宝登山神社
目が覚めると耳鳴りがした。
否、耳鳴りは常にしていたに違いない。その他の物音が一切途絶えた真夜中だからこそ、耳鳴りばかりが強調されて聞こえてきたのだろう。
前の晩に酒を飲み過ぎたせいで、口の中がからからに渇いている。あるいはそのせいで目が覚めたのかも知れない。
外はまだ完全な夜の闇に包まれており、同居する朝の早い両親ですら、起きる気配が微塵もない。
キッチンに行き水を飲を飲んだついでに壁の時計を見ると、午前三時を少し過ぎたところだった。前の晩は風呂にも入らず午後九時前には布団に潜ってしまっていたので、それでも睡眠時間としては極端に短いわけではなく、肌を差す寒さに眠気も吹き飛んでいた。
慌ただしい正月休みが終わり、この日は成人の日を含めた三連休の中日に当たる日曜日だった。
午前三時、起きるにしてはあまりにも早い時刻に、もう一度布団に潜って寝直そうかと考えた。しかしこのまま二度寝という甘い誘惑に負けてしまっては、この三連休の中日という貴重な一日を、何するでもなく狭い部屋の中でのんべんだらりとただ闇雲に鼻くそでもほじりながら無為に過ごすといったことが容易に想像され、それではしょうがない、山登りでもしてくるかと考えた。
おいおい、待ってくれよ。することがないから山登りだとぉ~。
と、真面目に計画を立てて山登りをされている方なら、こんないい加減に、場当たり的に山へ行こうとする私の行為を非難するであろう。
まあ、そんなお叱りは甘んじて受け入れるとして、その後、そそくさと身支度を整えた私は午前四時前にはマイカーに乗って家を出た。とは言え、登山初心者の私が真冬のこの時期、そんな大層な山に登れるわけもなく、目指したのは秩父方面の里山だ。
栃木県南部にある自宅から秩父までは、朝の早いこの時間、高速道路を使う必要はない。進路を西に取り、一般道をひた走る。一時間ほどで熊谷の町を抜けると国道140号線に合流する。やがてこの道は荒川上流の風光明媚な渓流に沿って続いていく。
昼間は観光客で賑わうこの道も、夜明け前のこんな時刻に走る車はなく、空いた道路を気分良く走行していると、目の前に現れたのは長瀞にある有名な宝登山神社だ。
国道沿いにある大鳥居の前で信号待ちをしていると、参道が綺麗にライトアップされているのが目についた。まだ山登りをするには早過ぎる時刻だし、あまつさえこの年はまだ初詣もしていなかったことに思い至り、それならばとその神社へ寄り道をすることにした。
おいおい、待ってくれよ。時間潰しに初詣だとぉ~。
と、毎年きちんと初詣をされている方なら、こんないい加減に、場当たり的にお参りをしようとする私の行為を非難するであろう。
まあ、そんなお叱りは甘んじて受け入れるとして、私はすぐにウインカーを出すと、右折をして神社の駐車場に車を乗り入れた。
看板に有料と大書されたその駐車場も、こんな時刻には係員もいやしない。当たり前だ。新年もすでに十日が過ぎ、こんな酔狂な時刻にお参りをする人間など皆無である。
だだっ広い駐車場に停められたのは、私の車一台きりであった。
それでも防犯カメラで撮影でもされていやしないかと警戒し、一応、財布だけは分かるようにとしっかり右手に持ち、駐車料金払う気満々の男を演じつつ車を降りた。そして私は白々しく両手を横に広げるゼスチャーで、何だ、係員もいないのか、それじゃあ駐車料金も払いようがないじゃないか、と口の動きだけは「ジーザス」と大げさに天を仰ぎ、次の瞬間には財布はズボンのポケットにそそくさと戻した。
二の鳥居をくぐり階段を上っていく。誰もいない参道に私の靴音だけがひたひたと響き渡る。やがて現れた本殿も、綺麗にライトアップされていた。
デジカメを持参していた私は、せっかくなので無人の本殿を撮影した。だが映した写真を見てみると、寒さに震えていることもあり、激しく手ぶれを起こしている。まあ、あまり性能も良くないデジカメだったので、ライトアップの写真などではよくあることだと思い、もう一度慎重に撮影した。だがその写真も同じように手ぶれを起こしている。
「う~ん……」
思わず声を洩らしたのは、それが本当にデジカメの性能のせいなのか、それとも自分の未熟な腕前のせいなのか、あるいは何か、その他の原因に依るものではないのかと、疑問に感じたからだ。
その後も何度か撮影したが、写した写真はどれも同じように、ぶれているものばかり。いくら鈍感な私でも、さすがにおかしいと感じた。
ふと周りを見渡して、怖くなった。
この日から一カ月ほど前のことである。私はネットで公開されていた心霊写真特集のページを開いた。その中には夜中の神社で撮影された写真もあり、その中の一枚には、鳥居の横棒のあたりに男の人の顔のようなものが映っていたのだ。
よせばいいのにこの時の私は、よりによってそんなものを記憶の奥からたぐり寄せると、それを鮮やかに頭のスクリーンに映し出していた。
その時、コツーン、コツーン、と参道の階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
ああ、良かった。誰か参拝客が来たんだ。
そう思って音がする方へ顔を向けると、そこには漆黒の闇が広がるばかり。階段を上ってくる者など誰もいない。
その瞬間、全身の毛が総毛立つ思いがした。
ひゅう~。
鳥肌の立つ顔面を、こんな極寒の夜に生暖かい風が撫でていく。
次の瞬間、私はくるりと社殿に背を向けると、転げるように階段を駆け降りた。一目散に自分の車へと舞い戻った私は、もちろんお参りを終えていないことは分かっていたが、急いで車を出すと、宝登山神社を後にした。
しばらくは心臓がバクバク音を立てていたが、バックミラー越しに映る参道の灯りがなくなると、ようやく落ち着きを取り戻すことが出来た。あの時、駐車料金など払わなくて良かったと、つくづく胸を撫で下ろしていた。