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私はあの人に辿り着くことは無いのかもしれない。
別に私がいるこの星と、彼との物理的な距離について言っているのではない。
心の距離。
ありきたりな言葉だが、そういう意味で私はあの人と隔たりがある。
それがどれ程の距離かは分からない。
だから確かめに行くのだ。
私が育ったこの地球を旅立ち、彼のいる星。
ある日突然に私の前から姿を消した、最愛の彼の元へ。
『間もなく発車致します』
電車のシートに座る私の耳に、無感情なアナウンスが届く。
僅かな揺れと共に窓の景色は流れ、やがて加速していく。
この電車はそれなりにゆっくりと走るから、目的地までは2日はかかるだろう。
焦ることはない。
今こうしている間にも、確実に私はあの人に近づいているのだから。
宇宙へ出たのは初めてだが、映像で見たことがあるように外は限りない星の海だ。
それよりもお腹がすいた。
私はカバンから、家で作って来た握り飯を取り出し、それを膝の上に置いた。
包みを解き、口もとへ持っていったその時、
「お客さん、車内への食べ物の持ち込みは禁止されております」
声がしたほうを見ると、すぐそばで車掌と思しき者が私を見下ろしていた。
見た目は人間に近いが、二つ目の上に同じようにもう二つの目が付いている。
どちらの目に合わせるべきか一瞬迷ったが、上二つは良く分からない方向へ向けられていたため、私は彼の下の目を見ながら答えた。
「ごめんなさい、知らなくて」
「最近はいろいろと物騒ですから、厳しくなってまして。ここでの食事は全て車内販売でお願いしますね。ではこれは私が預かりましょう。うん、絶妙な塩加減で」
車掌はそう言って、私から没収した握り飯を頬張りながら隣の車両へ行ってしまった。
変わってはいるが、星間を行き来する電車を任されているくらいだからきっと優秀な人種なのだろう。
私は大人しく車内販売を待つことにした。
地球外の食料が口に合う事を切に願う。
変わり映えのしない車窓を眺める私に、やがて穏やかな睡魔が襲う。
こんな時、思うのはやはり彼のことだ。
凛々しく優しい、私を愛してくれたあの人。
その実、何もかもが勘違いだったのかもしれない。
でも私にとっては彼との思い出が全てなのだ。
この気持ちだけは疑いようのない事実。
これが一方的なものでないことを確かめたい。
そして問い詰めるのだ。
なぜ、何も告げることなくあなたは旅立ってしまったのかと。
そのために私はこの底なしの闇を進んでいる。
ただそれだけのため。
それだけで私はどこへでも行ける。
驚いたことに、車内販売ではあらゆる星の食べ物が用意されており、地球人向けの物もいくつかあったので、私はハンバーガーを2つ買った。
他の星の料理にも興味はあったのだが、こういう時に下手に冒険はしたくないと思ってしまうのが、やはり私の性格なのだろう。
しかし、それでいい。
最も優先すべきは、無事に彼の元へ辿り着く事なのだから。
慣れないものを食べてお腹を壊しでもしたら大変だ。
地球一ポピュラーなチェーン店のハンバーガーを食し、そこそこに空腹を満たす。
それで十分。
ピクルスは噛まずに飲み込む。
これはあまり好きではない。
電車はいくつかの星を通過し、やがて目的の星へ到着する。
「******、*******」
アナウンスは聞いたことも無い言語で何かを告げたが、間違いない。
地球によく似た小さな惑星、『カエルム』。
正確には、かつての美しかった地球によく似ている、と言うべきか。
この星の開発に関わったおよそ6割が地球人だそうだ。
故郷を食い荒らし、新たに見つけた星を天国と名付けるなんて、なんとも都合の良いことではないか。
逸る気持ちを抑えられない私は電車が停止する前から座席を立ち、降り口の前でドアが開くのを待った。
電車はまるで焦らすようにゆっくりと減速していき、やがて完全に動きを止めた。
そしてドアが開かれると車内に風が吹き込み、私は初めて吸い込むこの星の空気を味わった。
なんて澄んだ空気だろう。
機械によって洗浄されたものとは違う、命が生み出す鮮度。
それを感じることが出来た。
あの人がこの星へやって来たのは、何もかもが作り物の地球に嫌気がさしたからだろうか。
もしそうであっても構わない。
彼がここで幸せに暮らしているのであれば。
だがそんな理由で故郷を飛び出すような人ではないことくらい知っている。
あの人はそんな理由で誰かを悲しませたりしない。
駅を出た私の目に飛び込んできたのは、いつか見たことのあるような街並みだった。
あれは、ふと思い立ちサンフランシスコへ一人旅に行った時であっただろうか。
その時に見た街並みと似ている。
もしかしたら意図して似せているのかもしれない。
「ほんと、地球人ていうのはなんでも自分好みに作り替えてしまうのね」
旅疲れのせいか、私は誰へでもない悪態をついた。
こんな下らないことをしている暇はない。
たくさん停まっているうちの、一番見栄えの良い黒塗りのタクシーを拾う。
「ここから2キロほど先にあるマグナ病院まで」
私は運転手に告げた。
「お客さん、地球から来たの? 私もそうでね。こっちに知り合いでも?」
「ええ、まあ」
なるべく感情を込めず運転手に答える。
会話など求めてはいない。
それよりも、すぐさまあの人のいる病院まで向かって欲しかった。
そう、彼は現在どうやら入院しているらしい。
理由は分からない。
なにしろ、彼がこの星にいるという情報を入手するだけでとても苦労したくらいだ。
『まるで全てを何者かに隠されているようだ』
あの人に関する情報収集を依頼した情報屋の一人は、私にそう伝えた。
それはきっと、あの人が何かしらの事件に巻き込まれてしまったことを意味している。
それもただ事ではない、とても大きな事件に。
「ここは空気が美味しいでしょう」
「…そうね」
状況がどうであれ、もうじき全てが明らかになる。
私が最も知りたいことも。
今でもあなたは私のことを愛しているの?
「着きましたよ」
と、運転手。
そんな事は知っている。
大きいなんてものじゃない、視界に収まりきらない程の、それは巨大な建物の前でタクシーは止まった。
何階建てだろうか。
20階くらいはありそうだが、面倒なので数えるのはやめておく。
私は運転手に代金を支払ってからタクシーを降り、改めてその全体を見渡す。
ここがマグナ病院。
カエルムで最も大規模な総合病院。
ここにあの人がいる。
取敢えず中央入口で降ろしてもらったが、入口は他にいくつもある。
用のある診療科によって入る場所が異なるのだろうが、彼がどんな理由で入院しているかも分からないから、このまま進むことにする。
やたら大きな自動ドアから中に入ると、10人ほどの受付が座る無駄に長いフロントが目に入った。
いや、これだけ大きな病院だから、むしろ小さい位なのかもしれない。
私はさらに直進し、一人の受付の前に立った。
「面会の予約をしていた者ですが」
「お名前を」
落ち着き払った様子で、3つ目の受付嬢は言った。
どこの星の出身だろうか。
紫色の瞳の、右下のものだけがやや薄くて魅力的だ。
私が予約名を伝えると、彼女は目の前のコンピュータでスケジュールを検索した。
やがて画面から顔を上げると、3つの瞳が私を見つめる。
「案内の者が参りますので、申し訳ありませんが少々お待ち頂けますか」
言葉の割には威風堂々と彼女は言った。
「分かったわ」
私はそれだけ答える。
案内なんかされなくても、彼のいる病室さえ教えてくれれば良いものを。
しかしそれがこの病院のシステムならば仕方ない。
腑に落ちないが、エントランスにそれとなく置かれたソファーへ腰を下ろし案内役の到着を待つことにする。
あの人は、まずはじめに私を見て何て言うだろうか。
こんな遠く離れた星までやって来た私を見て。
懸命に動揺を隠すかもしれない。
そして、変なところで負けず嫌いな彼は何食わぬ顔で「どうしたのこんな所で」なんて言うに違いない。
想像に易く、思わず笑ってしまいそうになる。
「お待たせしました」
聞こえてきた声に、私は咄嗟に感情をしまい込む。
声の主は、受付と同じ3つ目をした男だった。
白衣を着ており、彼が医者であることはすぐに予想できた。
顔には細かな皺が刻まれ、髪はやや薄い。
目の数を除けば、やはりほぼ地球人と同様の見た目をしている。
「行きましょうか」
やや高い声の男は、こちらの反応を待たずに背を向けて歩き出す。
男の正体や、どこの病室へ向かうのかなど確かめたいことはいくつかあったのだが、私はとりあえず彼の後を付いて行くことにした。
受付を通り過ぎ、少し進んだ先にはエレベーターが4つ並んでいた。
そのうちの適当な一つに我々は乗り込んだ。
「私はね、彼の主治医をやっておりまして」
男はそう言って17階のボタンを押した。
そこで私は、この病院が25階建てであることを知る。
そんな事より、
「主治医がわざわざ迎えに来るなんてね。これがここのシステムなのかしら」
「ケムリと申します。よろしく」
「……」
会話が苦手なタイプなのだろうか。
それか、とてつもなく耳が遠いかのどちらかだ。
「普通はただの面会に案内なんて付けませんよ。会いたきゃ勝手にどうぞという感じです。ただ、彼に関しては特別でして」
「……特別?」
かみ合わない会話に歯がゆさを感じながら、私はケムリ医師に尋ねた。
「ええ」
「その、どういう意味で特別なのかしら」
「恐らく面会の許可が下りるのはあなたぐらいでしょう。まあ、会ってみれば分かる」
ケムリ医師は私が納得するような答えをくれなかった。
その時ちょうどエレベーターが17階に到着し、ドアがゆっくりと開かれる。
「さあ、行きましょう」
彼は先ほどと同じように言って歩き出した。
私もそれに続く。
長い廊下を進むが、部屋は突き当りに見える一つを除けば他には無いようだった。
それにあの部屋、こうして遠くから見ただけでも私の知る病室とは違うことが分かる。
重苦しい金属の扉は固く閉ざされており、それは入院患者を収容するにはあまりに物々しいように思えた。
「本当にあそこに彼がいるの?」
「ええ。なぜそんなことを聞くんです?」
「いえ、ちょっとイメージと違ったものだから…」
「会えば全て分かるって言ったでしょう。少々びっくりするかもしれませんがね。着きましたよ」
そう言ってケムリ医師は扉の電子キーに数桁の番号を打ち込んだ。
これも普通ではない。
ただの病室にこんな厳重なロックなど必要ないはずだ。
いや、もはやあれこれ考えることは無駄だ。
すぐそこにあの人がいる。
私はようやくここまで辿り着いた。
彼のもとへ、この場所まで。
扉は開かれ、拭い切れない不安を抱える私の目に映ったもの。
真っ白なシーツが眩しいベッドが一つ。
その上には、透明な円柱の容器だけが置かれている。
容器は黄色がかった液体で満たされており、何本ものチューブやコードが接続されている。
そこに、彼はいた。
「さあどうぞ、奥へ」
ケムリ医師は言った。
その言葉に従い、ベッドのそばまで歩み寄る。
そして遂に、私はあの人との再会を果たした。
どれほど待ち望んだことか。
それなのに、幾度となく思い描いた感動は遥か彼方へ、私は彼をただ見つめた。
液体の中で静かに揺れる、あの人の『脳』を。
すぐ終わる予定です。