第181話:谷の底の魔法使い
生前、俺はジェットコースターとか―――いわゆる絶叫マシンに乗った記憶が殆どない。
そもそも遊園地に行ったのも、小学校だか中学校だかの修学旅行で、某ランドに行った記憶くらいだ。
確かにその時はいくつかのアトラクションにも乗ったが、少なくとも「絶叫」というような過激なアトラクションではなかった。
だが、何となく―――今の俺の状況は、そんな絶叫マシンに乗った人間の感覚と似ているのではないかと思う。
多分、フリーフォール系の絶叫マシンは、こんな感じだ。
こちらも体験はないが、バンジージャンプとかも、似たようなものだろう。
とてつもなく高いところから、一気に下に落下し、感じるのは風を切るほどのスピードと浮遊感。
再現度は高いと思う。
違うのは、空から地面に向かって落ちるのではなく、地面から谷底へ向かって落ちるため景色を楽しめない点と―――あとは、このアトラクションにはベルトも安全装置も何もなく、魔法が使えない人間にはお勧めできないといったところか。
そんなアトラクション―――もとい《深淵の谷》―――は、その名の通り深淵まで広がる谷だった。
谷に飛び込んだ後の自由落下が一瞬ではなく、とても長い時間に感じるのがその証拠だ。
こんなことなら秒数でも数えておけば、深度が測れたかもしれない。
さて、俺がそんな前世で言う絶叫マシンに乗りながらも、なぜこれほど冷静かというと…単に慣れているからだ。
確か俺が最初に落下したのは、3年ほど前―――崩れたカルス大橋からエメルド川に落ちたとき。
あれ以来、《飛行魔法》を常用している俺は、高いところなんて慣れっこだし、着地するときにはいくらでも落下した。
なので、この浮遊感もスピード感も、俺にとってはもはや身近なものなのだ。
底の見えないような谷に飛び込む決断をすぐに出来たのも、そう言った理由からだ。
だが、絶叫マシンどころか遊園地すらないこの世界、普通の人間は、この「落下」という現象には恐怖感を覚えるものだろう。
「――ヒナ、大丈夫か‼」
「―――も、問題ないわ‼」
俺の左手を力強く握りしめる赤毛の少女―――ヒナは、叫ぶように返事をした。
やはりというか、案の定というか、彼女は凄いと思う。
こんな恐怖現象の中、若干顔は青ざめているが、しっかりと目は開けて、いつ底が見えてもいいように腕を構えている。
……パンツは丸見えだが黙っておいた方が言いだろう。
正直、この谷底への移動に関しては、別に最初から底まで彼女を抱えてゆっくり《飛行》で降りても良かった。
それでもヒナが、飛び降りる決断を瞬時にしたのは、速度的にも魔力効率的にも、落下した方が、はるかにコスパがいいとわかっているからだろう。
底がどうなっているかわからない以上、魔法使いにとっての生命線である魔力は、なるべく温存した方がいい。
もちろん、いざとなればヒナを抱える準備はできていたが―――この分だと必要なさそうだ。
「―――アルトリウス!」
「―――!? お、底か」
そんなことを考えているうちに―――谷の底が薄っすらと見えた。
光量はかなり少ないが、ギリギリ視認できる。
底なしの谷ではないようで安心した。
「―――助けは?」
「大丈夫よ!」
そんなやり取りを短く交わす。
そして――――。
―――フワリ。
そんな効果音が良く似合う動作で、俺とヒナは底の上に浮き上がる。
風圧が舞い、若干息が詰まりそうになるも、トン、と優雅に俺とヒナは着地した。
俺はいつもの《飛行魔法》を使っただけだが、ヒナもどうやら似たように《浮遊》したようだ。
「―――着いたわね」
「―――ああ」
ぼんやりと暗い視界の中―――とりあえず無事に、底には着いた。
最低限の魔力で切り抜けられたのは、御の字だが、
「―――気は抜くなよ」
「わかっているわ」
そう、底には着いたが―――むしろ、問題はここから。
『闇狗』がいるのかいないのか。
そして、もしいるならば、どういった相手なのか―――。
俺たちは注意深く周りの気配を探る。
地面の感触は、想像よりも柔らかい―――少し湿っているような気がする。
少し遠くで水が流れるような音がするし――もしかしたら川か池があったりするのかもしれない。
「―――とりあえず、近くにひとけはないな」
「ええ、明かりをつけましょう」
気配がないことを確認し、《照明魔法》を使う。
真っ暗な視界は、一気に明るく照らされた。
すぐそばのヒナの姿が鮮明に映る。
若干髪が乱れている以外はいつも通りだ。
「―――意外と、広いのね」
「ああ、底というよりは―――地下空間だな」
照らされた世界は、広々とした空間だった。
谷の上の方から、末広がりになっているような、空間。
トンネルのような横穴もいくつかありそうで―――全て回るにはなかなか時間がかかりそうだ。
上を見ると、空は遥か遠く――辛うじて視認できる程度にしか見えない。
「―――とりあえず、しらみつぶしに探そう」
「そうね」
険しい顔をしながら、俺達は歩き始めた。
● ● ● ●
多分、3時間ほど経ったが、特にこれと言った物はない。
視界は基本的に岩と、土のみ。
横穴も入ったが、多くが自然にできたであろうもので、入り組んでいるくせに行き止まりも多く、そのせいで探索に時間もかかっている。
正直、1人だったら既に迷っている自信がある。
あとは、上から落ちてきてしまったであろう動物の死骸も見かけた。
たまに人の骨も埋まっていたのは少しホラーだった。
「―――どうする? 一回戻るか?」
更に2時間ほど歩いたところで、一度戻るか話し合った。
まさか1日で回り切れないほど谷底が広いなんて思っていなかったのだ。
食料の問題もあるし、あまり消耗した状態で地下に居続けるのも良くはない。
幸い、底から谷の上までは、ヒナを抱えて《飛行》をしても、魔力は持つ距離だった。
あくまで、俺の体感だが―――おそらく足りるだろう。
しかし、このまま探索を続けて魔力を消耗してしまうと、《飛行》で簡単に戻ることができなくなる。
谷底に降りれることは分かったので、一度戻って、魔力が回復してからまた降りるという選択肢もなくはない。
だが、
「もう少しだけ、探しましょう」
ヒナが言った。
「闇雲に探しても意味がないし―――この水流の音を頼りに進んでみるのがいいと思うわ」
確かに―――どこからか水の流れている音は聞こえていた。
「人がいるとしたら、水場の近くだと思わない? 川か池かは分からないけど―――その水場まで行って、何もなければ戻りましょう」
「……了解」
ということで、ヒナの判断で、音を頼りに水場を目指す事になった。
なんだかヒナがリーダーみたいになっているが、実際彼女の方がリーダー気質だと思う。
再び、1時間ほど歩いた。
「―――また、横穴ね」
「ああ、だが―――水の音はこの先に聞こえる」
谷底からは逸れた横穴から音が聞こえてくるというところまで来た。
「――行こう」
「……ええ」
引き返すならこのタイミングだったが―――最悪、水場まで行けるなら、一夜地下で過ごしても問題はないという判断だ。
食料は多少ならば携帯しているし、肉体的には大丈夫だ。
その横穴は意外に長く――――何度か分かれ道もあったが、しらみつぶしに進んでいく。
そして、また1時間ほど経った頃―――。
「――――!」
細長い空間にぶち当たった。
地中の中を繰り抜いて作ったような、そこそこ広く、細長い空間。
そしてそこには―――。
「―――川……いえ、これは一応――水路なのかしら」
驚嘆の声を上げたヒナの言うように、俺達の目の前を、幅1メートル程度の川――いや、水路が流れていた。
明らかに人の手で作られたものだ。
俺たちはその水道に、横からぶち当たったことになる。
「それに―――見て。《照明》の魔道具がいくつも置かれているわ」
「―――当たりか」
水路の周りには、簡易的だが、一定の間隔で照明の魔道具が置かれていた。
照明の魔法を消しても、周囲は明るいままだ。
「じゃあ、この水路の上流に行けば―――」
「ああ、少なくとも、何かはある」
ゴクリと唾を呑む。
緊張した面持ちで俺達は、その水路の脇を進んだ。
丁度、人が通れる幅がある。
そして―――10分も進んでいない頃だろうか。
不意に、視界に映る物があった。
その水路の先から―――手の平サイズの黒い物体が流れてきたのだ。
「―――なんだ?」
俺は水の中に手をいれ、その物体を手に取った。
「―――黒い―――布地?」
それは、パッと見た感じは、ただの濡れた黒い布地だった。
だが―――。
「――――‼」
広げてみて―――俺は思わず息を呑んだ。
確かに、黒い布地だ。
そう、布地であることは変わらない。
だが、ただの布地ではなかった。
逆三角の形状に、ところどころに入ったレース。
そして何より、二股に分かれた―――まるで足を通すために存在するような穴。
――――パンツじゃん。
しかも女性用の。
中々に際どい奴。
「―――――」
あまりのことに、身体が硬直した。
そして、なんとか瞬時に思考を加速させる。
まさか――ヒナのではあるまい。
ヒナはここまでアダルティな奴は持っていないし、確かこの旅では白しか持ってきていない。
さっき見たのも白だったし―――。
いや、そんなことはどうでもいい。
なんだ? どうしてこんなところにパンツが―――。
「―――アルトリウス、どうしたの? そんなにヤバいものだったの?」
そうこうしているうちに、後ろからヒナが俺の手元を覗き込んできた。
「―――あ、いや、これは……」
「―――――へ?」
言い訳する時間もなく、ヒナもどこか思考が停止したように固まってしまった。
そして、
「―――ちょ、ちょっと何よこれ! なんでこんなところにこれが流れてくるのよ!」
慌てて顔を真っ赤にして捲し立てる。
「知らないよ……俺も驚いたんだ」
「貴方もいつまで手に持ってるのよ、寄越しなさい!」
そう言いながら、ヒナは俺の手元から黒のショーツをもぎ取った。
別に持っていたいわけでもなく―――あまりのことに身体が硬直していただけだ。
誰のかわからないパンツなんて特に興味はない。
まぁ、ヒナからしたら、俺が他の女性の下着なんて持っていたら気にはなるか。
「……しかし―――まさか、『闇狗』のだって言うんじゃないだろうな」
『闇狗』の性別は、今のところわからない。
だが、もしも女性だったとしても、ここにパンツなんて流すか?
しかもよりによって今日。
にわかには考えられない事だ。
「……」
返事がないのでヒナに視線をやると―――彼女は俺からもぎ取った黒のショーツをまじまじと眺めていた。
「―――おい、どうしたんだ?」
いささか見過ぎな気もする。
まさか彼女に変な性癖があるとは思えないし……俺は気づかなかったが、もしかすると特殊な何かが付与されているパンツなのかもしれない。
なので尋ねたのだが、
「―――多分、『闇狗』のじゃないわ」
少し低い声で、ヒナは答えた。
「―――どうして?」
別に、『闇狗』のかどうかはどうでもいいが、そう言い切れる根拠が分からなかった。
まぁ、女性にしかわからない何かがあるのかもしれないが。
「だって、これは多分――――」
―――そうヒナが言い切る直前だった。
「――――ッ!!」
――気配。
この水路の上流。
俺達が向かおうとしていた場所の方から―――何やら人の気配を感じた。
慌てて俺は魔力を練り、剣の柄に手を当てた。
だが―――。
「―――も~、どこまで行っちゃったんですかぁ」
聞こえてきたのは、そんな気の抜けるような呟きだった。
しかも、聞き覚えのある声だ。
―――まさか……いやあり得る事か?。
そんな俺の思考をよそに、その人物は現れた。
水路を甲斐甲斐しく眺めながらこちらに近づいてくる女だ。
一見隙だらけだが―――その女の事を知っていると、一概にそう断言はできない。
桃色の長い髪に―――妖艶な美貌を兼ね揃えた20代くらいに見える女性。
前に会った時は、威厳のあるローブ姿だったが、今日は、シャツにロングスカートというラフな格好。
だが―――彼女の強さに、格好など関係のないことだろう。
「―――も~、替えはあれしか持ってきてないのに……って―――!?」
そして、そんな声と共に、彼女は顔を上げた。
どうやら本当にこちらには気づいていなかったらしい。
俺とヒナを瞬時に目で追い、表情は驚きに包まれるも―――しかし、一瞬で引き締まる。
同時に発せられる―――圧倒的な魔力と存在感。
この切り替えの早さは、流石《八傑》と言ったところだろうか。
「――――坊やに、ヒナちゃんですか。お久しぶりですね」
世界最高の魔法士にして、《八傑》。
―――『摩天楼』ユリシーズ。
《深淵の谷》で俺達を待っていたのは、そんな魔女との再会だった。
深淵の谷の底は、マイクラの地下洞窟みたいなのを想像して貰えればわかりやすいかもしれません




