第141話:『蜻蛉』
―――なかなかにやる!
『蜻蛉』という二つ名を持つ水燕流の使い手、クザンは、目の前を蝶のように舞う少女の剣撃を避けながら内心そう言葉を漏らす。
利き腕を失っているとはいえ、クザンとて長年経験を積んだ剣士だ。ユピテルの東部の水燕流の使い手の中では群を抜いた実力を持つ。
確かにシルヴァディ相手には遅れは取ったが、それは相手がシルヴァディという希代の怪物であったからである。
一般的に見れば、『蜻蛉』クザンは『八傑』とそう大差があると思われてはいない。
そんなクザンを相手に、目の前の金髪の少女は奮戦していると言ってもいい。
「受け」と「返し」の水燕流に対し、彼女は、こちらの剣に剣を当てないという戦略で対処している。
水燕流の奥義の多くは剣を交えた際に発動させる搦手が多い。
そう言った技に対処するためにこちらの剣と剣を合わせないのだ。
無論、剣を合わせないということは、その分彼女の剣はクザンの身を外すということであり、有効打にはなり得ない。
それでも彼女は右に左に動き回り、手数でなんとかそれを補おうとしている。
手数の多さは、動きと剣速に優れる神速流特有の戦術だが、どうやらこの少女は父と違って多彩な流派を使い分けるわけではないようだ。
―――なるほど、そういえば迅王の弟子になったとか言っていたな。
『迅王』ゼノンは神速流随一の使い手だ。
何度かその剣も見たことはあるが、確かにこの少女の剣にはゼノンの面影がある。
「カッカッカ、親子して剣の才は傑出しているな!」
クザンは正直な感想を述べた。
元来神速流は、広く場所のとれる場所でこそ真価を発揮する流派だ。
速度を出すためには多少なりとも距離があった方が有利に働く。
つまり、こんな狭い一本道では、むしろ自身は動かず、守備範囲を少なくすることが済む水燕流や甲剣流が有利である。
そんな中でも、この少女は必要最小限の歩数で最大限の加速に持ってきている。
しかもなかなかに速い。
おそらく、ゾラの弟子であるとかいうダルマイヤーよりは上。
それどころか、充分に距離を開けて加速した最速状態であるなら、クザンよりも速いだろう。
―――なるほど、天剣も弟子にすることにこだわっていたわけだ。
そう思ったうえで、シンシアに上々の評価をしたクザンだったが、
「才など…私にはありません」
息を吐きながら少女は言う。
「ほう…」
「もう2年も―――私なんかとは比べ物にならない本物をみてきましたから」
「―――ッ!」
その言葉と共に、少女の速度がもう1段階上がる。
クザンの頬を、剣閃が掠めた。
「ただ剣術の呑み込みが早いだけで、才があるわけではありません」
少女が早口で剣に声を乗せる。
「能力だけでも、努力だけでもない。本物は、何かを背負う責任と、一歩踏み出す勇気を持っています。自分の殻を破る―――限界を越えるという大いなる覚悟を!」
「なにを…!?」
少女の速度は上がり続ける。
もはやダルマイヤーなどは引き合いに出すことすら失礼だろう。
「私の背負う責任や持っている勇気は、きっと彼にも父にも及びません。でも…決めたんです。彼に追いつくと! 父を越えると! だから―――!!」
「この小娘が…まだ上がるのか!」
そのとき、少女――シンシアの初速が、クザンの速度を越えつつあった。
● ● ● ●
―――もどかしい。
剣を振りながら、足を動かしながら、シンシアはもどかしさを感じていた。
相手は『蜻蛉』クザン。
間違いなく第四段階に入っている強者であり、シンシアからすれば格上。
おそらく利き腕であろう右腕はなく、片腕であるのにもかかわらず、その感じるプレッシャーは凄まじい。
足さばきも技のキレも、大きくシンシアの上を行くだろう。
しかし、それでも―――かつてないほどシンシアはクザンの動きが見えていた。
相当な集中力のなせる技か、ここにきて急激に読みのレベルが上がったのか、視力が強化されたのか。
もしかしたらそれもあるのかもしれない。
だが、一番の要因は別のところにあるだろう。
なにせシンシアはここ数年、クザン以上の剣士と毎日のように稽古を重ねてきた。
シンシアの知る強者。
毎日剣を打ち合うゼノンや、最近技を見せてくれるシルヴァディ、誰よりも傍で見続けたアルトリウス。
彼らに比べれば、クザンなどそれほど遠く感じない。
師匠のほうが速い。
父の技の方が極まっている。
隊長の応用力の方が脅威だ。
だからこそもどかしい。
見えるのだ。
クザンの動きが見える。次に何をしてくるのかがわかる。
きっとゼノンであったなら、シルヴァディであったなら、アルトリウスであったなら、もう勝負を決められるのだろう。
だが、シンシアには、決めきれる速度が、力が足りない。
以前アルトリウスが言っていた。
『いくら読んでも、体が反応しなければ意味がない』
きっとそういうことなのだろう。
「――あまり調子に乗るなよ!」
なかなか剣を合わせず、勝負に出ないシンシアに痺れを切らしたのか、クザンが声を上げる。
攻勢に出るようだ。
クザンの左腕が唸る。
気配。
直感的に危険――奥義の匂いを感じる。
水燕流奥義のうち、剣を介さずに攻勢に移る技はいくつかあるが…これは違う。
6つの奥義ではない、オリジナル。
クザンにとっては最奥の技。当然のように左でも打ってくるのだろう。
――もどかしい。
分かっているのに。
もっと速ければ、こんなもの当たるはずがない。
この場所は加速距離を稼げない。
この要塞内の幅のない道は、シンシアの動きを制限する。
最大加速までなかなか行けないのだ。
―――いえ、違いますね。
また、決めつけだ。
どうしても真面目に加速距離を稼ごうなんて考えてしまうのは、シンシアの悪い癖だ。
こんなものじゃ、上には上がれない。強者には勝てない。
今までの最大加速を、初速に。
それくらいができなくては、父や彼どころか、この男も越えられない。
思考を止めない。
最大加速とか、限界速度とか、そんな物を決めつけているから、自分で限界を決めているから、速度は上がらないのだ。
クザンの剣が振られる。
「…秘技――『蜻蛉』」
クザンの二つ名を『蜻蛉』と言わしめた、彼の奥義。
妙技とも、絶技とも呼ばれた彼のオリジナル。
一見それは左腕から放たれるごく普通の剣閃に見える。
だが―――、
「―――っ!!」
受けようと自身の剣をその軌道上に乗せた瞬間、そのクザンの剣はブレる。
そして、瞬く間にその剣閃はその場から立ち消えた。
現れたのはソレよりも遥かに遅れたタイミングでシンシアに迫る、2振り目の剣閃。
この現象こそが奥義『蜻蛉』。
言ってしまえばそれはただのフェイントだ。
剣を振ったと見せかけて、実は振っていないという、フェイント。
だが、長年の研鑽により技を鍛えたクザンのそれは、ただのフェイントというにはリアル過ぎた。
剣を学んだ者なら、あるいは学んだからこそ、その些細な動きや、角度、速さに、思わずその剣が振られたと完全に錯覚してしまうであろうフェイント。
あるはずのない剣が、あるように感じるほどの、技の極致。
剣技を知れば知るほど、経験を重ねれば重ねるほど、動体視力が良ければ良いほど―――そのクザンの動きへの錯覚の度合いは強くなる。
それに反応したが最後、実体のない剣はまるで陽炎のようにゆらりと消え失せ、間髪入れずに放たれる遅れた剣閃に、相手は反応できなくなる。
無論、出せる角度や条件は限られるが…少なくともこの時のシンシアは、確実にその実体のない剣に反応してしまっていた。
「―――貰ったぞ、嬢ちゃん」
クザンの低い声が響く。
確実に決まったと、そう思ったのだろう。
―――だが。
キンッ!
「――なに!?」
剣は止まった。
シンシアの剣が、クザンの2振り目を止めていた。
「――チッ!」
クザンは慌てたように身を翻す。
後退だ。
奥義が止められた隙をつかれてはたまらないのだろう。
だが―――、シンシアは追撃をしなかった。
ただクザンを見据え、ゆっくりとすら見える動きで、剣を鞘に納めた。
「―――なッ!?」
驚愕するクザンに、シンシアは表情を変えない。
あるのは頭の中に思い描く師の姿。
そして、それを自分が放つ理想のイメージだ。
初めて見たときから憧れ、今も憧れ続けている技。
神速流…速さの極致を体現した師の唯一にして絶対の奥義。
「―――居合術…『迅雷』」
初速から、最大加速で。
そして、最大加速はもっと先へ。
シンシアの体は剣と一体となり、動きはまるで思い描いていたかのように空を裂く。
その速さは、おそらく師のそれには届いていなかっただろう。
完成度も、剣の振りも、形にはなっているが、理想ではない。
だが、それでも――クザンを屠るには充分だった。
● ● ● ●
―――まさか1日に2度も『蜻蛉』が破られるとは…。
遠のく意識。
自分の体が地に倒れていくのを感じながら、クザンは思う。
奥義『蜻蛉』。
実体があると錯覚させるほどのフェイント。
間違いなく、シルヴァディもシンシアも、その実体のない剣撃には引っかかった。
だが、その上で―――その持ち前の速さで、無理やり本命…遅れてきた実体のある剣にも対応されたのだ。
『蜻蛉』は驚異的な技だ。
剣の振りを錯覚させるほどのフェイントなど、どれほど技量を重ねれば出せるようになるのかわかりはしない。
だが、それでも―――その実体のない剣と、遅れてきた実体のある剣、どちらも対応できるほどの並外れた速さがあれば、この奥義は無に帰すことになる。
奇しくも、親子二人とも、全く同じ手段で、この奥義を破った。
少女がもう少し遅ければ―――少なくとも、戦闘が始まった直後の速度では、対応できない技であったはずだった。
だが、彼女の速度は、ついぞクザンの思いもよらないところまで上がった。
最後に彼女が放った居合。その中に、クザンは間違いなく迅王を垣間見たのだ。
その居合は、クザンが受ける間もなく、彼の脇腹から胸にかけてを深く抉った。
確実に致命傷であり、もう助からないだろう。
クザンの敗北である。
もしかしたら、利き腕があれば、結果は違ったかもしれない。
利き腕の『蜻蛉』ならば、少女も対応できなかったかもしれない。
だが…全ては雲の中。残るのは結果のみだ。
「もしも」の話は、それこそ実体のない陽炎のように消えていく。
それに、もしも腕があったとしても、それすらもこの少女は越えていくのではないだろうか。
最後の居合には、クザンをしてそう思わせるほどの凄みがあった。
「…何か言い残すことはありますか?」
倒れたクザンから数歩のところで、金髪の少女はこちらを見据えている。
最後に向ける言葉まで同じとは、つくづく親子というのは似るものだ。
「―――カッカッカ、そんなものはない…さぁ行くがいい天剣の娘よ。司令部がこの先というのは本当だ。行って―――さっさと勝ってこい」
1日に2度奥義を破られ、2度殺される。
剣士として屈辱ではあるが、どこか清々しい気分だ。
――ネグレドよ、そりゃあ勝てないわけだ。
負けたのに悔しくないなんて、そんな戦争、勝てるはずがない。むしろ勝ったらおかしいだろう。
この分だと、あの化け物も――もしかしたら負けているかもしれない。
「……いや、1つだけいいか?」
「――なんでしょうか」
去ろうとした少女を、クザンは一言呼び止める。
「お嬢ちゃん、お前の名前を教えてくれ。俺を斬った相手の名前も知らないんじゃ、冥界で死因も語れやしねぇ」
「…いいでしょう」
クザンの問いに、少女は澄んだ声で答えた。
「私の名はシンシア。天剣シルヴァディの娘にして迅王ゼノンの弟子―――シンシア・エルドランドです」
「…そうか、シンシア。冥土の土産に覚えておこう。この『蜻蛉』クザンを倒したのは、天剣シルヴァディでも、迅王ゼノンでもなく――シンシア・エルドランドだとな…」
――そして、あの世でそう言ったら、自慢になるくらいの剣士になってくれ…。
言葉を言い終えることもなく、クザンの意識は落ちていく。
腕を斬られながら、無様に生き永らえた命も、ついにここまでのようだ。
――カッカッカ、悪いが総督殿、俺は先に逝く。なぁに大丈夫。俺達の死に―――意味はあったさ…。
こうして、水燕流の達人、『蜻蛉』クザンはその生涯を終えた。
ついぞ剣の頂に立つことはない人生だったが、彼のこの2度の敗北は、歴史に残る名勝負として、長く語り継がれることになる。




