第240話:生々流転
「――ふーん、それで……不老不死を解く魔法を?」
「まあ、多分そんな感じ」
――ここは深淵の谷の地下。
闇狗ウルの住処へと通じる地下通路だ。
もうユピテルへの帰路が始まるという数日前――俺はヒナを連れて、この深淵の谷に訪れていた。
ヒナを連れてきたのには、いくつか理由はある。
俺一人で王都の屋敷を抜け出すのは心配されるし、彼女としてもユリシーズに挨拶したいんじゃないかという事。
あとは――もしかしたら彼女の頭脳が何かしらの役に立つのではないかという事だ。
ヒナにはところどころかいつまんで、ざっくりと『ニルヴァーナの滴』と、ウルの不老不死が打ち消せるかもしれないという話をしている。
『神族』との戦いについては、大まかにしか言っていないので、何か聞かれるかと思ったのだが、
「それで、闇狗も――その……一緒になるつもり?」
「――ブフッ!」
俺としては的外れな質問が飛んできた。
思わず口に含んでいた水を拭いてしまったものだ。
ウルと?
そんな事考えた事もない。
「まさか。俺が愛しているのは君たちだけだよ」
「そ、そう。ならいいのよ」
俺の答えに満足したのか、ヒナは少し顔を赤らめつつも納得してくれたが……。
そうか、中身が200歳とはいえ、闇狗も見た目は俺より少し年下程度。
ヒナからしたらそういう対象に見えなくもないのかもしれない。
確かに、この間も屋敷を抜け出して闇狗の元に行っていたという事は明かしているし……肩入れしていると思われても仕方はないか。
浮気をするつもりはないが……いや、既にそう言えた口ではないんだけど、彼女達を不安にさせないよう、今後は気を付けよう。
ちなみにここに来るまでは俺が飛行魔法でひとっとびだ。
恥ずかしがるヒナを、半ば無理矢理お姫様抱っこで運んだ。
本当は別に抱っこなんてしなくても浮かせるけど、そこは俺の気分だ。
さて、そんな会話をしつつ地下通路を抜けると、開けた明るい空間に出た。
地下空間の癖に木々が生い茂る――不思議な空間だ。
前はユリシーズがお出迎えにきたものだが、今回はどうやらお出迎えはないらしい。
のどかな道をヒナと二人で並んで歩き、岩壁にめり込むように作られた木造の小屋にたどり着く。
ノックをしようとしたところで――内側の方から扉が開いた。
「―――やっぱり、アルトリウスだったの」
黒髪に黒目に黒ローブ。
やけに疲れた顔をした少女―――闇狗ウルだ。
「ああ、久しぶり……っても、3か月くらいか」
前に俺が来てから、概ね3か月弱。
長いと言えば長いが、都市間の移動に何日もかかるこっちの世界ではそれほど長い期間というわけでもない。
「ええ、でも――丁度良かった……たった今、終わったところだから」
そして、俺を見るなり、ウルはそう言った。
「――終わったって……何が?」
まさかと思いながらそう尋ねると――
ウルは少し自慢げに、こう答えた。
「―――元の身体に戻るための――準備」
「―――!」
「ついてきて」
驚く間もなく俺達はそのまま奥の部屋に通された。
● ● ● ●
以前にウルの部屋だと思っていた暗い部屋は通り過ぎ、さらに奥へ通された。
小屋の中にそれほど部屋があるとも思えないので、おそらくここは、岩壁の中だろう。
木造の小屋から、岩の中を繰り抜いた空間まで繋がっているのだ。
通路には割と物が散乱している。
多くが、紙や、書類の束だが、たまに食器やスプーンも見かけた。
「――散らかってるのはごめんなさい。あの日から結構忙しくて」
歩きながらウルがそう説明してくれた。
どうやら俺が『ニルヴァーナの滴』を渡して以来――寝る間も惜しんで魔法の研究をしていたらしい。
通路を進むと、突き当りのように――真っ白い扉が見えた。
「……正直に言うと、オーブの解析自体はすぐに終わったの」
歩きながら、ウルは話す。
「それを私の体に同期させて、相殺するやり方の構築も――それなりの時期に終わった。それが何とか形になってから、問題は浮上した」
どうやら、ニルヴァーナの滴の構造を解析して、その――相殺術式?を組み立てること自体はそれほど苦にせず終わったらしい。
元々200年で研究してきた様々な事が――このオーブの存在で、一気に繋がったのだとか。
しかし、実行するには問題があったらしい。
「魔力―――それが足りないの」
「魔力……」
「私も元々魔力量はそんなに多い方じゃないし、ユリシーズの魔力を足しても、一向にその魔法を発動させる魔力が足りなかった」
「言ってくれれば……俺の魔力くらい貸したけど」
しかし、ウルは首を振る。
「―――申し出はありがたいけど、大丈夫。正直人間の持つ程度の魔力が増えたところで――意味はない。必要だったのは瞬間出力。精霊が2体いてもそれは足りなかった」
「―――!」
「だから、私は――この200年で貯めた資産の全てを使った」
そして、俺達はその白い扉の前で止まった。
重厚そうなドアのノブを―――ウルは開けた。
「これは―――」
その中の光景―――白さに、俺は驚きの声を上げた。
それは、おそらく立方体の空間だった。
10~12m四方の空間―――部屋。
だが、普通の部屋と違うのは―――その部屋全てが「純白」。
真っ白な金属で覆われていたのだ。
隣のヒナも目を丸くしている。
「そう、この部屋を覆うのは、全てが―――高純度の『白魔鋼』」
ウルが解説する。
「白魔鋼は通常の魔鋼など比較にならないほどの魔力が貯められている。付与できる魔法も、通常の魔法のように制限はない。これだけ集めるのに――結構時間がかかった。市場に出てるのは全部買い占めたし、ユリシーズに直接掘りに行って貰ったり」
と、そこでウルの視線が――その部屋で何やら作業をしていた女性に向いた。
最初からいたことは気が付いていたが――この部屋の白さに心が奪われていたのだ。
「あ~師匠、どこ行っていたんですか~……って坊やにヒナちゃん! お久しぶりですね!」
もちろん、作業をしていたのは桃色の髪の美女――ユリシーズだ。
ユリシーズも寝不足といった感じで、疲れた顔をしていたが、俺とヒナに気づくとテンションを上げて近づいてきた。
「もう、聞いて下さいよ~! 師匠ほんと人使い粗いんですよ! いきなりわけわかんない魂魄術式の解析とかやらされて! かと思ったら、次はひたすらに相殺術式の付与をやらされて! 何ですか魂魄って! 私そんなの習ってませんよ!! しかも何ですか、急に隣の山に鉱石堀りに行けって……これでも私ひ弱な乙女なんですよ! もうぷんぷんですよ!」
どうやらユリシーズも中々に苦労したようだが……どこか楽しそうにしているようにも見える。
まぁ元から結構陽気な人だからな……。
そんなユリシーズに、ウルは尋ねる。
「それでユリシーズ、どう?」
「あ、はい。一通り見直しましたけど――全てきちんと付与されてます。問題はないんじゃないですかね」
「……ありがとう。すごく助かったわ」
「べ、別に良いですよ~! 師匠には色んなもの教えて貰ってますからね!」
そんな感じの師弟のやり取りは、見ていて何となくほっこりした。
そしてウルは――そんなユリシーズが作業していた部屋の中央に行く。
中央には、これまた真っ白い小さめの椅子と――その目の前にある、台座のようなものがあった。
目を凝らすと、その台座には――親指大ほどの穴が開いている事がわかった。
「……」
ウルはその穴に――懐からやけに禍々しい色を不気味に放つオーブを取り出し――嵌め込んだ。
言わずもがな《ニルヴァーナの滴》だ。
きちんと嵌め込まれていることを確認し、ウルはこちらに戻ってきた。
「……今まで200年間いくら考えても分からなかった――欠けたピースのいくつかが、あの中に詰まってる。凄いオーブよ」
先ほどのニルヴァーナの滴の事だろう。
「災厄の力って言っていたわね。確かに――あれはある意味災厄をもたらす物かもしれない。でも不思議んえ。見た目は禍々しい物にしか見えないのに――私にとっては希望の象徴にすら思えたわ」
そして、俺に体を向ける。
「本当に――いいの? この大仰な部屋は丸ごとが相殺術式。私の呪いと、このオーブを相殺させるの。つまり――このオーブは消える。戻ってはこないわ」
調べたからこそ――あのオーブの価値がわかるようだ。
俺の寿命の事まで知っているとは思えないが――ともかく、それを使ってしまって、本当にいいのか、という事だろう。
俺の答えは決まっている。
「前も言っただろ? それは君が使うんだ。それが俺と――ルシウスの想いだよ」
すると、ウルは目を閉じ、
「……ありがとう」
そう言って頭を下げた。
そして、顔を上げた彼女の顔はどこか決意に満ちていた。
「貴方が来てくれたなら丁度良かった。今から―――行うわ」
行う――というのは、この術式を使うという事だろう。
「……いいのか? 結構――大事な事じゃないのか?」
「ううん。むしろ多分―――今日じゃないと駄目な気がする」
「そうか」
そもそも彼女としては―――ずっと待ち望んでいた事のはずだ。
完成したならば早く元に戻りたいに決まっている。
「……じゃあ、見届けさせてもらうよ」
きっと俺にも彼女の未来を――彼女の結末を見届ける責任はある。
「―――うん」
ウルは感慨深そうに頷いた。
そして―――唐突に、着ていた黒いローブのすそに手を添え――。
ローブを脱いだ。
「―――‼」
衣擦れの音と共に――黒いローブは床に落ち―――現れたのは―――少女の裸体だった。
「―――ちょっと、貴方いきなりなに脱いでるのよ!」
俺より早く、ヒナの叫び声が響いた。
「え? 異物が混じると問題でしょ?」
「そうかもしれないけど! ていうかなんでローブの下に何も着ていないのよ! ―――ほらアルトリウスも、じろじろ見ずに、あっち向いて!」
「あ、ああ、勿論だ」
もちろん紳士である俺は、未来の妻の前で他の女性に欲情などしない。
慌てて後ろを向くと、後ろにいたユリシーズがやれやれ、という顔をしていた。
いつもの事なのだろうか。
「――もう、一応男性もいるんだから、ちょっとは気を付けなさいよ!」
「……別に私の体なんて、大して需要は――――……いえ、ごめんなさい。そうね、確かに殿方の前ではもう少し気を付けることにするわ」
「私の胸をみながら言うのやめて貰える!?」
後ろではヒナとウルの掛け合いが聞こえ少し笑いそうになったが、全力で堪えた。
……ヒナ、大丈夫だ。
確かにウルの方が大きかったような気がしたが、俺は気にしていない。
強く生きてくれ。
そしてなんやかんやと言いながら、俺はそうそうにその白い部屋から追い出された。
まぁ別にできる事もないし、見届けるとは言っても、そもそも魔法が発動してしまえば、彼女以外の人間はこの白魔鋼の部屋の中にはいられない。
間もなく、扉から――少しだけ顔を赤らめたヒナと、心配そうな顔のユリシーズが出てきた。
そしてすぐに――バタンという音と共に、扉が締まる。
「――ウルは?」
「もう……始まるそうよ」
「そうか」
緊張で少し声が震えた。
―――ウル……。
多分、大丈夫だろうとは思う。
あの摩天楼ユリシーズと、闇狗ウルが自信を持って完成したといったのだ。
きっと、成功する。
ルシウスが――オルフェウスのお墨付きも貰ったのだ。
200年。
彼女がもがき苦しみながらも生きてきた――その歴史。
今日が、きっとその歴史の転換点となる。
「……頑張れ」
聞こえているわけはない。
その呼びかけが正しいかもわからない。
でも俺は、そう小さく呟いていた。
● ● ● ●
―――こんなに熱中したのはいつぶりだろう。
白い部屋。
その中心の椅子に座りながら――黒髪の少女――ウルは思う。
手に触れるのは――少し大きめのレバー。
この丸ごとが《魔道具》といってもいい《白魔鋼》の部屋の魔法を発動させる、スイッチだ。
これを押せば―――魔法は発動し、計算通りならばウルの体は元通りになる。
こんなに熱中して何かをしたのは、20年ぶりだ。
毎日のように未知のオーブを眺め。
毎日知らない魔法の分析をして。
新しい公式や構築、術式。様々なアイデアが頭を飛び交っていく。
今まで研究してきた――無駄だと思っていたその全てが、次々と繋がっていく。
努力が報われたと、これほど思ったことはない。
魔法を学ぶのにこれほどわくわくしたことはない。
ユリシーズは理由を尋ねもせずに手伝ってくれた。
口では人使いが荒いだの、休みが欲しいと言いながらも、結局最後まで一緒に――身を粉にして頑張ってくれた。
彼女が弟子でこれほどよかったと思ったことはない。
白魔鋼を集めるのは大変だった。
久しぶりに街に降りて市場を駆け巡ったし、完成した術式を、一個一個付与するのには骨が折れた。
必死に――必死に頑張った。
あれから―――この身体が年を取らなくなってから、こんなに生を感じたことはない。
こんなに、生きることが何かを実感したことはない。
真っ白の壁に、目の前のオーブ。
自分の持てる技術と知識の全てを込めて作ったこの空間、この魔法。
魔力の出力を考えたら、チャンスは一度きり。
もう資産は欠片も残っていない。
今回を逃せば、次の機会はまた何年も後になるだろう。
それどころか、もしも何か術式を失敗していたり、何か誤作動が起きたりすれば――この身体がどうなるかは分からない。
死ねるならば、まだいい。
だけど、オーブだけ消えて、身体が残ったり。
身体が消えて、魂だけが取り残されたり。
そう言った《超常》の現象も――このオーブの存在があり得ると教えてくれた。
想像すると、色々と怖い。
―――でも。
きっと……きっと大丈夫。
ルシウスが――その父が大丈夫と言ったのだ。
アルトリウスは待っていた「少年」だった。
巨悪を倒し、精霊王を従え――全てを変える――。
ウルの――世界の待っていた少年だ。
間違いない。
これは運命だ。
200年前……いや、きっと彼の言うところの700年前から決まっていた運命。
だから、大丈夫―――。
「――――――」
――カチリ。
スイッチが入るそんな音と共に―――巨大な魔力の奔流が、部屋を覆った―――。
● ● ● ●
音は無かった。
光も無かった。
ただ――その壁越しでも感じる圧倒的な魔力だけを、やけに感じた。
「――凄い……イフリートの何倍もの魔力が……」
隣でヒナがそんな声を上げていた。
俺も全くの同意見だ。
精霊の魔力は俺も何度も目の当たりにしている。
この世界そのものかとも思えるほどの魔力を持つのが、精霊たちだ。
リンドニウムと繋がっているからこそ、俺もその大きさをよく理解している。
それを越えるほどの強大な大魔力が――先ほどの空間の中で渦巻いている。
「――ああ、本当に―――凄いな」
白魔鋼―――それが部屋を覆うほどの量。
いったいどれほどの魔力を内包しているのか。
いったいどれほどの魔力の出力を出すのか――俺には想像もつかない。
そもそも白魔鋼の入手も加工も、術式の開発も――きっと俺にはできない事だ。
200年をそれに費やした彼女だからこそ、できた事だろう。
――凄い。
魔道に現界はないという事をまさに体現しているかのような魔力だ。
――魔力の奔流は、数十秒間続いた。
瞬きする間に、魔力の大きさはさまざまに変わる。
小さくなったり、大きくなったりしながら、うごめいている。
そして―――。
魔力は―――静かに止んだ。
「――――」
思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
沈黙が流れる。
ヒナもユリシーズも、緊張した面持ちで、ただ扉を眺めている。
――終わったのだろうか。
扉を開けるべきかどうか迷った。
別に鍵がついているわけでもない。
こちらから開けることもできるが―――。
そう考えていたとき、
――ガチャン……。
内側から―――扉が……開いた。
「――――」
見えたのは、やけに汗ばんだ白い小さな手と―――黒髪の少女の身体―――。
「――師匠!」
扉を開けて、力なく倒れそうになった少女――ウルに、黒いローブを手にしたユリシーズが慌てて駆け寄った。
「―――ん……ユリシーズ……」
「師匠……大丈夫ですか? 凄い汗ですけど―――」
「……う……ん……そうみたい……」
ユリシーズに支えられながら――ウルは答える。
とてつもない汗の量だし―――怠そうな顔をしているが、意識はあるようだ。
「―――それより……」
ウルはローブを羽織りながらも首を振り――俺のほうに視線を向けた。
「……アルトリウス、その……少し剣を貸してもらってもいい?」
「―――!」
剣……俺の腰にあるイクリプスの事だろうか。
まさか……早速命を断とうってんじゃないだろうな。
「大丈夫。自殺なんてしないから」
すると、俺の心を読んだようにウルは言った。
どうやら違うらしい。
「……わかった」
俺はウルに近づき――イクリプスを抜いて、柄の部分を向けた。
「ありがとう」
少し重そうにしながら、ウルはイクリプスを受け取った。
そして皆が見守る中……短く持ったイクリプスで、ウルは自分の左手の甲に―――小さく傷をつけた。
少しだけ血が出る程度の――治癒魔法で簡単に治るような傷だ。
だけど、その傷は―――
「……良かった……再生――しない……」
黒髪の少女から、小さな声が漏れた。
そう、手の甲の傷が――再生しないのだ。細い血の滴が、ぽたりと地面に落ちる。
「――再生しない……傷が…………」
少女はその流れる血を見て――声を震わせた。
目尻には、滴が溜まっている。
「うう……やっと……やっとだよぉ……」
堪えきれないように――涙は流れた。
呻くような声と共に―――そんな声が聞こえてくる。
「………やっと……やっと戻れたよぉ……」
肌に傷がつき、血が流れる。
それは、普通の事だ。
傷が瞬時に再生するなんて、普通の人間ではあり得ない。
でも、彼女にとっての普通は違った。
傷が付けば瞬時に血は止まった。
肉は再生された。
骨が折れてもすぐに繋がった。
痛みだけが頭に残った。
俺達にとっての「普通」は、彼女にとっては何よりも憧れたものだ。何よりも求めたものだ。
だから、ようやく手にしたその「普通」に、彼女は涙を流したのだろう。
「師匠……」
「―――ぅぅ……戻った―――戻ったよぉ……」
不老不死でなくなった魔女は――ユリシーズの胸で泣き続けた。
ただひたすらに――行き場のない感情を吐き出しながら――。
● ● ● ●
「……また、みっともないところを見せてしまったわね」
数時間後――小屋のリビングで待っていた俺達の元へ、ウルは現れた。
「いや……」
みっともないとは思わない。
彼女の身の上――この長い間ため込んでいた物の大きさを考えれば、泣きじゃくるくらい大したことじゃないだろう。
「身体の方は?」
「今は……何ともないわ。とりあえず――傷は再生しないし『不死』ではなくなった。付与した白魔鋼の跡も調べてみたら、キチンと作用した形跡が見られたし……とりあえずは成功だと思う。『不老』の方はもう少し時間が経たないとわからないけど、多分大丈夫」
「……そっか」
俺に説明してくれたウルの表情は、疲れてはいたがどこか前を向いているように見えた。
最初に会った時とは大違いだ。
「それで、言った通り……このオーブはもう中身もないただの透明なガラス玉になってしまったけど」
そして、ウルは申し訳なさそうに透明なビー玉を取り出した。
どうやらこれが『ニルヴァーナの滴』だった物、らしい。
禍々しかった色が抜けて、やけに綺麗なビー玉になっている。
「へえ……確かにもう何も入っていなさそうだな」
「うん、だから―――その……」
「ああ、いいよ。元々そのつもりだったから」
申し訳そうにするウルに、俺は苦笑してそう言った。
確かに価値のあるオーブだったかもしれないが、これは「災厄の力」である。
俺としては、むしろ消してくれてありがとうと言ったところだ。
「……ありがとう。この恩はいつか返すから」
「だからいいって。ほら、困ったときはお互い様だろ?」
隣を見ると、ヒナと目が合う。
ヒナは少し恥ずかしそうに目を逸らした。
―――困ったときはお互い様。
彼女が俺を助けてくれるたびに決まって言うセリフだ。
「―――そう」
すると、ウルは少し吹っ切れたように微笑んだ。
まだ会うのは数回目だが――やけに表情が豊かになったと……そう思った。
人として―――。
永遠の命がどれだけ孤独で寂しい物かを俺に教えてくれた少女の人生は、ようやく始まったと言ってもいいだろう。
勿論、この先も――困難はあるかもしれない。
結果として、200年も歳月を重ねてしまった今――再び14歳の少女として生きることは難しいところもあるだろう。
でも、きっと彼女なら大丈夫だと――そう思った。
「さて、じゃあ……俺たちはもう行くよ。もう暫くは先になるけど――必ずまた来るから」
そう言いながら、俺は立ち上がった。
元々今日は、王国を発つという挨拶だけをしに来たつもりだったのだ。
ウルを待っている間に、ヒナもユリシーズに挨拶はしていた。
思いのほか長く滞在してしまったし、皆も心配しているだろう。
次に王国を訪れるのがいつになるのかは分からないが――少なくとも何年かは後だろう。
ひょっとすると成長したウルの姿を見る事ができるかもしれないな。
そんなことを思いながら、帰路につこうと、扉を開けようとしたのだが―――。
「―――待って」
「―――!」
少し――低い声で、ウルが言った。
まだ何か用があったのかと振り返ると――声色通り、ウルは険しい表情をしていた。
先ほどまでとは全然違う。
「……どうした?」
「扉が反応した……。誰か来たみたい」
「―――!」
『扉』というのは、この深淵の谷のウルの住処まで通じる地下通路への『扉』という事だろう。
確かに別段、鍵などはついていなかったが―――。
「……知り合い?」
「そこまでは分からないわ。敵意がある人はよっぽど来ないけど」
そう言いながらも、ウルは表情を緩めない。
「……こっちに来るみたい。とりあえず……出迎えてみましょうか」
そう言ってウルは俺に先んじて外に出た。
「ちょっと師匠!」
ユリシーズも続いたので、俺とヒナも顔を見合わせ、外に出た。
俺に、ヒナ。
ユリシーズにウル。
このメンツがいてそうそう怖い物などはないが……。
このひらけた――楽園とも思える地下の自然空間に通じる……地下通路。
外に出ると――確かにそこから、何やら人影が近づいてくることが分かった。
パッと見は、背の高い細身の青年だ。
でも、そのシルエットはどこかで見た事のある―――背中に3本の剣。
「……あれは―――」
「―――ダルくん!?」
俺が思い出すよりも早く、隣のユリシーズが慌てた声で青年の方へ駆け寄っていった。
そうだ……。
いや、名前を知っているわけではないが、あの青年は見たことがある。
アウローラの内戦……ゾラとユリシーズと戦った際、最初にいた緑髪の青年だ。
隣のヒナは怪訝な顔をしている。知り合いではないようだ。
「……ダルくん、どうしたんですか!? ボロボロじゃないですか!」
「―――ユリシーズ……殿。良かった……何とかたどり着けた……」
『ダルくん』と呼ばれた青年は―――ユリシーズが駆け寄るなり、うなだれたようにその場に倒れ込む。
確かに目に見えて大きな傷はないが―――身体のあちこちに小さな傷や、装備の損傷が見える。
ここに来るまでかなり消耗している様だ。
「……ダルくん、大丈夫ですか!? お爺はどうしたんです!?」
「……師匠―――師匠は……」
青年は――お爺……つまりゾラの事を聞かれるなり――ユリシーズから視線を逸らす。
「――ユリシーズ殿、すみません……すみません……。私が――私が弱いばかりに……師匠は……」
唇を噛むように――青年は声を震わせる。
「お爺が……? お爺に何があったんですか!?」
「―――まさかヤヌスがあんなことになっているなんて思わなかった……。私が悪いんです……」
青年は、涙を流していた。
大地に這いつくばって、悔しそうに。
「……」
師匠―――というのは、ゾラの事か?
この口ぶりだと、ゾラに何かがあったように聞こえる。
あの化け物みたいな爺さんが寿命以外で死ぬとは思えないが……。
それに、ヤヌスと言ったか?
ユピテルの首都でいったい何が……。
「ダルくん、どういう事ですか? ちゃんと説明して下さい!」
ユリシーズが青年の肩を掴み、その目を見据える。
すると、青年は少し落ち着いたように、目を開けた。
「―――はい……。最初から――順を追ってお話しします」
青年はゆっくりと口を開き、語り始めた。
「全ては―――あの日、そのことを知った時から始まりました」
「……そのこと?」
震えるような、恐ろしい事を語るような口調で、青年は口を開く。
そして―――その第一声から、俺は自分の耳を疑うことになった。
「……ユピテル共和国執政官……ラーゼン・ファリド・プロスペクターの―――死です」
「―――!」
それは――その場の全員が声を失くすような――報せだった。
――ラーゼンの死。
これを知ったとき、俺はある予感を感じた。
……『最後の戦い』。
それがもうすぐそこに迫っている予感。
もしくは――それがもう既に始まっている予感を―――。




