不自然の正体
耳を塞ぎたくなる激しい耳鳴りで目が覚めた。いや、実際に私は人差し指を使って両耳を塞いだのである。しかしもちろん、そんなことでは内なる耳鳴りの音を消すことは出来ない。
目の前は闇しかない。まだ夜が明けるような時刻ではないと感じ、枕元の目覚まし時計で確認すると、午前三時にもなっていなかった。
奥秩父の山へと出かけたあの日からは、既に十日ほどが過ぎていた。正月気分はすっかり抜け落ち、この日もあと三時間もすれば起きて、仕事へと向かわねばならない。
耳鳴りは辛いが我慢して寝直そう。そう思って左側に寝返りを打つと、暗闇が支配する部屋の中に白い光がぼうっと浮かび上がっている。ハンガーラックの中だ。そこには普段着ているシャツや上着に混ざって、山に登る時に着たレインウェアも吊るされていた。
私は目が悪い。裸眼では両目でも0.1を下回る。白い光が浮かんで見えるのはレインウェアの背中で、私が横になっているベッドからは2メートルもない。しかしその光の正体が何なのか、極端に近視の進んだ私の両目では、ぼんやりとしか見ることが出来ない。部屋のカーテンは閉めきってあり、月明かり等、外からの明かりが洩れてくることはあり得なかった。
白い光の正体を見極める為にはもちろん、眼鏡を掛ければ良いだけの話だ。そうしなかったのはもしかすると、そんなモノの正体をまじまじと目にすることを本能的に避けようとする心理が働いたのかも知れない。そう、暗闇に浮かんだ白い光は、何となく人間の顔のように見えたのだ。
「そなたの背中には、何か良からぬモノが憑いておるぞ」
不意に、あの日ベンショ・ハンに言われた不気味な言葉が思い浮かんだ。
しかしあの時の私は、やまされ教などという聞いたこともない宗教を胡散臭く感じ、ベンショ・ハンの言葉を真に受けることはなかった。
ベンショ・ハンは私に、墨で大きく【やまされ!】と書かれた半紙を渡し、「家に帰ったらこの紙を、部屋の丑寅の方角に貼ると良い。そして朝と言わず夜と言わず、時間のある時には『やまされやまされやまされ……』とやまされの呪文を唱えるのじゃ。そうすればそなたの背中に憑いた良くないモノも、いずれは諦めて出て行くだろう」と言った。
しかしベンショ・ハンの言葉を話半分にしか聞いていなかった私は、貰った紙はバックパックの中に丸めて突っ込んだままになっているし、もちろんそんな呪文などは一度たりとも唱えたことがない。そもそも、丑寅などという仰々しい言い方をせずとも、素直に北東の方角と言えば良いではないか、この似非宗教家め、と私は胸の内で毒づいた。
私は眼鏡を掛ける代わりに、目を細めて白い光の正体を見極めようとした。しかしそうしたことが却って睨み付けるような顔になり、そのモノの怒りを買ってしまったのかも知れない。
次の瞬間、その白い光ははっきりとした意志の力でかっと目を見開くと、レインウェアの背中を飛び出し、怒りを露にした物凄い形相で、ぐんと私の目の前へと迫った。それは、ぼさぼさの白髪を無造作に振り乱した男の顔だった。
反射的に目を瞑った私はかつて経験したことのない恐怖に叫びそうになったが、肝心の声が喉の奥でつっかえた。男の顔が迫ってきたのと同時に、私の体は金縛りになり、身動きが取れなくなっていたのだ。
恐怖のあまり私は目を開けることすら出来ず、金縛りが解けるのをひたすら待ち続けた。思わず叫ぼうと開きかけた唇は冬の乾燥にやられていて、ひび割れた上唇から一筋の血が滲み出し、舌を伝い喉の奥へと落ちていく。その間も臍の辺りに感じる、じんじんと痺れるような圧迫感は消えることなく続いた。そして私の脳裏には男の、あの怒りに満ちた鬼のような形相が焼き付いている。
特徴のある濃く太い眉毛と、エラの張った四角い顔。それはあの日、四阿屋山の山頂で出会った病的に愛想のない、白装束の男の顔だった。
やまされやまされやまされ……。
訳も分からぬまま私はベンショ・ハンに教わった呪文を胸の内で唱え続けた。そして目を閉じたまま恐怖に耐えていた私は、あの時この男に感じた不自然さの正体が何だったのか、はっきりと思い知ることが出来た。
あの日、四阿屋山の上空には雲一つない青空が広がっていた。そして南側の斜面の茂みから男が現れたのは、まだ朝の寒さが残る午前九時半頃だった筈だ。
そして――。
と私は、恐怖に打ち震えるベッドの上でやまされの呪文を唱えながら、鮮やかにあの時の光景を瞼の裏に思い描いていた。
あの時私が不自然だと感じながらも、それが一体何なのか分からなかったこと。例えば男の顔の中に、目が一つしかなかったり鼻の穴が三つもあるといった、そんな不自然さなら私は見た瞬間に気が付くだろう。だが決定的に不自然であるのに、何故に私は気が付かなかったのか?
白装束を身に纏い、私のすぐ前を通り過ぎる男の体からは、この世のモノなら必ずそこになければ説明がつかないものが抜け落ちていた。それは、影だ。
午側の斜面の茂みより突如現れ、丑寅の方角へと歩み去る男の後ろ姿には、戌の方角へと長く伸びていなければならない筈の影がなく、そこには巳の刻の太陽に照らされた岩肌の露出した地面が、ただあるのみだった――。




