第174話:間話・少女が見た英雄
エトナの回想です
もう何年も前の話だ。
その数日間――1人の少女は、とても不安な気持ちで過ごしていた。
何の前触れもなかった。
普段と同じ、いつも通りの下校中―――急に見知らぬ人影に囲まれたと思ったら、いつのまにか視界が真っ白になったのだ。
一瞬見えたのは水色の髪の少年の姿だ。
そして―――気づいたら、見知らぬ部屋に閉じ込められていた。
その部屋は窓もなく、扉に鍵がかけられて、幼い少女にはどうしようもなかった。
魔法は詠唱しても、精々使えるのは初級も初級。
筋力でなにをできるわけでもない。
泣いても叫んでも返事はなく、唯一出入りするのは、白目を剥きながら食事を運んでくるメイドさんだけ。
話しかけても何も答えないし、隙をついて扉から出ようとするとものすごい力で取り押さえられた。
子供ながらに、この人は悪魔か何かに操られているんだ、と思った。
寂しかった。
不安だった。
お父さんに会いたかった。
お母さんのご飯が食べたかった。
運ばれてくる食事は喉を通らなくて、なんでこんな事をされるのかも分からなかった。
泣き疲れて、叫び疲れて、もう頭がおかしくなりそうだった。
何日もたって、心が折れそうなとき…何故か部屋の外に連れ出された。
逃げ出すチャンスだと思ったが、水色の髪の少年に睨まれると、体が硬直して、どうしても逃げられなかった。
「…ちっ、やっぱり君にも完全な『服従』は効かないか…」
その人は憎々しげに、そんな様な事を言っていた。
連れて行かれたのは、大広間の台座の様な場所だった。
どうやら大きなお屋敷の中だったらしい。
「ふん、来たか…」
豪華な椅子で待ち受けていたのは、紫色の髪の男の子。
何処かで見たような気もするけど―――少女の知らない人だった。
「大分弱っているようだな。ふん、ザマァない。僕をバカにするからだ」
「…そんなの――知らない。あなた、誰?」
「――っ! こいつ!」
「―――キャッ!」
正直に答えたのに、紫色の男の子が、胸ぐらを掴んできた。
物凄い怒りの形相で―――手からは魔法か何か飛んできそうだった。
相変わらず隣で水色の髪の少年が不気味に笑っていて、体は全然動かない。
――怖い。怖いよ…。
もうわけがわからなかった。
なんでずっと長い間監禁されて、それで知らない人に苛められるのか、わからなかった。
―――誰か…誰か…助けて…!
叫び声を上げながら、心の中で、必死に願った。
そして―――。
「―――エトナ!!」
彼は、来てくれた。
大きな声で名前を呼びながら、額に汗を浮かべながら―――誰よりも来て欲しい人が、誰よりも早く駆けつけてきてくれた。
そこからまもなく、何とも言えない安心感と共に、エトナの意識は落ちる。
目覚めた時は病院―――。
全て終わった後だった。
そしてその後、最愛の少年が、命懸けで助けてくれた事を知った。
エドモンという人にいつの間にか恨まれていたこととか、あまりよく知らない赤毛の少女が一緒になって助けてくれた事には驚いた。
でも、きっとその日からだ。
それまで希望的なものだった彼への信頼―――少女の感情が……単なる憧れや、好意なんか目じゃない絶対的なものに変わったのは。
世界で1番凄くて、世界で1番好きで、世界で1番頼りになる。
1人の少女にとっての、英雄。
どんな時でもピンチには必ず来てくれる、等身大のヒーロー。
それが、エトナにとってのアルトリウスという少年だ。
● ● ● ●
アルトリウスが戦争へ行ってしまった後も、それは変わらなかった。
最初は、一緒にいられないのが寂しかったし、戦争と聞いて悲しかった。
不安でもあった。
でも、きっと彼なら大丈夫だ、と、そう信じて、納得した。
少女の英雄は、こんなところで立ち止まったりしないのだ。
エトナも立ち止まってはいられなかった。
待っていたのは目まぐるしい新生活だ。
学校の卒業なんてあっという間で、すぐに元老院の受付の仕事が始まった。
覚えることも多く、忙しい受付の仕事は慣れるまで大変だった。
特に―――時期もそんなによくない。
元老院の派閥がはっきり分かれている中で、複雑化した内情は受付での取り扱いも面倒にした。
もちろん、そんな中でも―――エトナはアルトリウスのことを忘れたことなど一度もない。
アルトリウスの家に通うのはエトナの日課だった。
元々は、学校の配布物を届けるという名目だったのだが、もはや理由なんてない。
次第に話すようになったポニーテールの少女も、アルトリウスの事を想っていると知ってからは、彼女と2人、彼の部屋で彼の話をすることも増えた。
赤毛の少女のおかげで吹っ切れたからだろうか。
ポニーテールの少女――リュデの気持ちを知っても、それほど嫌な気分にはならなかった。
流石に何十人も、と言われたら困るけど、きちんと話して、本当に彼のことを想ってくれるなら、それもいいかもしれないと―――彼女と話していると思った。
結局エトナだって、単に最初に想いを伝えたと言うだけに過ぎない。気持ちは彼女達と同じなのだ。
たしかに法律では何人も伴侶を持つのはダメだけど、自身より遥かに賢い少年と少女がその気なのだから、きっと大丈夫。
焦げ茶色の少年も、赤毛の少女も首都にはいないけど、でも、だからこそ、気持ちの整理はつけれた。
リュデと2人、今頃どうしているかな、とあれこれ予想して。
彼の活躍を聞いては一緒に喜んで。
もう向こうで卒業しちゃったのかな、とか、くだらない心配をしたり。
どちらが将来家事をするかで何日間も料理対決をしたり。
2人で古文書を眺めては、よくわからないね、と唸ったり。
距離は離れていたけれど、リュデのおかげか、彼のことはすごく身近に感じた。
気持ちはいつでも彼のすぐそばだ。
そして時は流れて―――内戦が迫ってきた。
大人も子供も老人も、貴族も平民も奴隷も、首都の人たちは大騒ぎをしている。
でも、エトナは不思議と落ち着いていた。
穏健派に属するエトナの家が、王国に亡命しなければならないと聞いた時も―――別にそれほど不安にはならなかった。
勿論、本音を言えば、すぐにでも彼に会いたかったし、残ることになったリュデも羨ましかった。
―――でも…別に、大丈夫。
内戦は、彼のいる方が勝つし、彼が死ぬはずない。
きっと全部彼がすぐに終わらせて、帰ってこれる。
そう評するくらいに―――彼に対する信頼は、少しも衰えていなかった。
王国に来てからも、それは変わらなかった。
だからだろうか―――。
腕を鎖で繋がれて、知らない馬車の中、怪しい人に攫われたとわかったときも、それほど取り乱すことはなかった。
勿論、動揺しなかったわけではない。
驚きもしたし、不安にもなった。
でも、決して折れたりはしなかった。
―――大丈夫。きっと、アル君が――――助けに来てくれる。
見た事もない如何にも怪しげな、黒いローブの人物の底冷えするような言葉にも全くひるまなかった。
少年への揺らぎのない絶対的な信頼が、彼女の心を強くしたのだ。
攫われた理由は―――なんとなく察しがついた。
『鴉』と名乗った誘拐犯が言うには、エトナは『聖地』へ連れて行かれる途中らしい。
『聖地』……それは、例の古文書に出てきた言葉だ。
おそらくその古文書か―――古代文字に用があるのだろう。
ここ数年、少年に会えない寂しさを紛らわせるかのように毎日読み続けた古文書。
エトナは、誰も解読できないと言われたこれを―――つい最近、読むことができるようになった。
勿論全てを完璧に把握しているわけではない。
わかるのは、あくまで断片的なことだけだ。
もっとも、どうして読めるのかは、実はエトナにもよくわかっていない。
別にまじめに研究していなかったわけではないが、これといって新しい発見をしたわけでも、法則性を自力で見つけたわけでもないのだ。
ただ、ある日突然―――声が聞こえた。
幼い声だ。
その声が指し示すように文字を追うと、不思議と、何となく文字の意味が分かるようになった。
ただそれだけだ。
その古文書は、神代の神々の逸話の話だった。
かつてこの世界に君臨し、人々にあらゆる知恵と力を授けながらも、支配を求めるあまり、大地を追われることになった神々の話。
『聖地』とはそんな神々が残した支配の遺産……神々が大地を追われた原因の一端を残した場所だと言われている。
エトナが攫われたことが、『聖地』が関係するのなら、間違いなくその理由は、古文書に関連することだろう。
「―――さて、着いたぞ」
そうエトナがうつらうつらと考えている中、聞こえてきたのは、相も変わらず無機質な声だ。
そして、それなりに揺れていた馬車が急に止まった。
目的地に到着したのだ。
彼らが『聖地』と呼ぶ―――その場所に。
―――大丈夫。大丈夫だから。
欠片も疑わない少年への思慕を胸に、少女は立ち上がった。
心細くはない。
エトナが、彼のすぐそばに寄り添っているように、きっと彼の気持ちも、エトナのすぐそばにあるのだから。




