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普遍的な景色だと思った。
でも、ここに初めて来た時にもそう思った。
当時の私は、今の私と同じように『認識』する能力が異様に低かった。別に、視覚的な異常があったわけでも、認識能力に問題があったわけでもなかった。
これは極めて個人的な話だ。
つまりは、私は無感情だったのだ。人と話していても楽しいと感じたことは無かったし、それについて疑問をもったことも無かった。それは、尊敬していた母と父の教育の賜物だろう。
良くも悪くも行儀良く育った私は、周囲から優等生と呼ばれるようになった。
才女、宮辺達郎の令嬢、人格者、生徒会長。様々な呼称が私に付けられては持て囃され、尊敬の対象にも嫉妬の対象にもなってきた。
しかし、それに対して私は何の感慨も持たずにこれまでの人生を生きてきた。
――いや、持たなかったのではない。
持てなかったのだ。
誰にも関心を持つことも出来ず、どんなものにも興味を惹くことは無かった。
それ故に、私がここに来た当時の感想は『ビルが羅列した普遍的な景色』という認識でしか無かった。もちろん、それを前生徒会長本人に告げたりはしない。
いつも通りの偽りの優等生のように、感受性が豊かなふりをした。
美しいとは感じることが出来なくても、それらしき言葉を並べれば美しいという感情は表現できる。
けれど、前生徒会長は私の言葉に感心するでもなく、ただ笑った。それはいつもの私に向ける朗らかな笑みではなかった。さすがにの私でもその笑みが、違うことは理解できたのだ。
それでも彼がその笑みに内包する意味を理解することが出来なかった。
――彼は言った。
『いつか、この景色の意味を理解する人間が、現れたらいいね』
今も私はこの景色を意味するところを理解できない。
けれど、この景色が意味することを私に教えてくれる人物を私は知っている。
八年前に心身すべて摩耗した少年。
愛されるべき両親から、愛されることもなく苛立ちの捌け口となった、悲しい彼。
そして、初めて恋をした人。
改めて私は景色を眺めてみる。
等間隔に配置されたかのようなビルの数々と小さな人々。明るい陽日はそんな『景色』を明るく照らしている。いつも通りのいつも通りな光景だ。そこに何の感慨もやはり湧いてこなかった。いつも通りの光景に何の感慨が湧いてくるというのか。
……やはり私は人間として『何か』が欠落しているんだ。
だから、この景色が意味することを理解することが出来ないんだ。
あぁ、なんて。
――私は、なんて、愚かなのだろう。
そう手で顔を覆った瞬間だろうか。
「やっぱ、先輩はここにいたんですか」
私は振り返る。
そこには、広宮一樹が立っていた。
私の求める人が立っていた。
△▲△▲
駆け足で階段を登ってきたために、息が切れていた。
一樹はそれを隠すように一樹は忠世の下へ堂々とした足取りで歩いて行く。固いタイルを踏みしめ、その足音で自分の存在を確認しながら。
しかし、忠世の下へと進んでいる途中に彼女に対して違和感を感じた。いや、一樹にとっては違和感なんて小さなものではなかった。
――まるで、別人だ。
いつもの尊大な態度に比例するほどの存在感が、今の忠世には存在していなかったのだ。一樹は表には出さないけれども、自分の正気を疑った。目の前の少女は忠世に酷似した誰かであると思ってしまったぐらいだ。
「良くここがわかったな」
忠世に酷似した少女から聞こえてきた声は忠世そのものであり、口調も忠世そのものだ。フェンスに凭れ掛かっている姿も、忠世そのものだった。
日の光の色は違うけれど、彼女の顔に出来た影も、その影から連想させる憂鬱さも何もかも、忠世に似ている。
しかし、そこにあったはずの存在感が根こそぎ欠落している。
その事実に一樹は驚きを禁じ得なかったが、深呼吸を数回し、肺に溜まっていた古い空気を新しい空気に入れ替えることで、気分を一新して冷静さを取り戻した。
「まずは、外にはいないだろうという前提から話していきます」
「その前提には根拠というものがあるのかな?」
「あらかた捜したという結果を林田さんから聞きました。というのであれば、まだ捜索していない場所があるかも知れないとはいえ、校舎内を探すのが普通でしょう。先生方は先輩が言い残した『風にあたってくる』という言葉を証拠に探していたようですけれども」
「けれども?」
「正直に言ってしまえば、ここの校舎の構造上の問題で校舎の外は風が当たりにくいんですよ」
この学校の校舎は前述したが、基本的に校舎が四方を囲むような構造となっているのだ。四方に囲まれていれば、風が入ってくることも必然的になくなってくる。
もちろん、完全に風が学校の敷地内に吹かないわけではない。強い風が吹きにくいというだけで、風が完全に入らないわけではないのだ。そんな細かいことを言えば、そもそも『風に当たってくる』という言葉自体が本当の意味で風に当たるというわけでもない。
しかし、それでも『風に当たってくる』言い残して何処かへ行ってしまえば深読みせざるを得ないのもまた事実だ。
「その時点で僕は屋上じゃないかと思ってましたよ。この間、既に先輩自身にここに連れて来られたばかりですからね」
「しかし、広宮後輩。それだけでは君を動かすほどの情報量では無いと思うのだけれど」
「そんなことありませんよ。……まぁ、それだけしか憶測がないわけでもありませんでしたけど」
「教えてくれるかな?」
「……まぁ、簡単な話ですよ。職員室の鍵を見た瞬間です」
そう、職員室の鍵入れには、全ての鍵が入っていたのだ。
職員室を掃除していた用務員のは『見ていないなぁ』と言っていた。そうなると、おかしい。
何処かの部屋を開けるためには、鍵を職員室のキャビネットの中から取り出す必要がある。その逆も然りだ。
けれど、職員室にてずっと掃除を行っていた用務員は忠世の姿を見ていないという。ここで矛盾が孕むのだ。
教室や外にもいない。それなのに鍵は全て職員室に余すこと無くある。
「だったら、可能性は1つです。あなたが屋上の鍵を使用してここに来たと、僕は考えたわけです。推理とも呼べないような、ただの消去法ですよ」
「……ふふ、そうでもないだろう。君は充分凄いよ。ここに人が来るのは結構後のことだと思っていたんだけど――やっぱ君は最高だよ」
そう言って、忠世は一樹に向けていた顔を背けて、フェンスの向こう側の光景へと視線を移した。その一動作一動作が如何にもいつも通りで、違和感を覚えてしまう。
しかし、その違和感が明白なるものとなる前に、忠世は一樹へと手招きをした。
一樹はそれに、素直に従いゆっくりとした動きで彼女の横へと移動する。
「なぁ、ここからの景色は綺麗だな」
忠世に気を取られていた一樹は、その一言で視線を向けた。
――そこには、無限に広がる青い空があった。
雲ひとつ無い青い空は、高さの制限すら無く窮屈ですら無い。人間の営みに必要な『制約』というものが、ここから見える空には通用がしない。
そう思った瞬間に、彼の頬を風が撫でた。温かみを感じる風だ。体育館にいた時の寒さはとうの昔のように感じられる。
今、一樹の視界に存在し続けているのは吸い込まれそうな青と陽の光、それと温かみ有る色のない風。それだけが世界にあるだけで、世界は成立している。
そのような途方も無く壮大で美しく、穢れ無き理想論が彼の頭の中に広がった。
しかし、その思考は校舎の屋上から見える青空のように、無限に広がってはいかなかった。妨害が入ったのだ。
それは――他ならぬ一樹にここからの景色を見せた忠世自身によって。
「私には、ここからの景色が意味するものを理解できないんだ」
「……何を言って」
一樹がそう言いながら顔を忠世へと向け、驚愕した。
忠世が静かに、声も震わせずに泣いていたのだ。
「何でここの景色が良いのか、私には理解できない。私は幾度と無くここに足を運んだ」
「――先輩」
「しかし、私には理解出来なかった。理解しようと努力をしたのに、理解しようと全力を尽くしたのに――ッ!!なぜだ、なぜいつもこうなんだ。専門家が激賞する映画も、万人が支持する本も、歴史的な絵画も、泣けると噂される音楽も……何一つ私は理解できない」
そう言いながら忠世は顔を俯かせる。そして、一樹は彼女が流す涙が頬を伝い地面に滴り落ちつのを眺めているしか出来ない。忠世の表情は伺えないが一樹は容易に思い浮かべることが出来た。
幼いころの時と同じ無表情に違いない。
一樹と彼女の両親以外には交流を持とうともしなかった、あの時と同じように。
「かずちゃんと出会って、私は変わった。変わったような気がしたんだ。母や父にも見放された自分を変えることができたと本当に思ったんだ」
かずちゃん。
それはまだ一樹が幼い頃、彼の父親の下から宮辺家へと引き取られてから、彼が児童養護施設に預けられるまでの数年間の間、忠世が一樹に対して付けたアダ名であった。
遠い昔のようで、ほんの数年前に名付けられた名前であり、幼き頃の思い出であるその名前は様々な情景を彷彿とさせる。しかし、その情景はすぐに消えた。
泣いている少女が目の前にいるという状況で、思い出に浸れるほど一樹は図太くはない。
けれども、一樹は目の前で悲しげに泣いている少女一人さえ慰めてやることもできないのだ。
慰めの言葉を安易に吐いても、忠世は苦悩から救われることはない。もしも、慰めの言葉に使いどころというものが存在するのであれば、今は確実に使うべき場面ではないのだ。
一樹はそんな自分を恥じた。彼女の悩みを解決する術を持たない自分を、恥じたのだ。思えば、数年前の忠世と一緒に住んでいた時も一樹は今と同じような気持ちだった。
忠世はいつも苦しんでいていたのだ。他人とは異なる価値観や恐ろしい程に合理的な選択。その忠世の悩みを解決しようと、足りない頭で必死に考えて――結局忠世を救うことはできなかった。
「私は、結局変わらなかった。だから、基本的に母と父は私に関して、放置的な態度を取るようになった。気持ち悪かったんだろう。君は知らないかもしれないが、君が去った後に精神病院でケアを受けたこともあったんだ」
その言葉に一樹は驚きを禁じ得なかった。
確か、一樹の認識では忠世に対しては優しい両親として接していたはずだ。朗らかな笑みを浮かべながら食事している忠世と宮辺夫妻を一樹は幾度と無く見てきた。
他愛もない話題を忠世に振り、無表情で忠世はその話題に機械的に応対し、そしてその反応に宮辺夫妻は苦笑いする。そんな一般家庭とは少し違うけれど、実に幸せな家族の食事風景だったはずなのだ。
そんな人たちが忠世を精神病院に連れて行くなど、一樹は想像が出来なかった。思い当たる節が全くないし、宮辺夫妻は一樹に対しても我が子のように接してくれていたからに、余計に想像が出来ない。
しかし、一樹が狼狽しているのに気づいてかどうかは分からないが、忠世は何処かシニカルな笑みをその表情に浮かべ、一樹に視線を向けた。
「君は今、『あんなに優しかったのに……』と、そう思っているだろ?」
忠世の言葉に思わず慄いた。別に、彼の考えていることを言い当てられたからではない。それぐらいのことは、寧ろいつも忠世が周囲の人々に対して行っているパフォーマンスのようなものであった。
だから、今更ながら驚くのは些かわざとらしすぎる。
一樹が驚いたのはその点ではなく、言葉の内容というよりも雰囲気であった。低くドスの利いた、しかしながら何処か自虐的な言葉の雰囲気。それは忠世の目の下が真っ赤に腫れていることも起因したのかもしれない。
けれど、一樹は感じた。
言葉から自然と滲み出る黒く濁った敵意を感じ取らずにはいられなかった。
「それはね、本当だよ。確かに彼らは優しかった。優しかったんだ。君は彼らの優しさを享受することが出来たし、彼らは君に優しくすることで気持ちを安らいでいたんだ」
「何を言って――」
「それに彼らは初めて他人に――君に興味を示したことをきっかけに性格が変異すると思ったんだろう。今までの無機質な性格とは異なったそういう性格が感情豊かな性格に変わると、そう期待したんだよ」
しかし、そこまで言って忠世は再び俯いた。
陽光が射す角度が微かに変わったおかげか、先ほどまでは俯いても見えなかった忠世の表情が見えた。彼女は唇を噛み締めていたのだ。
「すまない。私はどうかしているんだ。気分が昂って、自分の感情が制御できていないんだ」
声を微かに震わせながら、忠世はそう言った。確かに、彼女は感情を制御しきれていないのかもしれないと一樹は思う。それは忠世の姿を見るだけでも理解できた。
彼女の体の全てが小刻みに震えているのだ。それは怒りなのか、それとも怯えなのか。
一樹は忠世がどういう思いを塞き止めているのかは理解のしようがないが、その溜め込んだ感情の吹き溜まりが、今の不安定な忠世を形作っていることは理解できた。
けれど、自分は先輩の悩みを解決するまでとはいかなくとも、彼女の溜まりに溜まった負の感情を解き放ってあげることができるのかもしれない。一樹は俯く忠世見ながら、そう思った。
しかし、そんな考えが出たと同時に自分にそんな資格があるのかと一樹は思ってしまう。
自分が彼女が溜め込んでしまっている感情を吐き出させるのに一番適しているのではないだろうか。そう思っている自分も確かにいる。
けれども、それ以上に一樹は忠世に対して異様なほどの罪悪感を感じていた。
一樹が宮辺家を去った理由。
それは、忠世に只ならぬ恐怖を感じたからだ。
彼女の異常性にではなく、彼女の危うさに対して見ていられなかったからだ。
△▲△▲
私は何をしているんだろうか。
意中の人がここまで、私を探しに来てくれたというのに、私は彼に何を言っているんだろう。
ふと、横目でかずちゃんの横顔を見ると、私が途中でヒステリックに叫んだせいか、明らかに狼狽していた。
あぁ、と思う。やってしまったな。かずちゃんや全校生徒の皆に迷惑を掛けているのに、私は更に彼を困惑させてしまった。唯でさえかなりの迷惑を私個人の極めて自分勝手な理由で掛けているというのにだ。
かずちゃんの顔が見れない。自分が泣いているという羞恥心もあるけれど、それ以上に彼に見せる顔がないと思ったのだ。
「先輩……いや、忠世」
そんな風にめそめそと泣いていると、かずちゃんがその言葉を言った。
『忠世』……懐かしい響きに私は思わず、かずちゃんへと向き合った。その瞬間、涼し気な風が私の頬を撫で、前髪を揺らした。長い前髪が私の目に覆い被さる。しかし、私はその前髪を整えようとはしなかった。
目の前の状況に、思考がついて行けずに困惑していたからだ。
かずちゃんが、真剣そうな表情で泣いていた。静かに、私のように情けなく泣くのではなく、強く泣いていた。
「僕はあなたが怖くて仕方がありません」
その言葉を聞いた瞬間に、私の頭の中は真っ白になってしまった。
かずちゃんが私のことを恐れている――? その言葉だけで私は卒倒しそうになってしまう。先ほどまで出尽くしたと思った涙が、また溢れるように出て来た。
「でも、それと同時に僕は忠世のことが心配なんです」
「え?」
「だって、最近……この三年間無理しているでしょう? 完璧超人のふりをしていて、ずっと無理をしていたんでしょう? 」
「そんなこと――ッ!!」
無い、とは言えなかった。彼の言葉は的を射ており、だからこそ反論が出来ずに絶句してしまった。
ずっと私は世の中の理想図としての生徒会長を演じてきた。学校の悪い部分を根本的に解決し、生徒からも慕われ、感情的な人情家な生徒会長。それが私の中での理想図であり、それを心掛けてきた。
そして、それは他者には決してバレてはいけないことだと私は思う。
だけど、かずちゃんは私の心の表層にある壁を、優しい手つきではがしていく。
「最初、忠世を見たとき、僕は驚きましたよ。まるで性格が変わっていて、きっと普通の人間になることができたんだなと思いました。でも、生徒会に入ってあなたと接する機会が増えて、気が付いたんですよ。根本的には何も変わっていないことに」
私は何も言えずに彼の顔を凝視し続ける。
「そのことに気がついた僕は、忠世が世渡りが上手になったなぁ、と思いました。そういう生き方をするのであれば、僕は彼女の過去に干渉すること無く生徒会長としての『宮辺忠世』という先輩に接しようと決めたんです」
その覚悟を初めて知った私は驚いた。そこまで深い考えを持ちながら、彼は私に接していたのだ。
「でも、人間として一部分が欠落していたとしても、忠世は人間です。宮辺忠世は完全無欠の生徒会長であるとしても、それを演じている『宮辺忠世』は人間なんですよ」
「……ダメだ、そんな」
そんなふうに私を諭さないでくれ。
「そ……んなことは、無い」
「いいえ、忠世は人間なんですよ。あなたは自分に対してどんなことを思っているか、どんなふうに自分を理解しているか、僕には理解できません。でも、あなたはやはり根本的に誤解してるんですよ、自分のことを」
「違う……ちがう。ダメだ、お願いだ」
私を暴くんじゃない。
――私を、私として見ないでくれ。
「忠世は欠落品なんかじゃないんですよ。少しだけ茶目っ気のある、十八歳の女の子なんです。ですから」
我慢しないでください。僕が聞いてあげますから。
私はただただ、泣く。みっともなく、声を大きく上げて泣いた。
すると、かずちゃんがゆっくりと包むように優しく、抱きしめた。けれど、彼が手を背中に回す瞬間に、戸惑うかのような手つきが可笑しくて笑ったのは内緒にしたほうがいいのかもしれない。
「忠世は、この青空が理解できないといいましたね」
その言葉をかずちゃんの胸元に顔を埋めながら聞いていた。私は返事をせずに、じっとしている。
「僕の予想ですけど、正解なんてものは無いと思うんですよ」
「……それはどういうことだ」
顔を埋めながら私はかずちゃんに聞く。
「青空を眺めて、そこからどんな発想を展開するのか、それが試されていたんだと思います。想像の翼を広げ、そこからどんな風な役割を自分で試すのか試していたんじゃないですか?」
「じゃあ、この青空の意味は?」
「自分が特別だと言うことを認識してもらうことなんじゃないですか。ここに来る生徒はきっと全部が特別だったんだと思います。そして、ここから広がる青空を見て各々が自分の指針を決めたんでしょう」
「この青空が指針?」
「憶測ですけどね」
かずちゃんはそう言って笑った。
それは私が今まで見たことのない程に快活な笑顔だったことを私は一生忘れないだろう。
次回の投稿は2015/01/02の21:00です。