第184話:回帰する記憶
そう、それは――200年も前の話。
とある少女の、遠い日の記憶――。
ウルファス・ザーレボルドの幼少期は、普通の家庭と変わらない―――幸せなものだった。
「お父さん、見て! この間のテストが帰ってきたの!」
「お、いい点数じゃないか、頑張ったな」
そう言ってウルの頭を撫でる父――ルシウスは、学校の教師をしている。
大魔法時代と呼ばれたこの時代、誰もが熱心に魔法の研究をする中で、若いながらも闇属性の権威と呼ばれるまで上り詰めた凄い人だ。
今現在の研究が完成すれば、校長への昇進もあるのではないかといわれている―――ウルにとっては自慢の父親である。
そんな父に褒めて欲しくて、勉強を頑張っていたことは今でも覚えている。
「あらあら、貴方に似てよかったわね。私に似たらきっと落ちこぼれてしまうから」
「はは、血など関係ないさ。いい成績を取れているのは、ウルの努力の結果だよ」
「ふふ、じゃあウルはとっても頑張ったのね。偉いわ」
「えへへ、お父さん、お母さん、ありがとう!」
優秀ながらも、温厚な父に、そんな父を支える優しい母。
ザーレボルド家は、笑顔の絶えない―――まさに理想の家庭だった。
そう、その日までは。
「――やった―――完成したぞ……!」
その日の深夜、地下の研究室からそんな声が漏れてきたことを、ウルはおぼろげながら覚えている。
普段深夜は寝ているウルと妻に考慮して、滅多に声など出さないルシウスだったが、この日ばかりは歓喜の声を出さずにはいられなかったらしい。
きっと研究が成功したんだ――。
ウルはそう思った。
詳しい事は当時のウルには分からなかったが、この研究が完成すれば、校長へと推薦が貰え、昇格が殆ど内定している。
父の努力を知っていたゆえに、嬉しい気持ちになったことも覚えている。
だが―――、
「―――ん? なんだ?」
先ほどまで歓喜の声色だった父の声が、急に何か戸惑うような声になったのだ。
そして―――。
「―――ッ!? ―――ぐああぁぁあぁああぁあぁああ‼」
―――悲鳴。
まるで全身が苦痛に当てられたかのような、大きな叫び声が聞こえてきた。
――お父さん!?
いったい何があったのかはわからないが、ただ事ではないと感じた。
すぐさまウルは飛び起きた。
いてもたってもいられず、走って父の研究室のドアを勢いよく開けた。
「―――お父さん!」
だが、そんなウルの緊張感ある叫びとは裏腹に―――父は無事だった。
「……」
少し書物の散乱したいつもの部屋で、父――ルシウスは椅子に腰かけていた。
多少――ぐったりしていただろうか。
でも目も開いているし、見た目上、何かあったようにも思えない。
「―――そうか……やはりこうなったか……」
ただ、父は―――どこか遠いところを見つめながら、そんな事を呟いていた。
まるで、昨日までとはまるで違った雰囲気にも見える。
「―――お父さん、大丈夫?」
「―――!」
声をかけると、ルシウスは、はっと気が付いたようにウルの方を向く。
まるで存在に気が付かなかったような、そんな感じだ。
「――お父さん、その……研究で、なにかあったの? すごい大きな声が聞こえたけれど」
「…あぁ」
少し緊張しながらも尋ねると、ルシウスは気だるげに答えた。
「―――研究か。そうか―――確かに、それも……しなければならないな」
「―――お父さん?」
「……いや、何でもないさ。起こして済まない。大丈夫だから……部屋に戻りなさい」
不穏に思うウルに対して、ルシウスは優し気な声色でそう言った。
「……そっか」
いつもと変わらない父の声。
そのはずなのに――何か違和感を感じながら、ウルは部屋に戻った。
今思えば、彼が変わったのはこの時からだった。
父ルシウスはそれからも毎日研究に没頭し続けた。
あの日に完成したのではないかと思っていたが……どうやら違うらしい。
さらに――以前とはその、研究へののめり込み具合もまるで違った。
昔は、もっと余裕を持っていた気がする。
熱心に研究はしていたけど、ちゃんと食事はとっていたし、たまには休んで家族との時間を大切にしていた。
だが、今の父は、そんな部分がまるで消えていた。
「――ダメだ……やはりこのままでは―――勝てない――」
研究室を覗くと、そんな歯噛みするような声と、書きなぐられたような大量の書物の束が、部屋中に散乱していた。
「―――あの……お父さん、ご飯できたって……」
「―――あぁ、悪い。今は集中しているから……後にしてくれ」
声をかけても……殆どそう返された。
扉の前のウルのことなど見向きもしなかった。
「―――きっと、校長になるために―――研究を頑張っているのよ」
母は不振がりつつも、そう言って応援していた。
ウルも、きっとそうだと、自分に言い聞かせていた。
あの、かつての家族を大事にする父の姿を一生懸命思い出して、研究の結果が出ればまた戻れると――そう信じた。
でも―――。
「―――ちょっと! どういうこと!? 教師の仕事をやめたって!?」
ある日の夜、母の怒鳴り声が聞こえた。
優しい母が、大きな声を上げているところを初めて見た気がする。
「―――仕事をしている場合ではなくなった。今のままでは時間が足りなくなったんだ……」
「話が違うじゃない! 校長への推薦の為に―――研究をしているって、そう言っていたじゃない!」
「―――だから……もう校長どころの話ではなくなったんだ。わかってくれ。大丈夫、金なら―――」
「お金の問題じゃない!」
毎日のように―――深夜はそんな怒鳴り声が聞こえた。
どうやら父は、校長への昇格のための研究をしているわけではなかったらしい。
研究のための時間が惜しいと―――教師の仕事もやめて、一日中研究室から出てこなくなったのだ。
ただ、何故かお金はあった。
父は碌に仕事もしていないのに、ウルたちの生活は困らなかった。
でも、だからこそ、父と母の確執は深まった。
「―――貴方がいつまでもそんなことなら―――ウルを連れて出ていきますから!」
「―――ウルは駄目だ」
「――何よ、私だけならいいって、そういうこと!?」
「いや、そういうわけでは……」
時が経つにつれて、父と母の言い争いは激しくなっていった。
ここ暫くの父は秘密主義だった。
結局そのお金の出どころも言わないし―――基本的に地下に籠り切り。
何の研究をしているかも口にすることはない。
そして何より、家族との時間をないがしろにするような父の姿勢に―――母は耐えられなくなったのだろう。
それから、おおよそ2年が経ったとき―――。
「―――お母さんは?」
「……出ていったよ。行先すら―――告げなかった」
母の姿は家から消えていた。
「―――すまない。一応努力はしてみたが……こういうことは、なかなか上手くいかないものだな」
母に見捨てられた父は、どこか悔いるような顔でそう呟いた。
でも―――家族を無為にしてでも、父がその魔法によって何かを成そうとしていることはわかった。
きっとそのためならば――この人は止まらない。
何を犠牲にしようと、それを断行するような、信念を感じた。
そして、何となく―――もう既にウルの知っている父親――ルシウスは、どこかへ消えてしまったんだと、そう思った。
別に――あからさまに家族を蔑ろにしているわけではない。
それこそ、生活に困ることはなかったし、彼なりに家庭と両立しようとは考えていたのだろう。
この時の彼からはそんな言葉の数々が垣間見えた。
だが、やはり、何となく―――以前の父とはまるで別物―――違う人に見えた。
同じ顔だし、同じ声だけど―――雰囲気というか、細かい仕草が、どうも記憶と違う気がするのだ。
母が出ていったのも、そんなことを敏感に感じ取ったからかもしれない。
それからも数年、彼は地下に独り籠り続けた。
―――家族どころではない。まるで自身の命を削るかのように……。
そして、ウルが14歳になったころだ。
珍しくウルは―――ルシウスの研究室に呼ばれた。
「―――!」
入った途端、驚いた。
地下の研究室が―――いつになく綺麗に片付いていたのだ。
あれほどあった大量の書類や本の塊が、全てなくなっている。
それどころか机や椅子すらもないように見えた。
「―――お父さん、部屋――どうしたの?」
「―――全て処分したよ。アレを残しておくのは危険すぎる」
父は答えながらも、どこか悩ましい顔をしていた。
「でも―――研究は? もういいの?」
「それならば問題はない。全て頭に入っているからな」
「―――じゃあ……」
「ああ、必要な魔法は全て完成した」
「―――!」
その時は正直驚いた。
父が死に物狂いで何かの研究をしていたことを、ウルは知っている。
そのために出ていくことになった母のことを考えれば、おめでとうと素直に言う気にはならなかったものの―――だが、もしかすると、これで父のこの生活も終わりなんじゃないかと、そんな微かな希望も湧いた。
これでお父さんも元に戻って……お母さんも戻ってくるかもしれない―――。
そんな淡い――あるはずもない期待を抱いたのは、古い記憶―――まだ家族を大事にしていた父の姿を覚えていたからだろう。
《魔法の研究》……それがルシウスを長らく縛っているようなものだと、ウルはそう思っていたのだ。
だが、当の本人―――父ルシウスは、その研究が終わったというのに、難しい顔をしていた。
「あの、お父さん―――」
そして、そう……ウルが声をかけようとしたとき―――。
「―――!?」
自分の周囲が―――魔力で覆われていることに気づいた。
可視化すらできる――濃密な魔力。
青白い魔力が、ウルを取り囲むように渦巻いている―――。
身動きを取ろうとしても、その瞬間にふわりと体の力が抜けていく。
逃れられない。
―――いったい何が…!?
そんな思考すらも億劫になっていくことが分かった。
徐々に、全ての意識が消えていくような、そんな感覚だ。
「―――すまない、ウル」
そして消え入りそうな意識の中――そういう父の―――低い声だけが、頭に響いた。
「―――ッ!」
目が覚めたときは、激痛が全身に走っていた。
やけに熱くて―――体の内側が、焼け焦げるようだ。
「―――いったい……何を……」
焼けるような視界の中で、この場所が記憶と変わらない地下の研究室だということは分かった。
もがくように立ち上がると―――すぐに視界の端に映る物があった。
「―――お父さん……」
「―――目覚めたか……」
それは父だった。
だが、父は―――やけに衰弱していた。
眼はかろうじて開いているものの、もはやこれ以上は立っていられないとばかりに、壁にもたれかかり、横たわっている。
こう見ると―――昔と比べてすっかりやせ細っていることがよくわかった。
「―――どうやら……両方とも……成功したようだ……」
父は消え入りそうな声でそう言った。
「……すまない。お前には―――大きな業を背負わせてしまうことになる。だが、俺自身にかけるわけには行かなかった。俺は―――向こうへ呼びに行かなければならない……」
「―――お父さん……」
この弱った父が人生を懸けて完成させた魔法―――いったいそれがどんなものなのか、そしてウルに何をしたのか―――彼女には想像すらできない。
だが――父がその魔法を発動させることに、自身の全ての力を使ってしまったということはなんとなくわかった。
「奴らに勝つには―――あの少年を頼るしかない。俺だけでも……お前だけでも無理なんだ」
父は既に目を閉じていた。
掠れるような、最後の力を振り絞ったような声だ。
「だが……大丈夫だ……魔道を進めば―――いつか……お前の前に、あの少年が現れる。そうすれば―――きっと全ては変わる」
「……お父さん、いったい――何を言って……」
「―――ふ……父親とは―――難しいな……魔法の極致に至るよりも……よほど困難な課題だ……」
父の息が途切れる。
もう―――これで最後だと、わかった。
「……駄目な父親で……済まなかったな……だが、お前の父親は……最後まで―――」
そして―――こと切れるように、父の身体からフッと力が抜けた。
「――お父さん……」
父―――ルシウス・ザーレボルドが、再び動き出すことはなかった。




