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私の世界は、二人の人間しか存在していなかった。
母と父の二人だ。
彼らは私を無償で愛し、私も彼らを無償で愛した。
そこに他者が介在する余地は無く、母と父と私の三人だけが存在していた。
しかし、そんな日常に一人の存在が現れた。
それは、
――体と心に傷を負った少年だった。
△▲△▲
広宮一樹は自分の気分が異様に高揚しているのを感じていた。
普段の彼であれば、気分が昂ぶることがそうそうあることではないのだけれども、今の状況を鑑みればそれもしかたがないのかもしれない。
――今日は卒業式だ。
卒業生である尊敬している方々を見送るおめでたい日なのだろうと一樹は思っている。
そして、この正方形に近い長方形に穴を開けたような形の校舎や、卒業式が行われる体育館に来る最後の日。
しかし、そんなめでたい日に、一樹は嫌な予感を感じていた。。
一樹は卒業式には到底似合わないような、そんな予感だ。
そのことに彼は戸惑いを覚え、らしくもない貧乏揺すりまでしてしまっている。気分が昂ぶることも無ければ、感情を表面に出すことも滅多にない一樹を、彼と同じクラスメイトは珍しそうな視線を彼に注いでいる。
何でこんな日に、こんな感情を抱かなければいけないのか。甚だ疑問に思うけれども、彼にも思い当たる節がないわけではない。
「なぁ、広宮。お前は生徒会長がいなくなって寂しいんじゃねぇか?」
一樹が横に視線を向けると、そこには図体が異様に大きい男が一人、垢抜けた笑顔を浮かべてこちらに向いていた。彼の名は野々真斗と言い、一樹が高校に入学して以来の友人である。
そんな真斗の声を少々声が大きい等一樹は窘めつつ、嘆息する。
真斗が言っていることは一樹が悩んでいる要因とは程遠いものなのだけれども、一樹の胸中に燻っている負の感情はそれも含んでいるのかもしれない。そのことを真斗の言葉で改めて認識した。
「まぁ、そうかもしれないな」
一樹は顔に苦笑を浮かべる。
「ま、俺も同感なんだけどよ」
真斗もそう言いながら、一樹と同様に苦笑を浮かべる。
思えば、と一樹は思わずここ二年間の記憶を思い返してしまった。
当時の優柔不断な自分を変えたいが為に、大義名分という名の耳障りの良い言葉を吐き、生徒会書記という地位を手に入れた。
野々も学校を本当に良くしたいという志を持っていないという点に関して言えば、一樹と同じだ。
彼は進路選択を有利に運ぶためにと、彼の母親に生徒会に所属するように命令された。
しかし、一樹を待っていたのは生徒会という名のそれではなく、生徒会役員という朗らかなメンバーであった。いや、朗らかというよりは個が強いと表現したほうが適切だろうメンバーである。
最初はその余りにも強すぎる個性に生徒会に入ったことを早々に後悔していた一樹だったけれど、その個性に馴染んでいけば、彼自身も楽しむことが出来たのだ。
恐らく、その楽しみは生徒会に入っていなければ得られなかったであろう時間であり、先輩たちがいたからこそ得られた時間であった。
一樹はそう思おうとする。
「あの人達がいなくなる……、全く考えられないな」
広宮は本当にそう思う。野々も隣で深く頷いていた。
「全くそうだ。あんな人達はそうそういないぜ。多分、先輩方がいなくなれば生徒会室も静かになるかもしれないねぇ」
「多分というか、絶対にそうだ。全くもって全くだ」
真斗はそう言いながら手を頭の後ろで組み、背凭れに体を預けている様子を見ながら、一樹と真斗は様々な話をした。
初めて生徒会に入った時の騒がしさや数々の事件を一樹と真斗は一緒に体験してきた。彼らにとっては体験というより言葉よりも『冒険』と言った方が正しいかもしれない。
そして、その数々の冒険は一樹にとって一生の宝物となるだろう。冒険の中身はどうであれ、生徒会活動で精一杯頑張ったことは共通しているのだ。一樹は一生の宝物として、その冒険の思い出を抱えて生きていくことになるだろうと思った。
△▲△▲
「ここからの景色は壮大だとは思わないか?」
そんな尊大な口調に広宮は少しだけうんざりとしながらも、生徒会長である宮辺忠世の言葉に彼は素直に頷いた。
「まぁ、確かにそうですね」
事実、一樹の目前に広がる光景は確かに壮大であると思えた。
一樹と彼女がいる空間は何の変哲も無い校舎の屋上である。緑色の網目状のフェンスに囲まれた屋上。普遍的で珍しくも何も無い、卒業生の落書きが描かれているわけもない、都市伝説が有るわけでもない、本当の意味での普通の校舎の屋上であった。
まぁ、一樹は他校の校舎の屋上を見たことが無いので、何が普通で何がおかしいのか区別することは出来ないのだが。それでも、特徴が有るわけでもない屋上から、フェンスを通して見る景色には、息を呑まずにはいられなかった。
彼の眼下に広がる景色は、夕日に照らされている町並みだ。橙色の温かみある光は、まるでその温もりを街全てに伝えようとしているようにも見えた。等間隔に設置されたビルの窓ガラスからに、夕日が反射している。
それにそれだけではない。人々の温もりも伺えることが出来た。校舎の近くには未だ繁盛している商店街があり、様々な人の交流が見て取れる。八百屋等の店主と婦人が大げさな動作で話している様子や、子犬を散歩に連れて歩いている少年を可愛げに見ている女子高生等だ。
その様子は街を賑やかにし、しかしながら哀愁漂う夕暮れ時と良く合っている。
「ここの景色はな。代々生徒会長に受け継がれてきた景色なんだ」
忠世はフェンスに向けて大きく手を広げる。まるで手中に、この広大で漠然とした美しい光景を、その細い手中に収めようとしているかのようだ。
「どういうことですか?」
そんな姿勢の忠世を横目で見ながら、広宮は彼女に向かって問い掛けた。
「つまり、生徒会長に相応しい人物に、この景色を見せることがこの学校の習わしなんだ」
その言葉を聞いた瞬間に、一樹は一瞬だけ呆けた。言葉は耳に聞こえたけれども、その意味を脳内で理解することが出来なかったのだ。
けれども、数秒間の間、彼女が言った言葉を頭の中で反芻し、漸く意味を理解することが出来た。出来たのではあるが、自分が理解した内容は本当に合っているのだろうか? 一樹は思わずそう思った。
「……えーと、つまりは」
広宮が言い淀んでいると、フェンスの外側を呆然と見ていた忠世が広宮へと顔を向けた。夕日を背にむけているおかげで、忠世の顔が影となり、よく見えない。
「君が次の生徒会長に相応しいと、私が思ったんだよ」
広宮は、自分が考えていた意味合いが合っていたという事実に安心した。それと同時に、反感と似たような感情が忠世に対して浮かんでくるのがわかった。
「ボクが生徒会長に相応しいとは、あんまり思えないんですけれども」
一樹は自分に指導者の才能があるとは思ったことが無い。どちらかと言えば、使役される側だと自認している。だからこそ、彼は全てにおいて自信がなく、この時にもそれは例外ではなかった。
一樹は忠世から目を逸らした。
目の前の忠世の姿を見ていると、広宮一樹という自分の存在が段々と縮小していく感覚がしたのだ。尊敬出来る人物の真摯な視線は、自分を矮小だと認識している者にとって、痛いものであった。
「目を逸らすな、広宮。君はこの学校の誰よりも生徒会長という役職になるべきなのだ」
「だから、それが理解できないんですよ。僕なんかが」
「君が、いいんだ」
忠世はそう言い切った。真剣な低い声音に思わず一樹は慄いてしまう。
何故、彼女はここまで僕に固執するのだろうか。そんな疑問に彼は頭を悩ませる。影では智将と呼ばれていても、今では歳相応の反応しか出来なかった。
「私の人を見る目を確かだ。であるから、私は君こそが次代の生徒会長に相応しい人物だと思っている。この二年間、私は君と過ごして、そう思ったのだ」
確かに、彼女の慧眼は一樹も凄いと素直に思う。生徒会だって一見してみればただの変人の集まりであるのだが、注視して見てみると実に素晴らしい構成である。
教員一同から生徒会最盛期と言わしめている今の三年生の生徒会役員は、忠世が人選したメンバーだ。一癖二癖あるのは、人選をした忠世自体が変わり者であるがゆえなのか、一樹には理解は出来ない。
しかし、とは言え、一樹は忠世が自分のことを過剰評価し過ぎであると思う。そしてその考えは、忠世が広宮に無理難題を吹っ掛ける度に思っていたことだ。
「先輩は、ボクのことを少しだけ、その、過剰評価し過ぎだと思うのですが」
「いいや。私は君のことを過剰評価して等いないよ。むしろ、君の方が自分のことをマイナス方面へ過剰評価し過ぎなのではないかな?」
いいえ、と一樹は言ったけれども、それは嘘であった。
自分のことを信じることが出来ない彼は、自分の能力を常日頃に下方修正している。そのことは自覚していた。
しかし、それは悪いことなのだろうか、と一樹は思っている。自分の能力を見誤り、驕り高ぶり、大変な失態をおかしてしまうよりかはマシなのではないだろうか?
一樹はそう思いながら今までの人生を過ごしてきた。自分は普通よりも下位の存在であると認識することで生きてきたのだ。そうすることで、大きな責任を背負うこと無く、尚且つ自分一人で動かずいれた。誰かに従事し続けることで、考えずにいられたのだ。
そんなことを思いながら、視線を地面へと見つめ続けていると、一樹の事を気にかけずに忠世は言葉を紡ぎ続ける。
「私は、二年間君と過ごしてきた。だから、理解できるんだ。君の生き方はそれとなく理解出来るよ。失敗しない人生は、波風立たない人生は、とても穏やかで平凡なものだろう。それを求めるのは人それぞれだ。人生には色んな道があり、その道を選ぶ権利は人にある」
しかし、と忠世は言葉を続けた。
「敢えて私は君に苦難の道を進んで頂きたいのだよ」
「それは、先ほど先輩が言っていた言葉と少々矛盾するのではないですか?」
「先ほど私が言った言葉は、世間一般で言う耳障りの良い言葉だよ。それに、私は理解出来ると言っただけで、それに賛同できるとは一言も言っていない。正直に言ってしまえば、私は耳障りの良い言葉など糞食らえと思っている人間でな。それは君も重々承知であるだろう?」
「はぁ」
何処か意地悪い笑みを忠世は浮かべる。広宮はそんな彼女を見て、苦笑した。彼女は自分と違って自由な世界に生きていると改めて実感できてしまうからだ。
忠世はいつでも忠世自身の限界を超越する。まるで少年漫画の主人公の様に、忠世の限界は訪れないのだ。どこまで枝を伸ばし続ける大樹のように、長く太く力強く、きっとこれからも忠世は彼女自身の限界を超越し続ける。
そんな彼女にとって常識とは合ってもなくても同じようなものだ。彼女の前では全ての価値観が零へと還元され、そして再構成される。忠世の価値観に基づいた価値観へと、作り変えられるのだ。
自分にはそんなことは出来ない。彼は苦笑の中に何処か寂寥感を滲ませた。一生届くことの無い、境地へと忠世は立っている。
――手を伸ばしても届かない。伸ばそうとすれば、堕ちる。
きっと、彼女に手を伸ばそうとするのは、バベルの塔と同じ始末になってしまうだろう。過剰演出であるかもしれないけれど、と思った。
「すみませんけど、その話はお断りさせていただきます。そもそもボクが立候補した所で、誰も投票などしませんよ」
一樹はそう言うと、忠世に背を向けて歩き出した。
「なぁ、かずちゃん」
その名前を呼ばれ、一樹は自然と体を強張らせた。
彼の暗き過去を刺激すると同時に、なぜ今さらになってその名前で呼ぶのか。そのような疑問が溢れたのだ。
「私は君を一人の優秀な後輩として、私以上の逸材としてこの役割を君に渡したいと、そう思っているんだ。私がこれまでやってこれたのも君のおかげだし、私には君しか適任がいないと――ッ!!」
「――存在としての価値が、違うんですよ」
一樹は忠世に只ならぬ恩義を感じているという理由を話さなかった。忠世が手を差し伸べてくれなければ、今の自分はいないと思っている。
しかし、一樹は気がつかない。
――恩義の重さと同等の恐怖を忠世に抱いていることを。
次回の投稿は2015/01/02です