5
「僕にはいつも考えていることがあってね」
あの人の声がした。
私はすぐに、これが何度も見た夢の始まりであることを悟る。
彼はいつだって優しく、私に語り掛けてくれた。
今ではそれが触れられぬ優しさだと知っていても、私は自身が創り出した幻想に身を任せた。
「大したことでは無いかもしれないけど、僕にとってはとても大事なことなんだ」
あの人が言うにつれて、真っ暗だった私の視界は徐々に鮮明になっていき、やがて全てが明るく映し出された。
私たちは小さな部屋にいた。
家具といえば私とあの人が座っている椅子と目の前のテーブルぐらいで、質素というよりは殺風景な部屋だ。
テーブルの横ではカーテンが揺れていて、その隙間からは青く澄んだ海が見える。
心地よく吹く風を感じながら、私は再び部屋の中へ視線を戻した。
テーブル越しに私を見つめるあの人を、私も見つめ返す。
「どんなこと?」
幾度となく繰り返した会話を、私たちはもう一度始める。
次に答える彼の言葉は知っている。
それに対して私が何と返して、あの人がどう反応するのかも。
私の中に虚しさや悲しさが全く無いわけではない。
それよりも、あの人のことをちゃんと忘れずにいられている事が嬉しい。
「僕は後悔したくないんだ」
風がまたカーテンを揺らし、彼は差し込んできた陽の光を受ける。
強く一直線な眼差しが、その輝きをより一層増して私に向けられた。
私は時々、彼の目が怖いと思うことがあった。
あまりに真っ直ぐで、眩しくて、曇りなどない瞳。
そこに私が映ることなど許されないのではないかと不安になってしまう程に。
だけどあの人は、そんな私の気持ちなんて知らずいつだって一直線だった。
言葉はなくても、私の不安なんか気のせいだと思わせてくれる。
結局、彼のそんなところが大好きだった。
どこまでも広く深いあの人の心を愛していたのだ。
「それって、これからあなたが何かをしようとしているってことかしら」
「そうじゃない。僕が自分の人生を生きていくうえで、常にそう思うってこと」
「なんだか壮大な話ね」
「そうかもね」
彼はそう言って、少し微笑んだ。
今の私なら、彼がどんなことを伝えたいのかが分かる。
これは謂わば遺言だった。
この先起こるどんなことも、全ては彼の信念によって引き起こされるものだと、だから何も心配はいらないと、そう伝えたいのだ。
「そして僕の中心には君がいるんだ。つまりね、僕はいつでも君を悲しませるようなことはしたくないと思ってる。僕にとっての後悔ってそういうことなんだ。なんだろう、上手く言葉に出来ないな」
何も知らない私は、次に「ありがとう、嬉しいわ」なんてことを彼に言っただろうか。
彼に愛されている事だけを都合よく受け止めて、その真意に気が付けなかった。
今は違う。
「いいえ、全部伝わったわ」
「…そっか」
「ねえ」
彼の表情が曇ったことに気付いていたが、私は続けた。
かつての穏やかな時間を映すだけの夢は、いつしかその様相を変えつつあった。
「なに?」
彼が答える。
「私を置いて、どこかへ行ってしまったりしないわよね」
「……」
あの日、もしも同じことが言えていたら今頃私の隣にあの人は居たのだろうか。
どうしようもない寂しさから、目の前のイメージでしかない彼にさえこんなことを問い詰めて、困らせてしまっている。
彼は答えようとしない。
それどころか、私から目を逸らし俯いてしまった。
「ごめんなさい。違うの、あなたの気持ちは分かっているのよ」
私はそう言って彼をなだめた。
泣きそうに震えるその様は、あの人のイメージからは程遠い嘘のような頼りなさだった。
いや、実際にこれは嘘なのだ。
私が見ている夢。
全てが紛い物。
「僕は」
不意に彼が口を開いた。
私はもう十分だと思った。
やはり夢は夢であり、虚しいだけだ。
早く目覚めて欲しい。
「もういいのよ」
「そんなこと言わないで」
こんな声で、こんなにも弱々しく、あの人が話すことなどあっただろうか。
私は耳を塞いでしまいたかった。
せめて夢の中だけでもと、あの人との会話を望んだ私が悪いのだ。
ただ映画を見るように、黙って幻想に身を任せていれば良かった。
お願いだから、これ以上こんなものを見せないで。
「ごめん、それでも僕は聞いて欲しいんだ」
「やめて」
「僕は、君を忘れたくない」
「どうして、そんなこと…」
「でも駄目なんだ。忘れたくないのに、それなのに彼らは僕の記憶を探ろうとして、僕の脳にたくさんの酷い事をしてくる。僕は壊れそうだ。いろんな物が失われていくんだ。少しずつ。君との思い出さえも!」
「大丈夫……これは夢よ……」
「嫌だ! 僕は君を忘れたくない! 僕…君を…たくない! 僕は忘……ない!」
「やめて! もうやめて!」
「 僕………な…! ……ぁ……………………」
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