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 バーの扉を開けようとドアレバーを掴んだ私の手は震えていた。

 あの人に会うための準備を何もしていない。

 服はホテルで適当に選んだものを着てきただけだし、さっきあんなに走ったのだからきっと化粧も崩れてしまっているだろう。


 何より、心の準備がまるで出来ていない。

 それなのに、扉に掛けた手は震えながらも力強く、今まさに開こうとしている。

 マグナ病院に囚われているあの人が、どうしてここにいるのかは分からない。

 私を待っているというある筈のない可能性だけが、今の私を動かしていた。

 抑えきれない衝動のまま、私は扉を開きバーに足を踏み入れた。

 




 質素な照明が暖かな色で照らす、カウンターのみのこじんまりとした店内。

 椅子もそう多くは置かれていない。

 音楽も何も流れてはいないが、むしろ静けさがその店には相応しく感じられる。

 カウンターの内側では、バーテンダーがグラスを拭いている。


 客の姿は見受けられない。

 あの人はいなかった。


「いらっしゃいませ」

 私に気付いたバーテンダーはそう言って、手に持っていたグラスを置いた。

 それが着席を促しているように見えて、私は彼の正面へ腰を下ろす。

「ようこそいらっしゃいました。何になさいますか」

「お酒はいいわ。紅茶……いえ、お水を一杯」

 バーテンダーの問いに、私はそう答えた。


 何を飲んだって、今はそれを味わうような気分ではない。

 喉を潤すだけなら水で十分だ。

「お出しできますよ、紅茶」

 気を遣ってか、バーテンダーは一言そう告げた。

 そもそもバーに来て水を頼むのもおかしかっただろうか。

 でも私は本当になんだって良いのだ。

「それじゃあ、お願い」

 言うと、バーテンダーは奥へ向かい準備を始めた。


 私は何をするでもなく、カウンター内のボトル棚に並べられた酒を眺める。

 色とりどりの瓶は照明を反射して、それぞれが美しく光っている。

 目に映るその光は静かに揺れ、やがてじんわりとぼやけた時、自分が涙を流していることに気が付いた。


「……また騙されちゃったのね、私」

 涙を指で拭うと、それはもう流れてくることはなかった。

「ふふっ」

 疲れてしまって、悲しむことすら出来ない。

 むしろ自分自身の愚かさに、可笑しさが込み上げて来る。


 いる筈がなかったのだ。

 考えるまでもなく、あの人がこんな所にいないことくらい分かり切ったことではないか。

 私は結局、この星の地球人に誘い込まれたに過ぎない。

 じきに何者かがこの店へ私を連れ去りにやって来るだろう。

 それが救いようのない程に愚かな私が辿るべき運命だったのだ。


「どうなされましたか?」

 戻って来たバーテンダーはカウンターに紅茶の入ったカップをそっと置き、私を見て心配そうに尋ねてきた。


 私はどんな顔をしているのだろうか。

 弱さを隠す気力もない。

「とても疲れたの」

「さぞ大変な思いをされたんでしょう」

 バーテンダーが穏やかな微笑みを向ける。


 私は彼から純粋な優しさを感じた。

 きっと今まで何人もの客を相手に、こうして話を聞いて来たのだろう。

「そうね、でも違うの。全て私が招いたことなのよ。私ね、駄目なのよ。あの人のことになると、それ以外なにも考えられなくなって、気が付けば取り返しのつかないことになっているの」

「恋人を、大事になさっているんですね」


「あの人に会いに、そのためだけにこの星まで来たの。でも何もかもが上手くいかなかったわ。こんなことになるなんて、知らなかった。私にはどうすることも出来なかった。あの人を救うことは、私には……」

「彼はあなたにどんな言葉を?」

「分からないわ。あの人の声を聞く事すら、私には許されなかったの。こんなのって無いわ。私はただあの人に会いに来ただけなのよ。あの人を愛しているの。どんな言葉でもいいから、私はこの気持ちに答えが欲しかったのに…」

「……」

「ごめんなさい、全く意味が分からないわよね」

 私は謝るも、なぜだか笑ってしまった。


 どうしてだろう、この星に来て初めて心から笑った気がする。

 きっと私は解放されたと、そう思ってしまったのだろう。

 どうすることも出来ないと言葉にしたことで、理解してしまった。

 これ以上何を犠牲にしても報われることはない。


 無駄なのだ。

 私はあの人を諦めてしまった。

「本当に愛していたわ」


 少しだけ冷めてしまった紅茶を一口飲んだ。

 落ち着いたベルガモットの香り、私の好きなアールグレイ。

 海の見える部屋で、あの人と飲んだのを良く覚えている。

 何気ない日々も、今では全部手に届かない思い出なのね。




「ありがとう、その言葉を聞きたかったんだ」

 バーテンダーの声に、私はすぐさま彼を見る。

「……なに?」

「君の口から、聞きたかった」

 バーテンダーは微笑んだまま、じっと私を見つめていた。

 まるで私の言葉が自分のために向けられたものであるかのように。


「あなたは…あの人ではないでしょう?」

 私がそう言っても、バーテンダーは表情を変えることなく、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。


 やがてその顔が霞んでいく。

 急いで目を拭うが、今度は涙など流してはいなかった。

 しかし、視界は霞んだまま。

 それどころかもはや目の前の彼が誰であるのか分からないほど、世界は歪んで見える。


 いや、歪んでいるのは目に見える全てでは無い。

 まるでくり抜かれたようにバーテンダーを中心としたその周辺だけがぼやけている。


 私は何が起きたのか分からなかった。

 もはや人型の虚空と化したその空間を、私は深く瞬きをしてからまた瞳を凝らした。

 だがそんなことをする必要はなかった。

 視界は嘘のように晴れ、そこに誰がいるかなんてことは、しっかりと見なくても分かったのだ。


「僕は、僕だよ。君に会いたかった、どうしても」

 優しく微笑むあの人が、そこにいた。


 私の脳は混乱を極め、しばし言葉を発することを忘れた。

 有り得ないからだ。

 何一つ思い通りにならないこの星で、こんなこと。

「ふ…ふふ、夢だったのね、これ」

 気持ちを落ち着かせようと、ティーカップへ手を伸ばす。


「でもいつから……」

「夢じゃない。信じて」

 あの人の手が、私の手にそっと触れた。

 あたたかい。

 忘れるはずもない、あの人の温もりだった。


 記憶の中にしかいなかったあの人が今、私の手を握っている。

 それはどんな言葉よりも強く、彼が本物であることを私に伝えた。

「分からないわ……」

「なんて説明すればいいかな」

「あなたはここにいる。それだけは信じられる、いえ、信じたい。本当にあり得ないことだけど。あなたの温度、この温かさだけで、何も説明はいらない。分からないのはそれではないの」


「全ては君の記憶にあることなんだ」

「どういうこと?」

「もう時間がない。だから話すよ。君はこの星に来てからいくつかの違和感を覚えなかったかな。特に酒場に入ってから、このバーへ辿り着くまで、それは次第に強く感じられたはずだ」

「時間がないって、ちょっと待ってよ。私はもっとあなたと…」

「考えて。とても大事なことなんだ」

 彼は諭すような言い方をして、私を力強く見つめた。


 優しさに満ちた手が私から離れていく。

 再会を喜ぶ時間さえ惜しいのだと、すぐに理解した。


「ええ、おかしなことはあったわ。でもそれは、地球とは環境が違うこの星へ来たせいだと軽く流せる程度のものだったと思う。酒場で起きたことは確かに身の危険を感じたけど、私はこうして無事にここにいるわ」

「それは本当に無視できるほどのことかな。君は酒場にやって来た女性から吸わされたドラッグのせいで、危うく捕らえられてしまうところだったね。君は朦朧とした意識の中、それでも逃げ伸びてここまでやって来た」

「そうね。でもそれが事実であって、それ以外のことはなにもないわ」


「君は僕に会うためにこの星へ来た。でも君のその目的はここカエルムの、正確にはこの星の地球人にとっては好ましいものではない。君は監視されなくてはならなかったんだ。もし君がこの星に害をなす存在だとみなされたら、すぐに捕捉されてしまうだろう」

「でも私は逃れたわ」

「本当にそう思うかい? 君は酒場で、あの足元もおぼつかない状態で、傷一つ負うことなく追跡の手を逃れた。君にとって何もかもが不都合に働くこの星で、君はそんな有り得ないことを成し遂げたんだ。追跡者は一人じゃなかっただろう? 真っ暗な夜道を問題なく走り切ったのは何故? 都合よくタクシーが通りかかったのは? まるで物語の中を生きているようだと、ほんの少しも思ったりはしなかったかい」

 と眉ひとつ動かさず彼は私に言った。



 物語。

 その言葉が私の心に大きな波紋となって広がる。


 人物の筋道立った行動により展開していくもの、またそれを語り話すこと。

 もちろんこの人物というのは物語を作る要素であるから語り手は別にいる可能性が高い。

 語り手は私ではない。

 ならば彼の言葉が意味することは。


「まさか、そんなこと……」

 口にするのも恐ろしい。

 私が生き、私だけが見ていると思っていた世界が、誰かに読み解かれ共有される物語だとしたら。

 私という人物、それを外から覗く観測者の存在。

 全てが一つの結論に収束していく。


「こんなこと、信じたくないわ。これだけは…」

「受け入れるんだ。そうじゃなきゃ僕は君を助けることが出来ない」


 私は初めからこの人を救う事なんて出来る筈がなかった。

 結末など既に決まっていたのだ。

 この星へ来たのだって、それより以前から私が重ねてきた苦労も犠牲も全部、一つのストーリーを構成する要素でしかなかった。


 私の人生。私の物語。私の記憶。

 彼を愛した、軌跡。

 それは、このカエルムという星の礎と成り得る重大な情報を秘めた、私の脳。


「私は彼らに捕えられてしまった。記憶のサルベージは今まさに、行われているのね」


 夢であって、そうではない。

 全ては私の記憶。

 その中を、私は監視されながら生きてきた。

 それなら目の前にいるあなたは誰なの。

 観測者ですらないあなたが私の中にいるのは何故?


「君がそれを自覚することが必要だったんだ。大丈夫、こんな物語はすぐに終わらせる」


 私は彼を信じる。

 たとえ記憶の中でも、ここまで会いに来てくれたあなたを。

 そして何もかもが理不尽なこの世界が現実でないなら、まだ希望は残されている。


 あなたを救い出すわ。

 今度こそ。

読んで頂きありがとうございます。

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