を考えてた。でも、今回のことで、おれに足りないことって沢山あるんだろうなって実感した。本土に行って世界が広くなったら、それが少しでも埋まるなら、おれ、本土行くよ。」

親父はおれの目をまっすぐ見てきた。おれもまっすぐ見て話した。少し時間をおいて、

「先んず、体治せ。」

と親父が言った。それからしばらく部屋は静けさに包まれたが、何も言わずに、親父が部屋の扉を開け外に出ると、部屋の外の人たちの声が入ってきた。



「あー。これで島も最後かぁ。」

港で太一が大きく伸びをしながら言う。

「最後なんて言ってすぐに泣いて帰ってこないでよ。」

美代がいたずらに笑いながら太一を見ている。

「お前こそ、本土から来る子たちとうまくやれよ。」

美代は青山島分校に進学する。青高には本土からの学生も入学してくる。島からの進学者は太一が本土に行くため美代1人だけだ。新しい友達と一人ぼっちでやって行かなければならないのは美代も変わらない。

「ふふ。ありがと。」

島に住んでいる人は少ないので、1人が島から出るとなると島のほとんど全員が見送りに来る。

「たいちくん、帰ってくる?」

ちびっ子が口を揃えずに聞いてくる。

「おう。夏休みには帰ってくる。そしたらまた遊ぼうな。」

太一も繰り返し同じ答えを繰り返す。

ぽーーー

大きな汽笛の音がなる。出航5分前の合図だ。

「じゃあ、行ってくる。」

そう言うと太一は親父の顔を見た。ゆっくりと頷いていた。特に言葉はなかったが、何かが太一に伝わっていた。

太一は踵を返して船に向かった。みんなから少し離れた時、美代が駆け寄ってきた。

「ねぇ。」

美代に呼びかけられ太一は振り向いた。

「あのね。台風の時、ありがとう。太一が来てくれてすごく嬉しかった。本土行くって聞いて寂しかったけど、今はちゃんと応援してる。太一、頑張ってね!」

太一が頷くと美代は太一にすっと近づいた。耳に口を添えると小さな声で呟いた。

「太一が本土で彼女できなかったら私が付き合ってあげるよ。」

小さくそう言うとすぐにみんなの方へ走っていった。驚いて太一はその後ろ姿を見た。後ろから見ても美代が赤くなっているのが分かった気がした。

「行ってらっしゃいのちゅうだー!!!」

向こうからちびっ子の声が聞こえる。

ぽーーーーぽーーーー

出航の合図が鳴り響き太一は慌てて船に乗りこむ。

太一が船に乗り込むとゆらゆらと船が港から離れた。

まるで太一の船出を祝福するように、春の日差しがキラキラと海を照らしていた。


前作より少し長く書けました。

でもこれ以上長い作品は取っ散らかって回収できなくなりそうです。

物語を書くって難しいですね。

読んでいただいて、似たようなものを書いてるよ。という方がいらっしゃいましたら、ぜひお声がけください。

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