【9】母様の憧れの騎士
季節は過ぎて、チサトが来てからもうすぐ1年。
天気がいいから散歩に誘おうと思ったのに、チサトの姿がなかった。
「あれ? 母様、兄様は?」
「1時間ほど前に、茶葉を買いに街に出かけて行きましたよ」
どうやら入れ違ってしまったらしい。
――『クライス兄様』が出かけてしまったのに、取り乱さないなんて。母様、大分回復したなぁ。
母様はリラックスした様子で、趣味の絵に没頭していた。そ
私が兄様の代役をしている時は、出かけると言うと恐ろしいことになった。
いかないでと連呼され、ヒステリックに叫んで縋られるのは、子供心にかなりの恐怖だった。
それが、遠い昔のように思える。
母様が描いてるのは『ヤイチ様』の絵。
モデルがその場にいなくても毎回同じ顔を描けるのだから、母様は凄いなと思う。
母様の部屋には、母様が描いたヤイチ様の肖像画や、『クライス兄様』の絵がたくさん飾られている。
物心ついたときから、母様の部屋はそんな感じだった。
だから、これが狂ってるのか平常なのか、私には判別がつかない。
「僕も出かけてきますね」
母様と別れて、屋敷から出る。
「はぁ……兄様探さなきゃなぁ」
今日は夕暮れまでに見つかるといいなと、そんなことを思う。
チサトと暮らすようになってわかったのだけれど、チサトは超が付く方向音痴だった。
最初は、この世界に来たばかりで道がわからないんだなと思っていた。
しかし、何度も行っているヴィルトの屋敷ですら、未だに1人では真っ直ぐ辿りつけない。
1人で出歩かないでねと言ったところで、本人に全く方向音痴の自覚がないため、あまり聞いてはもらえなかった。
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「……黒髪の男? あぁ、あいつのことか。それならお茶を買って、時計塔の方に行ったぞ」
意外なことに兄様は、お茶屋さんに無事にたどり着いていたらしい。
「ありがとうございます」
威圧感のある店主にお礼を言えば、待てと渋い声で呼び止められた。
「お前もトキビトだろう。どうして街を出歩いている?」
「街を出歩いちゃいけないんですか?」
叱るような言い方に、思わず首を傾げる。
話を聞けば、今近くの領地でトキビトが誘拐される事件が多発しているらしい。
トキビトは出歩かないようにと、国から指示が出されているようだ。
「トキビトなら、家に知らせがきているはずだろう。ほら、これだ」
店主が国から送られてきた手紙を見せてくれる。
これを持っているということは、店主もまたトキビトらしい。
髪は白髪交じりで彫りが深いから、一見トキビトには見えなかった。
「僕、黒髪に黒目なんですけど、トキビトではないんです。曾祖父がトキビトだったらしくて」
「そうか。それなら手紙が来てなくても無理はないな。トキビトにしては幼すぎるから、変だとは思ったんだ」
店主は納得した様子だった。
「家まで俺が送っていこう」
「気持ちは嬉しいですけど、兄様を探さなきゃいけないので」
店主は眉を吊り上げた。
怒らせたのかな?と思ったけれど、心配しているだけだと横にいた店員の女の子が教えてくれる。
「兄様ってあいつはそんな歳でもないだろうに。まぁ、あいつが一緒なら大丈夫か。まだ遠くにはいってないはずだ」
チサトと親しいかのような口ぶりに驚く。
お茶屋にチサトが行くのは初めてだと思っていたけれど、そうではなかったようだ。
店主にお礼を言って、時計塔のある広場へと走っていく。
人の行きかう中に黒髪の後姿を見つけたけれど、残念なことに女の人だった。
さらさらとした艶やかな黒髪が背中で揺れ、とても姿勢がいい。
柔らかな生地をつかった膝上のスカートは、王都の若い女性の間で流行っている格好だ。
田舎のバティスト領で見かけるのは珍しく、その腰には刀が下げられていた。
――チサトやミサキ以外にも、この街にトキビトがいるんだなぁ。
王都からの観光客だろうか。
しかも剣士で、刀使いなんて珍しい。
その女の人に、興味が沸いた。
刀は元々この世界にはなかったもので、異世界からもたらされた武器だ。
扱う技術を持っている者が少ないため、あまり普及もしていない。
ただトキビトの故郷である異世界『日本』ではメジャーな剣らしく、刀を愛用するトキビトは多いと聞いていた。
自分と同じ女剣士で、刀使い。
チサトを見なかったか聞きながら、少しお話とかできないかな。
そんな思いから、声をかける。
「あのすいません」
「はい、なんでしょう」
女性にしてはハスキーな声。
振り返った顔を見て――私は固まった。
その人の顔を、嫌というほど見たことがあった。
ついさっきも、キャンパスの中で微笑む彼の姿を見たばかりだ。
「ヤ、ヤイ――むぐぅ!」
思わず大きな声を上げそうになった私の口を、その人が押さえる。
「すいません。堂々とはしてますが、一応お忍びできているので、できれば叫ばないでいただきたいです」
焦りながらも丁寧にお願いしてくる声は、柔らかい印象だったけど男の人のものだ。
コクコクと頷く。
「ん? 黒髪に黒目……あなたはトキビトですか?」
少ししゃがんで私を見つめてくる瞳に、困惑の色が浮かぶ。
目の前の女性は、黒髪に黒目。
化粧をしているものの誠実そうな顔立ちは変わらず、母様の部屋の肖像画で何度も見た顔をしていた。
――カザミヤイチ。
この国で最高の騎士で、母様の憧れであるトキビト。
母様が狂うことになった元凶ともいえる人が――何故か女装してそこにいた。
★2016/10/4 読みやすいよう、校正しました。