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「お待ちしておりましたよ」
部屋に入ってすぐ、私の耳に声が届く。
私はその声の主を探した。
というのも部屋はやたら広く、一見してそこには誰もいないようにも思えたからだ。
しかしそれはすぐに見つけることが出来た。
正面の大きな窓の前に一つだけ置かれた、これもまた大きな机に老人が座っている。
彼がこの病院の院長であろう。
「それほどのんびりして来たつもりは無いけど」
私はそう言って彼のいる窓際へ歩き出した。
不便とさえ感じるほどに長い距離を行きながら、辺りに視線を巡らす。
窓のある面を除き、壁はすべて本棚で覆われていて、それらにはほぼ隙間なく本が収納されている。
これだけの数を、あの老人が一人で読んだのだろうか。
「ハハ、そういう意味で言ったのではないよ」
笑って答えた老人の前へ、ようやく辿り着く。
分かってはいたが院長もやはりソルム人であった。
荘厳な滝を想わせる白く長い眉が3つの目にそれぞれ覆いかぶさるように伸びており、時折小刻みに揺れている。
私の姿はちゃんと見えているのだろうか。
机の前には彼と向き合うように椅子が置かれており、私は特に許可を貰うでもなくそこへ腰を下ろした。
「ずっと待っていたのだ。あなたのような方を」
「知っているわ。あの人が持つ秘密の手がかりになる人物、それが私ってことでしょ」
「違う」
院長は僅かに口を動かして短い返事をした。
「『彼』がこの病院にいるという情報を手に入れるだけでも、あなたは多くのものを犠牲にしてきたことだろう。幾度とない身分及び経歴の詐称、自らを捨て続け、ようやくあなたはここまでやって来た、そうでしょう」
「それが何」
「もはやあなたは何者でもない。何ものにも属さない。我々を縛る地球人でもないし、もちろんソルム人でもないのだ。私はあなたのような人間を待っていた」
「あなたも監視されているのね。奴隷の一人として」
「そうだ。だが安心して欲しい。この部屋だけは唯一、何を話そうが外に漏れる心配はない。院長の私が保証する。あなたの知りたいことを何でも教えよう」
「そう。それが本当なら、ケムリ医師に感謝しなくてはいけないわね。この場を設けてくれたのは彼なのだから」
「ケムリ医師は……」
突然言い淀んだ院長は口を閉じ、長い眉毛を揺らした。
その様子から、彼がこれから何か良くないニュースを告げるであろうという事は容易に想像できる。
もとより今日の案内役がケムリ医師では無かった時点で、私はもやっとした異物感を覚えていたのだ。
「彼がどうしたの?」
「……ケムリ医師は死んだ」
「死んだ……?」
「自宅で服毒し、自ら命を絶ったのだ。早朝、通報を受けた警備隊が私にそう告げてきた」
院長の言葉を聞いた瞬間、辺りがしんと冷えたような感覚に陥った。
私は急いで頭の中を整理する。
彼が何を言っているのかは分かっている。
ケムリ医師は死んだ、そう言ったのだ。
しかしあまりに突然で、まるで現実味がない。
「ケムリ医師が自殺? そんなの、有り得ないわ」
「警備隊が現場を検証し、そう判断を下した。事実と言うほかない」
「あなた達ソルム人は何よりも命を重んじているわ。自身の命なら尚更のはずよ。それはあなた達が共通して持っている誇りだと私は理解しているわ。自殺なんて、あなた達とは最も縁遠い行為じゃない」
思わず声を荒げた私を、院長は今より少しだけ目を開いて見つめた。
眉毛の奥に色素の薄いグリーンの瞳が僅かに覗く。
「ケムリ医師は知っていたのだ。あなたに『彼』のことを話すというのが、何を意味するのか。だが、医者としての精神がケムリ医師にそうさせたのだろう。我々は医療に従たる装置でなくてはならない。だから主の意思にそぐわぬ装置は処分されてしまう」
「彼もまた、常に監視されていたのね。それを知っていて…」
「この病院に勤めるソルム人はみんなそうだ。しかし彼は…、ケムリ医師はそれでも自らの誇りに準じることを選んだ。あなたになら『彼』を救えると、そう判断し自らの行く末を決定したのだ」
「…私の意思はどうなるのよ」
「あなたの意思を汲み取った上での行動だ。『彼』を救いたいという、ただそれだけの目的であなたはここにいる。ケムリ医師も同じだった。あなたに伝え得るすべての情報を与えることが、ケムリ医師にとっての、『彼』の救済への道だと考えたに違いない」
「私は、全部一人でやるつもりだったのよ。それなのに、勝手にこんな重たいものを背負わせて……」
ケムリ医師は殺された。
それは昨日の彼の行動が、地球人により反逆行為だとみなされたためだ。
彼の死は、ただの死とは違う。
誇りを捨てた恥ずべきソルム人という烙印を押され、死んだのだ。
真実を知る者は一体どれほどいるのだろう。
ケムリ医師こそ、何よりも命を慈しむ気高きソルム人であったことを知る者は。
少なくとも私はその一人だ。
だからこそ彼の命はこの上なく重い。
さらには、それは決して投げ出してはいけない十字架のように、私の人生へ絶対的な存在として組み込まれてしまった。
「背負うのではない。あなたがケムリ医師の死を、どう受け止めるのか、それが重要なのだ」
「私は……」
少し考えて、私はそれをすぐにやめた。
無意味なことだと思ったから。
引き返すなんて選択肢は無いことは既に分かっているし、あの人を救いたいという気持ちが揺らぐことも無い。
ケムリ医師の行為を無下にするわけではない。
私がこれまでシンプルで居たからこそ、彼は力を貸してくれたのだ。
この先も私は真っ直ぐでなくてはならない。
それこそが彼に対するはなむけとなる筈だ。
あの人とこの星を出たのなら、最高の医者と出会ったと、私は話そう。
「ケムリ医師に最大限の感謝を送るわ。これほどまでに私の我儘に付き合ってくれたんだもの。だから私は最後まで私の我儘を貫き通すつもりよ。あなたも彼の意思を尊重するのなら、私に協力してもらうわよ」
私がそう言うと、院長は僅かに開けた目をまた細め、3つあるうちの左下の眉を指で撫でた。
しばらくそうしたのち深く息をし、彼はゆっくりと口を開く。
「もちろんだ。彼は医者としてこれ以上ない働きをしてくれた。私も院長としてそれに応えたい。何より、私もあなたの恋人を救いたいという気持ちは同じなのだ。協力するよ、全力で」
「そう…。それは有難いわ」
「では改めて、私はカスミという。あなたが知りたいこと、私の知る限りを教えよう」
まるで祈るように、カスミ院長は顔の前で手を組んだ。
私は思わず唾を飲み込む。
あの人に会う。
たったそれだけのことが、その実とてつもなく強大な闇に足を踏み入れることだと、ケムリ医師の死によって私はようやく理解したのかもしれない。
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