ミニチュアガーデン——3
はじめて聞いた話だった。信じられなかった。
『あの子の父親は、帝王軍に殺されたのよ!』
お母さんと、カインさんとジークさんと、それにあの人が、けんかをしているみたいだったから。やめて、って言いたくて降りてきたら、そんな言葉が飛び込んできた。
今、みんなが僕のことを茫然と見上げている。僕も茫然として、それを見下ろしている。身体がふらっと落っこちてしまいそうで、階段の手すりにしがみつく。
「お父さんは……都会で働いてるって……」
写真で見た、優しそうなお父さん。まだ赤ちゃんの僕と、お母さんを抱きしめて、笑っていた。僕がものごころつく前に森を出て、遠くの街で働いてるって聞いた。おとなになったら、会えると思ってた。
「お父さん……死んじゃったの……?」
お母さんが、この世の終わりって顔で、崩れ落ちる。あんなに取り乱したお母さん、見たことがない。助けてあげないと……そう思うのに、体が思うように動かない。
「あっ」
足がもつれ、よろめく。転ぶ————そう思ったけれど、僕のからだはカインさんに支えられ、傾いたままの体勢でぴたり、と止まった。助けを借りて、からだを起こす。そしてまた手すりに体重を預け、ゆっくりと階段を下っていった。
「お母さん……」
ずるずると体を引き摺って、座り込むお母さんのそばに寄り添う。
「だいじょうぶ……?」
「ロザリオ……」
お母さんが、両手でがしっと僕の肩を掴む。たぶん、必死に……力を込めて掴もうとしているんだけれど、その手はガクガクと震えるばかりでちっとも力強さがない。
「あなたは、どこにも行かないわよね……?」
そんな状態で、懇願するように言われ、息が苦しくなった。怯えてるんだ……僕まで、居なくなるんじゃないかって。
「……森の外には、怖い人がたくさんいるの?」
僕は震えるお母さんを支えながら、僕らを見る三人に尋ねた。
「帝王軍のことか?ああ、たくさんいるぜ」
と、ジークさん。
「それ以外の人たちは、みんなどうしてるの?」
「荒れてる世の中だからな、みんな逃げるか隠れるか……それか、戦ってる」
今度は、カインさんが答えた。
「じゃあ、あなたたちは戦う人なんだ」
「まあな。けど、戦うだけが道じゃない。さっき言ったように、怖かったら逃げりゃいいし、隠れたらいい。けど、誰かは戦わなきゃ……たぶん、永遠に終わらない」
終わらないっていうことは、安心できない暮らしがずっと続くってことか。この森も例外じゃないんだったら、それはもう、僕にとっても他人事じゃない。
「僕は、どうしたらいい……?」
尋ねたら、前髪の長い彼が、見透かしたみたいに「もう知っているでしょう」と言った。
「あなたは、どうしたいんですか?」
「僕は……」
一縷の光を見たみたいに、鼓動の音がはやくなった。
許されてる。今なら言える。僕は促されるままに、長い間殺してきた答えを出した。
「……外に行きたい」
口に出したら、もう、それしか考えられなかった。
ずっと、外の世界をこの目で見たいと思っていた。お母さんが「外は怖いところ」って、何度も目で、態度で語ってきたけど、それでも、僕は……。
「森の外で起きていること、僕は、なんにも知らない……。同じ世界に生きているのに、もうこれ以上……蚊帳の外は、嫌なんだ。……行かなきゃならないんだ」
これまでは「それでいいや」って、目を背け続けてきたけど————今、この森の近くにも、危険が及んでいる。僕とお母さんの平和な森が、脅かされようとしている。そんな明確な理由を目の前に、もう、無視なんてできるわけなかった。
ばっと、後ろの三人を振り返る。
「お願いです、僕も一緒に連れていってくれませんか」
カインさんが驚いて目を見開く。
「俺たちと一緒に行動するってことか?」
「そうです」
「俺たちは、戦ってる。分かるか、危険なことなんだぞ」
「でも、どれを選んでも安全じゃないんでしょう?」
カインさんは、押し黙った。
「さっき……言いましたよね、誰かが戦わないと、終わらないって。もしそうなら、僕……終わらせたいです。僕はこの森に責任があるから」
まっすぐに、目の前の三人を見つめる。彼が、片方だけの赤い目で見つめ返す。
「……覚悟があるなら」
僕は迷わず、しっかりと頷く。すると弾かれたように、小さな悲鳴があがった。
「待って……!お願い、その子を連れて行かないで頂戴……!」
お母さんが、か細く、今にも消えてしまいそうな声で、必死に三人に訴える。
「その子は、まだ子供なの……戦うなんて無理よ、私が守ってあげないと……!」
「お母さん……」
振り返ると、お母さんはかたかたと震える手を、僕のほうに伸ばしていた。暗闇の中で手探りするみたいに。その中で光ってる、たった一本の糸にしがみつこうとするみたいに。
「ロザリオ……おかしなことは考えないで。お母さんが、絶対に……何をしてでも、守ってあげるから……」
縋るような目線に、胸が痛む。
ここで僕が、うん、わかったよ、って言えば……お母さんは、安心したんだと思う。だけど、僕はこらえて、ゆるゆると首を振った。
これ以上嘘をついたら、強い気持ちもなくなって————僕も、お母さんも、きっと……死んでしまう。
「お母さん、僕はね」
伝わってほしくて、祈るように口に出す。
あの日。あの鳥が飛んでいった日、僕が飲み込んだ言葉を。
「僕は、なんでもしてくれなくていいから……自分の足で、歩いてみたい」
————そうしたら、僕にもちゃんと、守れるような気がするんだ。
お母さんは、すべて分かったというように、咽び泣いた。
* *
「では、本当にいいのですね」
来たる日の朝、玄関先で最後にそう聞かれ、お母さんは深く頷いた。
「ええ……ロザリオを、よろしくお願いします」
昨日の、嵐のような夜のあと。僕もお母さんも、すべてをわかってしまって、互いに抱き合って涙を流した。
いつからか、二人の願いが食い違い、守るはずの相手を傷つけてしまったこと。
淡く生ぬるい、ゆっくりとした時間が、脆い硝子細工のように砕けてしまったこと。
————外に、出たかった。今は、出ないといけない。
そう言ったときお母さんは、すべてを後悔したように膝を折って泣いた。お母さんが長いこと僕を縛り付けていた時間。その時間すべてが、今度はお母さんを一度に痛めつけた。
どうしてこんなことになったのか、なんて、言えない。だけどひとつ確かなのは、僕も、お母さんも、互いを深く愛してた。
たとえ、お父さんが本当はもう居なかったとしても。気が遠くなるほどずっと、この森に縛り付けられていたとしても。お母さんと家族でいられて、僕は、幸せだったよ。
僕が言ったらお母さんはわあっと泣いて、これからはなんでも好きなことをしなさい、と言ってくれた。
「では、行きましょうか。ロザリオ」
横を見れば、僕の大好きな彼が微笑んでいる。
「はい、よろしくお願いします。えっと……」
「スピラです」
「……スピラさん」
ぽん、と頭に手が置かれる。
「スピラ、でいいです」
「これから先、大変だからな。お互い気遣う余裕なんてねえぞ」
ジークさんがそう言って、大きな手で髪をくしゃっと撫でた。
僕は頷き、もう一度前を見た。16年過ごした家を背に、お母さんが立っている。お母さんの瞳は濡れて、きらきらと揺れていた。
「……これで最後ですが、貴女はここに残るのですか?戦う意思はなくとも、もう少し安全なところまでお連れしますが」
スピラに言われても、お母さんは穏やかな顔で首を振った。
「残ります。その子が帰る場所は、ここにしかないでしょう」
スピラは微かに頷くと、それ以上何も言わなかった。礼をして、歩き出す。
「ロザリオ!」
僕も付いていこうとして、お母さんの呼び声に一度だけ足を止めた。お母さんは輝く瞳をいっぱいに開いて、僕を見る。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
どこかで、鳥が高らかに鳴いた。
————はじめて、さよならをした。
僕とお母さん、二人だけの世界は、綻びて落ちていった。
その姿はあたたかさを残したまま遠ざかって、小さな庭のジオラマみたいに、僕のこころにおさまる。
ぜんぶ、思い出になってしまった。
そう思うと、外に出るのはうれしいのに、胸がぎゅうっと締め付けられた。顔を上げて、どんなに凛として歩いても、見たいはずの前がしめっぽく滲んでいく。
「……行けますか?」
森の出口を前に、スピラが問う。
「行きます」
僕は、袖でぐっと涙を拭った。前を見る。森の木々がぱっくりと割れて、すぐそこに明るい場所が開けていた。
白い光のなかへ、踏み出す。
「わ、あ……」
飛び込んできたのは、黄色い荒野と、どこまでも続く、蒼。
木々の間から降り注ぐ光ばかり見ていたから、空って白いものかと思っていた。こんなに蒼くて……こんなに果てしないなんて。
眩しくって目がくらんで、その広大さに、足が竦んだ。この空の続くぶんだけ、僕の知らないことが待っている。
「怖いですか?」
「ほんのちょっと」
肩を竦めてみせると、スピラは笑った。
「この世界はとても理不尽ですが、大丈夫。強い気持ちを忘れなければ、どこへだって行けますよ」
蒼い光を背に、彼が手を差し伸べる。
「さあ、ロザリオ……勇気を出して」
「……はい!」