第156話:夜想曲・裏
前回のリュデ視点です。
アル様が家に帰ってきてから数週間。
長い眠りから目を覚ましたアル様はとても弱っていました。
当初は目覚めてくれて、本当にうれしかったんです。
ずっとこれまで声をかけても何も答えず、ただ声のない呼吸をするだけだったアル様が、目を開き、言葉を発したんですから。
でも、アル様は酷くふさぎ込んでしまいました。
アル様のお師匠様―――天剣シルヴァディという方が戦争で亡くなってしまったからです。
人を避けるかのように部屋にこもり、ベッドの上で、ただアル様は深く考え込むかのようにボーっとしていました。
食事や水をお運びしても、殆どそのままで返ってきます。
シルヴァディという方が、どのような方だったのか、私にはわかりません。
でも、きっとアル様にとっては、とても大きな存在だったのでしょう。
単に剣の師匠だとか、その程度の言葉で言い表せない程の絆があるような気がします。
「―――どうしましょう」
「そうね…」
ヒナ様とは色々と話しました。
どうすればアル様が元気になってくれるか。
ご飯を食べて、立ち上がってくれるか。
昔みたいに、少し呆れつつも、幸せそうな笑顔をみせてくれるか。
「何か…辛いことを忘れられるようなことをするとか?」
ヒナ様も悩みながら色々と案を出してくれます。
「忘れられるようなこと?」
「そう。何かに思い詰めているときは、他のことに熱中すれば、少しは辛さも紛れるじゃない?」
「例えば、何があるでしょうか」
「へ? えーと、そうね…何か楽しいこととか…その…本能を刺激するようなこととか?」
少しどもりながらヒナ様が言いました。
「本能?」
「…つまり―――その…異性を感じるというか」
「ああ、夜伽ですか?」
「そっ、そう! それ!」
ヒナ様は少し恥ずかしそうに言います。
「……」
確かに…男性は鬱憤が溜まったり、忘れたいことがあるとき、女性を抱く、と聞いたことはあります。全ユピテル恋愛指南書にもそう書いてありました。
アル様も男性ですし、もしかしたらそういう欲求はあるかもしれません。
だったら…試してみる価値はあるのではないでしょうか。
「―――まあ…それで忘れても…あまり意味はないわね」
しかし、ヒナ様は、そう言ってその案を実行しようとはしませんでした。
――今思えば、賢いヒナ様は分かっていたのでしょう。
一時の本能や快感では、忘れることはできても、立ち直ることはできないということを。
そして、本当に私たちが望んでいることは、アル様がちゃんと辛いことから逃げずに向き合い、乗り越えてくれることだということを。
でも、愚かな私は、そこまで頭が回りませんでした。
むしろ、それでアル様が少しでも楽になるかもしれないのに、どうしてしないのか、とすら思っていました。
たとえ自分の身体を汚してでも、愛している人の力になれるなら、やるべきだと思いました。
―――だけど。
多分そこには私の浅ましさも混じっていました。
大好きで、尊敬するアル様。
そんなアル様に抱かれたい。愛されたい。
私の心の奥底に存在する、微かな願い。
そこに舞い降りてきた――辛そうなアル様を慰めるためという大義名分です。
――こんな言い訳でもなければ、私は抱いてもらえないかもしれない。
そんな私の心の底の浅ましさが…出てしまったんです。
私がそれに気づいたのは、薄暗い部屋、肌着だけ身に付けて―――意気揚々とアル様のベッドに潜り込んだ後でした。
あったはずの躊躇は、これから起こるかもしれない出来事への高揚感に吹き飛ばされ、それを私は勇気だと勘違いをしていました。
「―――やめてくれ」
アル様から苦しそうな声が響きました。
とても辛そうな顔をしていました。
どうしようもなく哀しそうな顔をしていました。
「―――」
そんなアル様を見て、ようやく自分の思い上がりに気付きました。
―――ああ、私はどうしようもない愚か者です。
アル様の力になりたい、と言いながら。
アル様の為になるのなら、と、アル様を言い訳にしながら。
私は――アル様の弱さにつけこんで、アル様に甘えようとしたんです。
水に打たれたように、我に返り―――私はそのまま自分の部屋に帰ってきました。
それから、一層アル様は気落ちしたように―――生きる気力を失くしたかのようになってしまいました。
アル様のことを思っているはずなのに、余計なことをして――アル様の苦しみを、より強めることになってしまったのです。
私は…本当にどうしようもない――最低な女です…。
「―――リュデ、貴方まさか…したの?」
すぐにヒナ様が気づきました。
どうしてわかったのでしょう。
それほど私は――酷い顔をしていたのでしょうか。
「…ヒナ様―――私は…」
一部始終を、ヒナ様に話しました。
私が無駄に出しゃばって、余計なことをして、アル様の負担を増やしてしまったと。
私なんかではアル様を癒すことなんて、できないかったと。
何度もごめんなさいと言って、謝りました。
本当に謝るべき相手は、眠っているアル様なのに。
「リュデ…」
独白をするかのように泣き崩れる私を、ヒナ様は抱きしめてくれました。
「大丈夫よ。大丈夫だから…」
ヒナ様からすれば、面白くない話でしょうに、私に寄り添って、背中をさすって、そう言ってくれました。
「もう、アルトリウスもバカね。こんな健気で可愛い子の気持ちを、蔑ろにするなんて」
「――ヒナ様…」
「リュデ、大丈夫よ。アルトリウスを…信じましょう」
「…はい」
それから―――ヒナ様がある1人の方を連れてきました。
金髪のロングヘアに、鷹のように鋭い空色の瞳。
すらりと高めの背は、大人っぽいのに、どこか佇まいには可愛らしさを感じる人でした。
でも、その力のない瞳と、影の指す表情は―――眠っているアル様をどこか彷彿させます。
彼女の名前はシンシア・エルドランド。
アル様がカルティアで率いていた特務部隊の、副隊長だとか。
でも、私にとって衝撃だったのは、その職業ではなく――彼女が「天剣シルヴァディの娘」であるということでした。
亡くなってしまったアル様の師匠。
アル様の苦しみの原因。
きっと―――彼女は、そんなアル様と同じ悲しみを背負う方なのでしょう。
彼女をみたアル様は、酷く狼狽していました。
そして、言い訳をするかのように――苦悶の声を上げます。
そんなアル様とは対照的に―――シンシア様は、その力のない瞳を一変させました。
まるで、何かを決意し、何かを訴えかけるかのように、アル様に言葉を投げかけます。
そして、
「――決闘です。…私と戦いなさい!」
気づくとそんな事になりました。
もちろん、私もヒナ様も、アル様のお身体が心配でした。
ただでさえ怪我をして病み上がりなのに、食事もほとんど取らずに――相当弱った身体のはずです。
でも、アル様はその決闘を受けました。
何かを悟ったような顔でした。
庭に出た2人の剣の応酬は、私にはあまりよくわかりませんでした。
ただ、2人とも、すごく速くて、遠い存在に思えました。
でも…きっと本人たちには、剣を交わすことに、大きな意味があったのでしょう。
剣士でも戦士でもない私には、わからない世界です。
シンシア様は剣に乗せるように想いを吐き出しました。
まるで叱咤するように。
激励するかのように、アル様を追い詰めていきます。
剣を振っているのに、彼女もアル様のことを、とても大切に想っているということが、傍から見ていた私にも伝わりました。
そして、泣き崩れ、まるで、悲しみを表現するかのように抱き合う2人を見て、私たちはその場を去りました。
きっと、あの2人にしかわからない悲しみで、あの2人しか分かち合えない痛みがあるのでしょう。
アル様はどこか吹っ切れたように元気になりました。
やはり体は弱っていたのか、顔色はそれほど良くはありませんでしたが、朝早くに起きて、食事を取って、お風呂に入り、出かけていきました。
数日前までなら考えられないような事です。
きっと、昨日のうちに乗り越えたのでしょう。
大切な人との別れと向き合い、受け入れることができたのでしょう。
あの方…シンシア様のおかげです。
アル様と同じ悲しみを背負えて、アル様を叱ることのできる唯一の人が、きちんとアル様に剣を振り、叱ってくれたんです。
私にはできない事でした。
私はアル様を慰めようとはしても、気持ちに寄り添うことも、叱ることもできませんでした。
シンシア様には感謝してもしきれません。
だってこのままアル様が立ち直れなかったら――。
このままアル様が自ら命を絶つようなことをしてしまったら――。
もう、謝ることもできません。
償いをすることもできません。
だから、アル様が元気になって、前みたいに歩いてくれて、本当に良かった…。
それだけで充分でした。
私はずっと、このまま影で、アル様の御助けをして、それで生涯を終えようと、そう思っていました。
なのに―――。
「――あの日のことを――謝ろうと思って」
アル様は私を部屋に呼び出しそう言いました。
―――どうして?
分かりませんでした。
私が悪いのに。
私が貴方に謝らなければならないのに。
「俺はリュデに―――幸せになって欲しい」
―――どうして?
どうして、そんな…私の浅ましい心を刺激することを言ってしまうんですか?
期待しちゃうじゃないですか。
私も受け入れて貰えるんじゃないかって。
私も愛して貰えるんじゃないかって。
そんな資格、少しもないのに。
「だから、ごめん。あの時、君を受け入れられなくて。あの時、君を抱きしめられなくて」
―――ああ、もうズルいです。
どうして貴方が謝ってしまうんですか?
まるでアル様が悪いみたいじゃないですか。
違うんです。
私はただ、貴方の弱みに付け込もうとしただけなんです。
「―――駄目ですよ、アル様。私は奴隷ですよ? アル様の手を煩わせるなんて、そんなこと…」
絞り出てきたのはそんな言葉でした。
アル様に幸せにしてもらう資格なんて、私にはないんです。
「俺が…今まで身分を気にしたことがあったか?」
―――そうです。知っていますとも。
貴方は昔からそういう身分を気にしない方でした。
私がどれだけ貴方によくしてもらっているのか、私が一番よく知っているんです。
「―――でも、ダメです。――私は―――私にはアル様をお救いすることはできませんでした」
私はアル様の力になれませんでした。
アル様の苦しみに、寄り添う方法が、わかりませんでした。
余計なことをして、傷つけることしかできませんでした。
でもアル様は首を振ります。
「出来たさ。俺は何度もリュデに助けられている。感謝している」
本当に―――貴方は…どうしてそこまで…。
私の心は溶解寸前でした。
アル様の言葉に、どんどん溶かされてしまうんです。
必死にまだ固いところを捻りだして耐えてあげないと―――すぐにその言葉を肯定してしまいます。
「私は――エトナ様のように可愛くもありませんし、ヒナ様のように賢くもありません、あの金髪の方のように強くもありません。そんな私に―――」
―――アル様に幸せにしてもらう権利なんて、ありません。
私には何もできません。
傍にいても迷惑をかけてしまうだけです。
「リュデは可愛いよ。それに、賢いし、強い。俺なんかより…ずっと」
「アル様…」
もう、何を言えばいいかわかりませんでした。
どういえばこの方は、私を拒否してくれるのか思いつきませんでした。
気づくと、私はアル様の胸の中にいました。
少し筋肉質で、鼓動の音が速くて、あったかくて―――身も心も溶かされていくような安心する胸です。
「―――いいんでしょうか。私がアル様に甘えても―――そんな幸せに触れても―――本当にいいんでしょうか」
涙が流れていました。
アル様の暖かさと愛情が、私の心を満たしていきます。
自分の浅ましい部分が、嫌な部分がどんどんアル様に近づこうとしています。
「いいさ。俺が君に甘えて欲しくて…俺が君に触れたいんだ」
そっと、アル様の手が私の頬に触れます。
ちょっとごつごつしているけど、優し気な手です。
いつの間にかアル様の顔が目の前にありました。
昔より少し大人っぽくなった顔です。
「アル様……」
「――――――」
そして、これ以上何も言わせないとばかりに――私の唇を、アル様の唇が塞ぎます。
少し薄めの唇は、想像していたよりも柔らかくて、あたたかくて―――。
その幸福感に、私に抗うことはできませんでした。
―――好きです。
この世の何よりも、貴方のことが好きです。
貴方に愛されなくていいなんて―――そんな嘘、もう無理です。
私の入れた紅茶を飲んで、美味しいって言ってくれる貴方を、ずっとずっと見ていたいです。
「―――リュデ?」
「へ? …あ、は、はい!」
いつの間にか、唇は離れていました。
余りにもとろけそうな時間に、意識が奪われてしまったようです。
「もし…よければなんだけど」
そんな私に、アル様は体を密着させたまま、口を開きます。
少し、鼓動が速くなったでしょうか。
「―――ベッドに…誘ってもいい?」
ベッド?
それって…。
言葉の意味が、一瞬わかりませんでした。
いいんでしょうか?
本当に…いいんでしょうか。
エトナ様もヒナ様も、まだなのに、私だけ先に―――。
アル様の瞳を見つめます。
焦げ茶色の瞳は真剣に私を見ていました。
そんな瞳を見ていると、まるで吸い込まれてしまいそうです。
ああ―――本当に、私は浅ましい女です。
建前なんて―――遠慮なんて、まるでする気もありません。
「―――はい、喜んで」
その日の夜は―――少しだけ甘酸っぱくて、でもとても暖かくて、ちょっと切なくて。
そして何よりも幸せな、そんな夜でした。
● ● ● ●
チュンチュン、と雀の囀りが聞こえます。
少し肌寒さを感じながら身体を動かすと、傍にぬくもりを感じました。
「―――ん…」
そのぬくもりの正体は、私の身体をすっぽりと覆うかのように抱きしめる肌色の身体です。
ところどころに傷がついているのは、歴戦の証とでもいうのでしょうか。
「―――アル様、おはようございます」
「――――なんだ、もう朝か…」
呼びかけると、アル様は無造作に目を開きます。
「…リュデ、おはよう」
「はい、おはようございます」
アル様は少しまだ眠気が残っているのか、そのまま寝転がり天井を見上げています。
なにやら考え事をしているようにも見えますが…。
そして、不意に何かを決心したかのように、口を開きました。
「――リュデ、俺さ。王国に行くよ」
「…王国、ですか?」
「ああ、色々と理由はあるんだ。丁度大使っていう役目があったり、今後のことを踏まえてみておきたいってのもある」
ユースティティア王国は、ユピテル共和国からは大きく北にある大国です。
ユピテルと同等の国力を持つ国は、世界にはユースティティア王国しかありません。
「でもなにより一番は―――とにかく、まず家族に会いたい。それが俺の―――やりたいことだよ」
王国には、内戦から亡命した穏健派―――もとい、アル様のご家族や友人。私の父と姉もいます。
「アル様らしいですね」
「そうか?」
「はい」
アル様は、家族や友達が大好きです。
昔から―――物心ついたときからずっと、変わりません。
「―――あ、そういえば…忘れていた」
すると、そこでアル様はおもむろに起き上がります。
腕を伸ばして棚から取り出したのは、紙包みです。
「はい、これ」
そして、それを私に差し出します。
いったいなんでしょう。
「…贈り物だよ。リュデに」
「―――え?」
「ほら、受け取ってくれ」
押し付けられるかのようにアル様から紙包みを受け取ります。
「あの…これは…」
「いいから、開けてくれ」
「…はあ」
贈り物なんて、される覚えはありません。
何かのドッキリでしょうか。
紙包みの封を開け、中の物を出します。
これは――。
「シュシュ、ですか?」
「ああ」
出てきたのは髪を結ぶ用のシュシュです。
可愛らしいベージュの花柄の丈夫そうな素材のものです。
これを…私に?
疑問の表情を浮かべていたからでしょう、アル様が説明をしてくれました。
「ほら、以前俺はリュデに成人祝いを貰っただろう? それなのに俺はリュデになにもあげてなかったからさ」
確かに―――私はアル様の成人祝いに、ミサンガを贈りました。
でもあれはそれほど大したものでもありませんし、ただの私の気持ちです。
そもそも奴隷の身分の私にお返しなんかいらないのに。
「別にそんなの―――気にする事ありませんよ?」
「いや、その―――それだけじゃなくてさ。その―――リュデからの物は、戦争で焼き切れちゃったから、そのお詫びの意味でもあるんだ」
本当にアル様は人のことを良く考えていますね。
これだけ他人に気を使って、大変でしょうに。
「でも…それも、気にする事ありませんよ。ミサンガっていうのは切れたら願いが叶うものなんですから。切れたというなら―――むしろいい事ですね」
「…ああ、まあ確かにそうかもしれないが」
「大丈夫です。ちゃんと…願いは叶いましたから」
「それ、どんな願い?」
「ふふ、内緒です」
「…そうか」
変な顔をするアル様に、私はそう言って頬杖をつきます。
「でも―――このシュシュは、いただきますね。折角アル様が贈ってくれたものですから」
実は初めから受け取る気満々でした。
だって、もう建前はいりません。
アル様の愛情も、私の愛情も、全部受け入れるんです。
私はそう言って、自分の髪を後ろで纏めて、貰ったシュシュでくくります。
「どうですか?」
「よく似合っているよ」
「えへへ、ありがとうございます」
自分で聞いておいて、いざ褒められると照れてしまいますね。
アル様は少し変な顔で、相変わらずこちらを見ています。
どうしたんでしょう。
実は変だったのでしょうか。
お世辞だったとしたら少し残念です。
しかし―――。
「…あ」
アル様の下半身に目が行きました。
たくましいものがそそり立っています。
これって…。
「…もう1回…しましょうか?」
「…お願いします」
幸せな朝は―――暫く終わらなさそうです。
利き腕に巻くミサンガは恋愛成就の意味らしいです。




