第201話:教父の意思
――選択を間違えた。
冷たい大地を必死に駆け抜けながら、俺は思った。
エトナがいなくて、皆が囚われて――きっと俺はかつてないほど焦っていた。
ウルから聞いた話のせいで、頭がパンク気味だったということもある。
だが、今この冷たい雪景色の中で冷静になると、多分自分でも気づかないくらいに―――俺は感情的に行動していたと思う。
王国に来てから、俺はいくつも選択を間違えた。
どうして、白騎士モーリスの言葉をこれほど簡単に信じた?
どうして、ヒナを『深淵の谷』まで連れてきた?
白騎士モーリスが、『神聖教』だと分かった時点で、俺はそう後悔した。
迷った末の決断が――全て裏目に出ているのだ。
ここまで来ると、女王と協力関係を結んだのも、間違いだったのかもしれない。
一度ユピテルに戻ってラーゼンに指示を仰いだ方が良かったのかもしれない。
それどころか―――そもそも王国に来たこと自体が間違いであるような、そんな気もする。
何者かの掌の上で踊らされているような…嫌な感覚がずっとしているのだ。
今現在も―――ヒナを王都に帰し―――俺1人単身で《龍眼の湖》に向かっている事が、正しいのかどうか、正直わからない。
俺は自身の判断に、甚だ自信が持てずにいる。
もしかしたらヒナを連れてきて、2人でエトナを救出した方が良かったかもしれない。
灰色の少女が現れたのも、王都に白騎士モーリスがいたというのも、彼が俺にアドバイスをしたのも、ただの偶然なのかもしれない。
王都では俺が心配するような事は起こっていないのかもしれない。
でも―――何かが…。
かつて戦場で感じたような嫌な予感が、どうしても俺を襲う。
俺の行く先に何があるのか、そして、王都に残してきた皆がどうなっているのか――。
「―――!」
そこまで考えたとき―――俺の視界に―――巨大な漆黒の《塔》が飛び込んできた。
そして林を抜け、開けた視界―――眼前に広がるのは――。
「…湖」
それは―――湖だった。
いや、湖どころか――まるで海と言われても信用するほど広大な、水面。
これが―――《龍眼の湖》だろう。
ウル曰く、世界で最も広い湖だ。
琵琶湖などきっと話にならない大きさがある。
「…」
そしてその中心にそびえたつ塔までは――一本道が続いている。
人工の一本道だ。
「――行くか」
どこともなくそう呟き、俺は歩を進めた。
● ● ● ●
『――あぁ、私の子供達よ…誉れ高き神徒らよ…どうかこの憎き王国に―――世界に―――神の鉄槌を…』
それが父の最期の言葉だった。
神父ティエレンが育てた4人の子供―――。
ザンジバル達4人は、血の繋がった兄弟ではない。
あるいは、戦争で全てを失くした戦災孤児だったり。
あるいは、田舎で流行った疫病により、家族を失くしてしまった者だったり。
あるいは、両親が賭博に明け暮れた末、捨てられ、身よりを失くした者だったり。
あるいは、貴族の跡目争いに巻き込まれ、幼きうちから家を追放された者だったり。
とにかく、行き場を失くした彼らは、不思議に出会い――汚らしいスラムで身を寄せ合って暮らしていた。
お互いがお互いの過去を聞くことはない。
ただ、誰もが同じ境遇――悲惨な出来事のせいでこうなってしまったということだけは、同じだった。
幼い彼らに、真っ当な仕事はない。
時には泥を啜り、時には雑草を腹の足しにした。
だが、そんな物で生きていけるわけもない。
生きていくために――彼らは盗みを働くしかなかった。
もちろん成功することもあれば、失敗することもある。
失敗したときは、捕まり、何度も鞭打ちにされた。
だが、死ぬことはなかった。
誰かが捕まるたびに、他の3人が助けに来てくれたのだ。
リーダーとして皆を引っ張るザンジバル。
頭が良くて計算高いネルソン。
誰より仲間想いのプトレマイオス。
バカだが腕っぷしの強いモーリス。
4人には不思議な絆があった。
そんな4人がその日の盗みの対象に選んだのは、郊外にある一軒家だった。
ネルソンのリサーチにより、その家には男が1人で住んでいるだけらしい。
深夜、特に綿密な計画も練らず――彼らは家屋に浸入した。
しかし――。
『やはり―――来たのですか』
盗みを半ば働いたところで―――男が起きてきたのだ。
――不味い!
すぐさま指示を飛ばそうとしたザンジバルだったが――。
『――ああ、《神》の言った通り…なんと憐れな…』
痩躯の男は、4人を叱らなかった。
それどころか―――自身の息子として、引き取った。
綺麗な服に、新鮮な食べ物。
初めての事の連続に――最初は4人ともここが現実かどうか区別はつかなかっただろう。
その男―――ティエレンとも、暫くは気まずく過ごしたことを覚えている。
『…どうして、僕たちを助けてくれたんですか?』
『神が――そうしろと。救いを求める者に――神は平等に機会を与えますから』
尋ねると、ティエレンはそう言った。
ティエレンは不思議な人物だった。
曰く――彼には『神』の声が聞こえるらしい。
この世の中のあらゆる事象は神の恩寵であり、神の試練である、と。
『貴方たちがこれまで不幸な目に遭ってきたのは―――神意を上手く汲み取れなかったから。でも――もう大丈夫です。神を称え、崇め、求めれば―――自然と貴方たちも恩寵を受けるようになるでしょう』
ザンジバル達が助かったのは―――『神』のおかげ。
言い聞かせるように、彼らは育てられた。
成長するにつれて、王国の悪行を、ティエレンは語った。
信仰が、恩寵が―――多くの同胞が、多くの罪なき神徒が、王国の非情な政策によって滅ぼされた、と。
それゆえ、世界中の人類が、神の存在に目覚められないのだと。
そう言っているときの父の悔しそうな表情は――今でもよく覚えている。
『貴方たちも――時が来るまで、王国に信仰を悟られてはいけません』
『時とは…?』
『―――災いと混乱、王族の血―――そして《聖地》の力の解放。この全てが揃うとき――この王国中が…いえ、全世界は―――神の存在に目覚めるでしょう』
晩年、ティエレンはそれが《神の声》だと言った。
当初は聞き流していたザンジバルだったが―――父の死後、もっとよく聞いておけばよかったと何度後悔したかはわからない。
正直、父が死ぬまで…王国をどうこうしようなんて気はなかった。
王国は酷いことをした。
それは分かってはいたが―――たった4人で王国に対して何かをしようなど、無理難題である。
それに、これまでのザンジバル達は充分幸せで、幼少期の地獄を考えれば、それ以上の事を望むなんて、バカらしいと思った。
でも…
『あぁ…父上はさぞかし無念だったのであろうな…』
呟くように言ったモーリスの一言で…ザンジバルの心は揺れ動いた。
命を助けられた。
たくさんの幸福を感じた。
父は、それを《神》の恩寵だといった。
でも、思う。
ザンジバルは神にも―――《父》にも、何一つ返してはいない。
安らかとはいいがたい顔で眠る父。
王国の悪行を語った――悔しそうな顔で語る父。
その顔を見ていると―――どうしても歯がゆくなる。
『―――やるぞ、我々の手で』
『…ザンジバル?』
『この王国に…世界に――俺達が……父上の無念を晴らすのだ』
4人集まったその日、ザンジバルは決意した。
――ようやく…ようやくだ。
長い螺旋の階段を歩きながら、ザンジバルは思った。
今日という日を迎えるまで、幾年の月日を重ねたことだろう。
――ああ、父よ。ようやく貴方の悲願が叶う―――。
かつて―――王国によって、一度、神の意思は挫かれた。
神徒は殺され、御心は汚され、それにもかかわらずこの王国は今も続いている。
死する間際―――いや、死した後のあの死に顔。
あの無念な―――悔しそうな顔を、ザンジバルは片時も忘れたことはない。
父の無念は――何があっても晴らさなければならない。
神意を無碍にして、なおのうのうと続いている王国――いや、この世界を、野放しにしていいはずがない。
ここまでくるのには、随分と苦労した。
『神罰』の条件は、父の残した『神の言葉』だといういくつかのキーワードだけに過ぎない。
『聖地』。
『災いと混乱』。
『王族の血』。
たった四人でこれら―――ただの言葉のみを頼りに進めてきた彼らの執念もまた、並々ならぬ物であったことは間違いない。
長い時間、王国中の様々な資料を巡り、考古学者を訪ね、『聖地』には確実に『力』が眠っていることは分かった。
あとはその聖地がどこにあるか、そして、どのように王国を災いと混乱に陥れ、王族の血を手に入れるか。
相手は国家。
普通に挑んで勝てるものではない。
王位継承戦の隙をついた。
商会を立ち上げ、時間をかけて勢力を拡大していった。
軍部に潜り込み、軍属派を立ち上げた。
長い時間をかけて聖地を見つけ、開拓した。
国王にバレないよう、正面からではなく――裏から神徒を増やしていった。
そして、今代―――ようやく全ての準備が整った。
烈空は王都の外。神徒の数は充分。
王国に混乱をもたらし、王族の身柄もいつでも確保できる。
唯一警戒すべき『聖錬剣覇』も――こちらに「八傑」が2人もいる以上、どうとでもなるだろう。
何より、既に1人の剣士が対処できる次元の話ではないのだ。
この聖地でも、準備は整った。
ついに『神聖文字』を読めるという《読み手》を手中に収めた以上、いつでも《棺》は開けられる。
気づくと、ザンジバルは頂上に上がっていた。
夜空の星々が神の祝福を受けたかのように煌めくのが良く見える。
殺風景に見える頂上には、その中心にでかでかと建てられた石碑と―――黒い『棺』が置かれている。
「―――これで終わり…いや、始まりだ…」
司教ザンジバルはほくそ笑んだ。




