四阿屋山 その2
すわ野性動物の出現か!
暖かな陽気に誘われ、季節外れのツキノワグマでも出てきたか、と身構えた私であるが、茂みの獣道を掻き分けるように現れたのは、一人の登山者だった。
まあ、当たり前と言えば当たり前だ。こんな人気のない山に一人でいると、心細さからつい妙なことを考えてしまうらしい。
六十絡みと思しきその男は、札所巡りで使う白装束を身に纏い、重い病気でも患っているかのような、どす黒い顔色をしている。
「こんにちは」
しかし私が挨拶をしても、男はやたらと特徴のある濃く太い眉毛と、エラの張った四角い顔をちらりとこちらに向けただけで、何の言葉を返すでもなく、すぐにクサリ場へと続く岩場に消えていった。
再び一人になった私は何か言い知れぬ不自然なものをその男に感じたが、その不自然さの正体が分からない。ちらりと自分に向けられた目はまるで、何かに怒っているようでもあったが、考えてみてももちろん、思い当たる節はない。
まあ、せっかくの山頂なのだと、用意してきたおにぎりとサンドイッチで腹を満たした。しばらくして疲労が抜け切ると、そのもやもやとした何かを残したまま、山を下ることにした。
時刻はまだ十時前、上空には相変わらずの抜けるような青空が広がっていた。
クサリ場は登りよりも下りの方が圧倒的に恐ろしい。それこそオシッコも漏れようかという恐怖と闘いながら、まるで幼子の伝え歩きのようなぎこちなさで何とか下り終えた。
クサリ場さえ終わってしまえば、まだそれほど疲労が溜まっている訳でもなく、残りの道は殆ど惰性で下っていくことが出来る。再び例の両神神社まで戻ってくると、賽銭箱の前に立っている、この日二人目の登山者と出会った。
私と同年代の男のようだ。
一人目の登山者には完全無視されたこともあり、私は何の挨拶もせずに男の後ろを通り過ぎようとした。
「ちょっと、ちょっと」
すると、男の声が背中から追ってきた。
「あ、ああ、こんにちは」
私はこの時初めて気がついた、という体で振り向くと、挨拶をした。
「ここの神社のおみくじって、どこにあるか分かる?」
そのまま行き過ぎようとした私に、男は馴れ馴れしい口調でそう訊いてきた。
「ああ、どうやら、ないみたいですね」
「何だ、やっぱりそうかよ。騙された。まあ、十円しか入れなかったから、良しとするか」
「それは幸いでしたね」
私は適当に相槌を打ちながらにこやかにその場を後にしたが、バカかお前、こんなうらぶれたありがたくもない山の神社で、しかもたった十円こっきりの賽銭で、そこに山登りの安全から家内安全、健康祈願に恋愛成就、挙げ句の果ては今年こそジャンボ宝くじが当選しますように、などと思いつく限りの願いを込めようが、ただの一つもそんなものが叶えられる筈があるか、この吝嗇家め、と心の中で罵倒することは忘れなかった。
それからしばらくすると、今度は白装束を身に纏った五人組の団体と鉢合わせた。五人は見事な縦一列の隊列を組みながら歩いてきた。もしかしたら山で修験道に励む山伏のような人たちかとも思ったが、特に法螺貝や金剛杖といった、山伏独特の恰好をしている訳ではなく、普通の札所巡りで使う白装束を身に纏っているだけである。
「ちょいと待たれい!」
軽く会釈だけして通り過ぎようとした私のことを、先頭にいた男が腹の奥から絞り出すような、静寂の山に響き渡る声で呼び止めた。
「は、はいっ」
あまりの迫力にビクッと体を震わせた私は、萎縮して声が裏返った。
男の眼窩は落ち窪み、彫りの深い痩せた顔を覆うように豊かな顎髭を蓄えてはいるが、よく見るとまだ三十歳位の若者のようだ。
「うーん、むむむ……」と男は目を閉じたまま苦しそうな声を上げ、「そなたの背中には、何か良からぬモノが憑いておるぞ」と言った。
「良からぬ、モノ……?」
そんな穏やかでない言葉に私が怯むと、男はそうだと言うように大仰に頷き、懐から名刺入れを取り出した。
【やまされ教 教祖 ベンショ・ハン・ヤマサレ】
手渡された名刺には、そう印刷されていた。
「……だまされ教?」
「だまされ、ではない。やまされだ」と男は、間髪入れずに私の間違いを正すと、「ちなみに私の法名も『ベンジョ・ハン』ではなく『ベンショ・ハン』であるからお間違いなきように」と言わずもがなのことを言った。
それからその自らを「ベンショ・ハン」と名乗るやまされ教の教祖だという男は、ゴホ、ゴホと軽く咳払いした後で、ことのほか神妙な顔つきになり、こう言った。
「あー、もしそなたさえ良ければ、今この場でそなたの背中に憑いておるモノを、お祓いして差し上げよう」
どちらかと言えば私は、幽霊や悪霊といったものを信じる側の人間である。しかしだまされもとい、やまされ教などという聞いたこともない、まるで胡散臭さを絵に描いたような宗教を無条件で信じる程のお人好しではないし、お祓いなどを頼んで後から法外な祈祷料を請求されたりするのではないかと、怪しむ気持ちもきちんと持ち合わせた疑い深い人間である。
「申し訳ありませんが、今日は急いでますので」
そう言って私が断ると、ベンジョ・ハンもといベンショ・ハンは、意外な程あっさりした顔で「それではこちらの紙を差し上げよう」と懐から、書道で使う半紙のようなものを取り出した。
そこにはただ【やまされ!】とだけ、大きく墨で書かれている。しかしお世辞にも達筆とは言い難い稚拙な字で、ともすると小学生の書く習字のようでもある。この男がどこまで真面目に言っているのか判断に苦しむが、無料で貰えるのならと、有り難く頂戴した。
その後何事もなく無事に下山した私は、家に帰ると冷蔵庫からビールを取り出し、一人でこの二度目の成人の日を祝うことにした。
心地好い疲労からあっという間に酔いは回り、この日起きた様々な出来事はビールの泡とともに、私の記憶の奥底へと深く沈んでいった。