【4】異世界のお兄さんが『兄様』になりました
まかせておいてとお兄さんに言ったのに、あの後、事態を収拾したのは私ではなく父様だった。
王都近くにあるルカナン領から、ここまではかなり遠い。
なのに、母様が大好きな父様は、休日のたびにやってくる。
父様は、お兄さんをルカナン兄様だと言い張る母様をなだめ、私達から隔離してくれた。
父様が母様を落ち着かせている間、私はお兄さんと部屋で待機することになった。
「ここはどこなのか、教えてほしいんだけど」
居心地が悪そうにソファーに座り、お兄さんが尋ねてくる。
「チサトお兄さんがいた日本とは違う世界で、ウェザリア国のバティスト領だよ」
「本当に僕は、異世界に来てしまったんだね」
質問に答えれば、お兄さんは眉間にさらにシワをよせた。
ここが異世界だと、予想はしていたらしい。
「あれ、そういえば僕は名乗ったっけ?」
「ううん。チサトお兄さんの側にタオルが落ちてたから、そこに書いてあった名前を読んだんだけど。間違っていた?」
「いやチサトで当たっているよ。ありがとう」
長さのある長方形のタオルはボロボロだったけれど、お兄さん――チサトはそれを受け取った。
「日本語が読めるってことは、ベアトリーチェも僕と同じ日本からきたの? 日本語も上手だけど」
「違うよ。曾お祖父さまが日本人で、母様が日本大好きだから日本語を習わされてるんだ。簡単なものしか読めないけどね。あと、お兄さんは今、日本語じゃなくて僕達の国の言葉を話しているよ」
母様は、黒髪黒目だけでなく、日本も大好きだった。
当然母様が大好きなヤイチ様が異世界・日本の出身だからだ。
「そのタオル、大切なものなの? やけにボロボロだけど」
「うん。好きな子からの初めてのプレゼントだったんだ」
タオルを受け取るチサトの手つきで、何となくそう思ったのだけど正解みたいだった。
「チサトお兄さん、好きな子いるんだ」
「うん。彼女を追って僕は……この世界にきたんだ」
尋ねれば、チサトは真剣な顔になる。
「それってどういう事?」
「僕の大切な人が、この世界からきた男に攫われてしまったんだ。それで僕は連れ戻すために、ここにやってきた」
チサトは自分の胸に下がっていた懐中時計を手に取った。
異世界からやってきたトキビトが、皆持っている懐中時計。
それを決意の証だというように見つめ、チサトにぎる手に力をこめる。
せつないその横顔に、思わずきゅんと胸が高鳴る。
その一途さを、応援してあげたいと思った。
「私、探すの協力する!」
「……いいの?」
「うん。まかせといて! 私はチサトお兄さんの拾い主だから!」
ドンと請け負えば、チサトは難しい顔をやめてふっと笑う。
「私、何か変なこと言った?」
「ううん。ベアトリーチェが優しくしてくれるから、嬉しくなっただけだよ。会ったばかりの僕に、どうして親切なんだろうって思ったんだ」
尋ねれば、チサトはそんな事を言う。
「私が望んで、チサトお兄さんが異世界からやってきてくれたから、かな?」
「?」
ヴィルトの言葉を真似れば、よくわからないという顔をされてしまった。
「とにかく、私はチサトお兄さんの味方だから!」
こんなにわくわくしたのは、久しぶりだ。
興奮のままにチサトの手をにぎれば、戸惑ったようにありがとうと礼を言われた。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
トキビトは、異世界からのお客様。
こことは違う世界『日本』から、彼らは私達の世界にやってくるのだ。
トキビトは元の世界での時を止めて、この世界にやってきている。
ここにいる間、元の世界でのトキビトの時間は、こちらへやってきた時間から動くことはない。
歳をとることもなければ寿命もなく、好きなときに元の世界へ帰ることができるらしい。
母様を落ち着かせて、私達の部屋へやってきた父様は、チサトにそう説明した。
父様とテーブルを挟んで向かい合いながら、チサトの隣で私もそれを聞く。
「まるでファンタジーの世界ですね。夢を見てるみたいだ」
チサトは頭が痛いというように、額に手を当てていた。
この現実が、受け入れがたいというように。
「いきなり異世界にきて心細いだろう。この屋敷に滞在するといい」
「本当ですか? 助かります」
快い父様の言葉に、チサトはよかったと胸を撫で下ろしたけれど、ただしと父様は続けた。
「お願いが1つあるんだ。ここにいる間、君にはこの子の兄・クライスとして振舞ってほしい。このとおりだ」
「クライスって、あの女の人が呼んでた……? ここの息子さんなんですか?」
いきなり頭を下げてきた父様に驚きながら、チサトが質問してくる。
「そうだ。3年前に行方不明になって、帰ってこない。妻はずっと帰りを待っていて、心を病んでしまったんだ」
「僕はその息子さんによく似てるんですか?」
「あぁ。髪と目が君と同じ黒で、顔立ちもよく似ている。君を見たとき19歳になったクライスが目の前に現れたと思ったよ」
同情を誘うように、父様が涙ながらに事情を話しだす。
「妻はそこにいる娘のベアトリーチェを、息子のクライスとして扱うんだ。この子にはもう3年も辛い思いをさせている」
「ベアトリーチェ、君は女の子なのか?」
父様の言葉に、戸惑ったような視線をチサトが向けてきた。
少年にしか見えない私を、チサトも男だと思い込んでいたようだ。
「うん。そうだよ」
「……誰かの代わりなんて、君は辛くないの?」
頷けば、チサトはまるで自分のことのように苦しそうな顔をして尋ねてくる。
そんなふうに同調してくれた人は初めてだった。
父様も屋敷の使用人も乳母も。唯一の味方であるおじいさまでさえ、母様のことがあるから可哀想だけれど我慢してくれと私に言う。
けれど、お兄さんは母様の側ではなく、私の立場になってくれているのがわかった。
――お兄さんはわかってくれた。
それが嬉しくて、泣きそうになった。
ぐっと唇を噛み締めて堪える。
「そうだよね、辛いよね。ごめん変なこと聞いて」
目線をあわすようにして、チサトが頭を撫でてくれる。
胸がじわりと温かくなる感触に、我慢してた涙がぽろぽろと零れた。
大切だといっていたタオルで、チサトは私の涙をそっと拭ってくれる。
その優しさに、余計に涙が零れた。
「この子にこれ以上、兄の身代わりをさせるのは私も心が痛いんだ。ベアトリーチェは幼く、女の子で未来もある。妻は君をクライスだと思い込んでいるし、どうかお願いできないだろうか。この通りだ」
父様は、再度チサトにふかぶかと頭を下げた。
「頭を上げてください。滞在させてもらえるなら、それくらいやります」
「本当か! ありがとう!」
チサトの言葉に、父様は喜んで手をとる。
「チサトお兄さんはそんな事しなくていいよ!」
慌てて叫んだ私に、2人が視線を向けてきた。
父様はタヌキだ。
人のよさそうな顔をしているけれど、その実したたかで腹黒い。
父様にとって、1番はいつだって母様で、そのためなら誰かを騙したり、利用したりすることに躊躇がないのだ。
私を兄様の代わりに仕立てあげたように、チサトを母様のために利用するつもりだと、私にはわかった。
「僕は元々この世界の人間じゃないから、行く場所がなくて困ってたんだ。君のお兄さんとして、しばらく一緒に過ごさせてもらえたら嬉しい。それとも僕が大切なお兄さんのふりをするのは、やっぱり嫌かな?」
「そうじゃないよ。チサトお兄さんはクライス兄様のふりしなくたって、この世界でやっていけるんだ。何もわざわざ嫌な思いをする必要ない!」
私の許可を取ろうとするチサトに、一生懸命に伝える。
それからキッと、父様を睨んだ。
「父様、チサトお兄さんを私達の問題に巻き込まないでください!」
「すでにリリアナはチサトくんをクライスだと思い込んでいる。きっともうベアトリーチェを見たところで、クライスだと思ってはくれないだろう」
父様はものわかりが悪いねというように、溜息を一つ吐いた。
「私達の家で預かれば、彼にはどうしてもクライスの役どころを演じてもらうはめになる。それなら、クライスとしてルカナン家の力を使える方が、チサトくんも過ごしやすいはずだ」
もっともらしいことを言っているが、そんなのおかしい。
母様から離れた場所で、チサトを生活させればいいだけの話だ。
何よりも父様の言葉は、チサトに母様の前でだけクライス兄様のふりをさせるわけではなく、本物のクライス兄様として扱うというように聞こえた。
「……父様はチサトお兄さんを保護したことを、国に届け出ないつもりなんですか?」
「そのつもりだ」
まさかと思って呟けば、父はそれを肯定した。
私達の住む国、ウェザリオはトキビトの保護と援助に力を入れていて、新しいトキビトを見つけたら報告する義務があった。
見つけたトキビトには世話役として後見人が着く。
国の上層部にトキビトが何人もいて、国の繁栄にトキビトが関わっているから、そういう風に法が整備されていた。
後見人には厳しい審査があり、トキビトが働かなくても暮らしていけるくらいの援助はでる。
例えば、ヴィルトの家のミサキは、バティスト家が後見人についているトキビトで、本来メイドとして働く必要は無い。
色々ヴィルトから話を聞いていたし、トキビト大好きな母様の影響もあって、私は結構詳しかった。
「父様はチサトお兄さんを……本当にクライス兄様にしてしまうつもりなんですね」
「お前の新しい兄として、家族として迎え入れようというだけの話だよベアトリーチェ。ルカナンは力のある家柄だし、ただのトキビトとして過ごすよりチサトくんにとっても過ごしやすいはずだ。出世だって約束されているし、結婚相手だって事かかない。これは彼にとってもかなりいい話なんだよ」
非難するように呟けば、父様はまるで言い聞かせるような優しい声で囁いてくる。
「それに、私はお前にこれ以上苦しんでほしくないんだ。チサトくんがクライスになってくれれば、お前は元のベアトリーチェとして生活できる。女の子として過ごせるんだぞ?」
私のためを思っての選択なんだというように、父様は口にする。
――私よりも適した『クライス兄様』が現れたから、私がいらなくなっただけのくせに。
クライス兄様を求める母様に、率先して父様は今まで私を差し出してきた。
だから、何を今更と思う。
「チサトお兄さんの未来を父様が勝手に決めないで下さい! ちゃんと家預かりのトキビトとして自由に過ごせるようにするべきです!」
どんなに聞こえのいい言葉を並べようと、父様のやろうとしていることは、チサトを関係のないルカナン家のしがらみに巻き込むという事だ。
「ベアトリーチェは、相当チサトくんを気に入ったんだな」
必死に訴えれば、父様はいつになく逆らう私に驚いた顔になった。
「心配しなくても、ずっとというわけじゃない。トキビトは歳をとらないからね。チサトくんがクライスの身代わりをして、童顔で誤魔化すとしても最大でも10年くらいだ。永遠を生きるトキビトにとっては短い時だよ。それに選ぶのは、ベアトリーチェじゃなくてチサトくんだ」
父様は余裕のある態度で、チサトの方に視線を向ける。
「この世界に来たからには、君は何か問題を抱えているだろう? たとえば向こうの世界では、どうしても叶わなかった夢があるとか、見たくない現実があるとか――そういったものが」
チサトがピクリと反応し、父様の唇が笑みを作る。
「やっぱりそうか。私の祖父もトキビトで、叶えたい夢が現実では叶わずにこの世界へやってきたんだ。この世界で叶えられる願いなら手を貸そう。できれば嫌々ではなく、自分から進んでクライスとして生きてもらいたいからね」
父様に囁かれて、チサトの瞳の色が変わる。
何かを決意するような光が、そこに宿っていた、
「……わかりました。その話引き受けます」
こうしてチサトは、自分から『クライス』になる事を受け入れてしまった。
シリーズ第一弾「育てた騎士に求婚されています」の主人公の兄、『チサト兄』がお兄さんの正体となります。
同時に、ヴィルトの騎士学校での同期クライスもお兄さんです。
なので、『番外編3』で「妹は渡せない」と言うセリフの『妹』は、ベアトリーチェというよりもミサキのことを言ってる比重が高いです。
クライスがやたらヴィルトに突っかかるのはそういう理由です。
第三弾「オオカミ騎士の捕虜になりました」で、クライスがヴィルトと一緒に戦争に行くのもそっちに関わる理由となってます。
★2016/10/3 読みやすいよう、校正しました。