⑤
「最近、目が游いでたのよ。だから絶対、何かあると思って、すぐにテレビで流れている探偵会社に依頼してやったわ」
「・・・そ、そう」
「そうしたら案の状よっ! しかも四日で結果が出たわっ! アイツ、どうせ早々見つかるなら、一日で見つかれっていうの! 探偵料、一日幾らすると思ってんのよ!」
「・・・」
「しかも相手が、取引先のスーパーの経理ですって! しかも十歳近く下! はぁっ? って感じ! どうせ浮気するなら、私が高額慰謝料毟り取れるくらいの資産家の年増にしろっつーのぉ!」
「・・・」
「スーパー自体はデカイから基本給はそこそこかもしれないけど、事務職じゃ高がしれているだろうし、よりにもよって、母一人子一人の母子家庭ですって! そんな家庭状況前面に押し出されたら、きっと裁判やったって高額慰謝料は毟れないじゃない! アイツ、何してくれちゃってんのよっ!」
「・・・相手、母子家庭なんだぁ・・・」
「そーよ! 稼ぎが足りないから、金持ってそうな男を引っかけたんでしょ! 誰がやるかっての! あの馬鹿はくれてやっても、金は一文だってやらないんだから!」
歯軋りが、聞こえた。これは幻聴でもなんでもなく、正真正銘、本気で鳴っている音だった。母さんの怒りがそれだけ深く感情的であるという証ではあるのだが、しかし内容はある意味、冷静だった。しかも先ほどからずっと一貫している。一貫して、金の話だ。
一体、母さんにとって父さんはどういう存在なのだろうと、思わずその存在意義に疑問を抱かずにはいられない内容で、ともすると、哀れみの涙すら滲みそうになる。
勿論、どれだけ母さんが感情的であろうとも、浮気という、共に人生を歩んでいるはずの相手に対する裏切り行為をした父さんが悪いに決まってはいるのだが。
・・・決まってはいるが、多少、釈然としないモノを感じるのは、俺がその、結構な発言をされている父さんと正真正銘血の繋がりがある親子関係だからだろう。俺の父親って、どういう扱いされる存在? みたいな疑問が、多少、胸に過ぎってしまうらしい。
色々なものが胸を過ぎるが、それでも母さんが立て続けに上げる咆哮によって、大体の事情は分かった。ただ、分かってくるにつれて何となく、落ち着かない気分になってくる。
昨日からずっと落ち着いた気分ではないのだが、今は昨日から続いた落ち着きのないそれとは別な意味で、落ち着きを失っている感じだ。
浮気という行為には、当然、相手がいる。そして、相手にも、場合によっては家庭があったりするのだと、今更ながら気がついたのだ。
母子家庭ってことは、旦那がいないわけだから、ダブル不倫ではないのか・・・、とか、でもこっちの家庭のことどう思ってるんだろう・・・、とか、そういう、妙に生々しさを感じる事実を知ってしまったからかもしれない。これは本当に現実のことで、相手がある話なのだ、と。
やっぱり良くないことだよな、そう改めて思ったのは、これが現実のことだとようやく実感したからだろう。浮気は悪いこと、不倫はやってはいけないこと、そんなこと知っていたけど、実感として分かった、というか。
これは母さんがここまで怒るのも無理はないな、なんて、母さんの怒りに畏れをなして、あまり他のことを感じないでいた心が、やっとそれを感じて、怒りまくって一貫した話・・・、金のことばかり言ってる母さんに、同情を抱いたのだが・・・、しかし続いた母さん自身の言葉が、俺のその、母さんに味方する気持ちを粉砕してくださったのだ。
「・・・ったく、キープ君だった分際で、生意気なのよっ、浮気なんて!」
きーぷくん・・・、憎々しげな声が紡いだその単語の意味が、最初、変換出来ないほど意味が飲み込めなかった。しかし続いて聞こえた、「キープ君の中でも、一番ランクが下だったくせに!」とか、「一番真面目そうで、仕事だけはきちんとやりそうだから選んでやっただけなのに、恩を忘れたわけぇ?」とか、「男としての魅力が皆無なアンタをもらってやったっていうのにっ!」とか、次々紡がれるそれに、自然、脳内で『きーぷくん』が、『キープ君』なのだと変換されていった。
『キープ君』・・・、たぶん、俺達の世代ではもう言わない、死語的なものだと思う。でも、死語になっても何となく、話の流れや語感で意味が分かる単語でもあった。だって、キープだ。本物が代わり、という意味だろう。
そして男や女をキープと表現したら、それはつまり・・・、本命の代わり、もしくは、他にも代えがいるその他大勢、という意味だと思う。思う、というか他には考えられない。
「父さんって・・・、本命じゃなかったんだぁ・・・」
考えるより先に、口から言葉が零れ落ちていた。疲れ切った心が、無意識に溜息を零すのに似ている。何の意識もなく、考えもなく、息を吐き出すように単語が零れてしまって、聞こえたそれによって、初めて自分が口を開いていたことを知るくらい、本当に俺が知らない間に零れたものだった。
拙かったかもしれない、と思ったのは、母さんの『あぁ?』という、もの凄く柄の悪い視線を浴びせられたからだ。これやヤラれる、きっと終わりだ、という、具体的な行為が想像出来ない、ただひたすらに不吉な予感だけがしてしまう精神状態に陥り、半ばパニックになりそうになったのだが・・・、幸いにも、俺は無事だった。とりあえず、肉体的には無事だった。
ただ代わりに、知らない方がよかったかもしれない事情を聞く羽目になる。まぁ、既に聞いた台詞の数々で、知らない方がよかった諸々をある程度、知ってしまっていたような気がしないでもなかったが。
「そりゃ、そうでしょ。あんなの本命にする女、いる?」
「え? い、いやぁ・・・、えっとぉ・・・、」
「いないわよ。あんな、見てくれも大して良くないし、気が利かないし、話も面白くないし、平凡通り越して、地面か! っていうくらい平坦な言動と人生を送っている男、好きで本命にするような奇特な女、この世のどこにいるのよ? 私、そこまで変わった趣味の女じゃないから、誰も本命にしたがらないような男、本命にしたりしないわよ」
「そ、う・・・、なんだぁ・・・」
「そうよ。大体、私はもてたからね。こう見えて、流行とかにも詳しくて、話も面白い方だったし、見た目だってそこまで悪くないし・・・、まぁ、凄い美人ってわけじゃないけど、まぁまぁ、見れたのよ、当時はさ。それで、楽しいことは率先してやる方だったから、皆、一緒に居て飽きないタイプだったのね。だからもてたわよ、言い寄る男だって結構いたし、何人かはちゃんとキープしてたんだから」
「へぇー・・・、何人か、いたんだ、キープ・・・、本命以外に数人ってこと・・・?」
「まぁ、本命はいた時期といない時期、両方あったけどね。キープ君はさ、いると便利なのよ。荷物持ちにしたり、奢らせたり、ノート取らせたり・・・、あぁ、ノートは大学の時ね。だから、常時数人名は持ってたわけ。ちゃんと、種類とランクに分けてね。それで、アイツはその中でも一番下っ端なのよ。奢らせようにも大して金はないし、荷物持たせようにも力もないし、おまけに会話もつまらないしで大して役に立つところはなかったけど、でも真面目な奴だから、細々したことを頼んだら、きっちり頼んだ通りのことはやるわけ。だからさ、色々吟味した結果、まぁ、楽しむには適さないから恋人としては失格だけど、会社に行かせて給料確保してくる旦那としてなら合格じゃない? って思って、それで結婚してやったわけ」
「・・・そっかぁ」
「そうよ! それなのに、その恩を忘れて調子に乗りやがって・・・、あぁ、本気で腹立つわっ!」
「・・・」
母さんの怒りは、話している間に再び盛り上がっていった。でも、俺はもう、何も言えない。心の中で、我が子に、オマエはキープ君の子供なんだよって教えるのってどうかと思うんだけど、とか、色々思うことがありすぎて、何も言えなくなってしまったのだ。
思っていることを言いたい気がしないでもないが、口にしてしまったら色んな意味で最後の気もしたし。
父さんはともかく、母さんの方はモテモテな人だったんだな、俺ってモテモテの血も流れているのかもな、でも父親似なんだけどさ・・・、等々、黙ったままぼんやりと色々思っている内に、俺の脳内では見たこともないはずの、若かりし頃の、モテている母さんを取り囲む、父さんを含めた複数の男達の姿が浮かんでいた。
母さんの若かりし頃の姿なんて、知らない。父さんの若かりし頃の姿も、知らない。当然、母さんに選ばれなかったという他の男達の姿なんて端から知る余地もなく、それなのに俺の脳内では、知らないはずの両親の若かりし頃の姿と、父さんと共に母さんを囲んでいる、一応、ライバル関係にあるのだろう若い男達の姿が浮かんでいて、しかも何故かその知らないはずの男達の容姿は、どこか見覚えのある、イケメンばかりで・・・。
あ、ヤバイ、と思った。咄嗟に、それだけは思った。でも残念なことに・・・、残念、なのかは不明なのかもしれないが・・・、とにかく、ヤバイということだけは思っていて、ただ、思ってしまった時にはすでに色んな意味で、取り返しがつかない状態だった。
そもそも取り返しがつく状態なら、ヤバくないわけだし。
「大体、あの馬鹿は他の男達にすら弄られるようなキャラだったんだからっ!」
・・・どうして俺の母親は、母親であるにも関わらず、俺を追いつめてしまうのか? 父さんとのトラブルは、子供である俺には一切の非がないし、負うべき負担もないはずなのに、本当に、どうしてこんなにも、俺に不利益になることばかりしてしまうのか?
母さんに関する永遠の謎ではあるが、とにかくその叫び声が、背を押す最後の一押しになってしまった。たぶん、遙かなる海を臨む、絶壁へ俺を落とす為の一押しだろう。
もしくは、遙かなる空に俺を放り投げる、最後の一押しだったのかもしれないが・・・、どちらにしろ結果に大差はない。結局は俺を現実という三次元の世界から放出する為の一押しだった、ということなのだから。
そしてその一押しを俺自身以外の存在が押した、ということは、つまり俺だけの所為というわけではない、ということだ・・・、と、信じたい。




