ミニチュアガーデン——2
寒さと息苦しさで目が覚める。全身が鈍く、痛む。まだ若干ぐらぐらする視界を凝らす。薄暗い……ここは、どこかの部屋のようだ。
どうにか上体を動かそうとするが、上手く身動きが取れない。後ろ手に縛られているのと、この身体の重さ……麻酔でも打たれたようだ。おそらく、肩に受けたあの矢だろう。
どうやら少し面倒なことになったらしい。観念して、もう一度部屋の様子を観察する。
広さ、室内の様子からして、どこかの民家の一室だろうか。明かりは点いておらず、唯一の小窓からは、鬱蒼とした森の木々が見える。首を曲げるとカインとジークの姿が確認できた。やはり後ろ手にロープで縛られた体勢で、並んで壁際に座ったまま眠らされている。
三人とも矢を受け倒れたのだから、誰かがここまで運んでくれたのには違いないのだが……この様子だと、どうも歓迎されている風ではなさそうだ。
再三、周囲をぐるりと見渡す。かなり目が慣れてきて、部屋の隅に蜘蛛の巣が張っているのが見えた。物は少なく、出入り口付近の角に小さな机と、古びたランプ、そして用途の分からない様々な金具や紐が乱雑に置かれているだけだ。我々以外に人は居ない。どうやら、あの少年まで連れ去られたというわけではないようだ。
(これは、どういうことでしょうかね)
嫌な仮定は、考えれば考えるだけ出てくる。しかし、何にせよこのままの状況では分が悪い。ひとまず彼らを起こす必要があるだろうと、両隣に眠る二人を足で蹴倒した。
「いつまで呑気に寝ているんです」
寝惚けたような声を漏らして、二人が目を開ける。その様子と言ったら全く緊張感に欠けるものだったが、置かれた状況を理解するにつれ、彼らの表情は険しく変わっていった。
「……どこだ、ここ」
「さあ。見た感じどこかのお宅の一室のようですが」
「なんてこった……くそっ」
カインの上体が微かに揺れる。おそらく、縄を解こうと躍起になっているつもりなのだろう。しかし動きが緩慢で全くもって効果がない。
「無駄ですよ、相当強い麻酔です。おそらく動物用でしょう」
「はぁー……まじかよ。これじゃドアを蹴破るにしても無理だな」
ジークも観念して、天井を見つめた。
「ですが、いずれはそうしますよ。永遠にお世話になるわけにもいかないので。今のうちに身体を目覚めさせておいてください」
「へいへい」
「そういや……俺たちだけか?あの子は?」
室内を見回して、カインが言う。
「ええ、ここには居ないようですね」
そのままの答えを返すと、彼の表情が沈んだ。
「そうか……無事だといいな」
屈強で厳つい顔をしているが、彼はなかなかのお人好しだ。声色が沈んでいるのは、最悪のケースを考えてあの子の身を案じているせいだろう。
「……そうですね」
彼の心中を察して、ただ、そうとだけ言った。
「泣かせちゃったし、な」
と、ジークが視線を寄越す。責めるでもなく、私の反応を待っている。私は床に視線を落とし、あの子のことを思い浮かべた。
「確かに、踏み込みすぎたかもしれません」
この森に来てからというものの、らしくないことばかりだった。それも全部、あの少年のせいだろう。
薔薇の咲き乱れる景色の中で、柔らかな髪を風に揺らして立つ彼を見たとき————記憶の中の少女が帰ってきたかのように錯覚し、ぎょっとした。そんなはずないと分かってはいたが、その瞬間に重く閉ざされていたはずの思い出の蓋が、湧き出る水に押されるように外れてしまったのだ。
『私ね、自分の意思でお屋敷の外に出たことがないの』
少女は言っていた。
『そっか……じゃあ、外に行きたいんだ』
愚かな少年は、そのように理解した。自分もかつて、外の世界を切望していたから……彼女と自分は似ているところがあると、おこがましくもそう思ったのだ。もっとも、彼女の外の世界に対する憧れは、あのように穢れたものではなく、もっと純粋できらきらとしたものだったろうけれど。
しかし少女は肩をすくめ、首を小さく横に振った。
『べつにいいの』
どこか憂いを帯びて、彼女は笑う。
『お父さまもお母さまも、私のことをとても心配してる……きっと、大切にしてくれているのね。私も、お父さまたちが大好きだもの。心配をかけるくらいなら、私、ここにいたほうがいいわ』
少年はかける言葉に戸惑い、二人のあいだに沈黙が流れた。本当にそう思っているのなら、なぜ、そんなにも健気で切なげな顔をするのだろう。
『……なんてね』
少女がぽん、と小石を蹴飛ばした。
『本当は、すごく外に出てみたい。この目で見たいものがたくさんあるのよ。私が部屋でお勉強している間も、本を読んでいる間も、窓の外にはいつも無限に知らない景色が広がっていて……私も、いつかその中を自分の足で自由に歩いてみたいって、そう思ってた』
そのとき少年は、少女の翡翠色の瞳が異国の街並みを映して明るく輝くのをたしかに見た。
『……僕が、連れていってあげるよ』
幼い、意気地なしの彼にしては、ずいぶん勇気を振り絞ったものだと思う。頬を火照らせながら懸命に発した少年の言葉を聞いて、少女はそれは幸福そうに、花のような笑みを零すのだった。
『約束ね!』
結局、その約束はかなわなかった。
外へと逃げ出すすんでのところで、彼女はその命を散らした。————私が殺したのだ。
「ただ、気になったんです」
ぽつり、言葉を落とす。
「あの子のこころが、どこにあるのか」
————外に出たい。
そう語った少女の瞳と、あの子の瞳が、ひどく似ていたから。
あの子のためとか、そんなのではなくて、ただ勝手に言葉が出てしまった。
「死んでしまいますよ、か」
私の思考と同調するように、カインが呟く。
「そういうお前はどうなんだよ」
その目は、射抜くように私を見ていた。
「スピラ、お前は今、どこにいる……?」
————この男は。
一見馬鹿なようでいて、いらぬところで想像力がはたらく。
「……なんのことやら」
くだらない、こんな話はもうやめだ。
ほんの一瞬でも動揺した自分を戒め、縛られた後ろ手をくねらす。そろそろ麻酔が良い具合に弱まり、適度に握力が戻ってきた。右手で左手の親指の付け根を掴み、一思いに曲げる。ゴキン、という鈍い音とともに鋭く痛みが走り、指元の関節が外れた。
陥没し、関節ひとつ分細くなった手をロープから引き抜く。詰めていた息をゆっくりと吐き出すと、汗が一筋、流れ落ちた。
「貴方たちも早くした方がいいですよ、麻酔が切れてからではかなり痛いですから」
右手で外した関節を戻しながら忠告する。
「簡単に言ってくれるよな、ほんと」
悪態をつきながら、カイン、そしてジークもあとに続いた。
両手が自由になると再びその手を背後で交差させ、先ほどまでと同じ体勢を作る。あとはとにかく麻酔が早く切れることを期待しながら、ひたすらその時を待った。
* *
どのくらい経っただろうか。小窓の外がすっかり暗くなり、目を凝らせどほとんど何も見えなくなってきた。暗闇の中で、フクロウの声が不気味に低く響く。
感覚が、ほぼ戻ってきた。そろそろドアを蹴破るか……そう思って出口の方へ目をやったとき、突如として扉が開いた。外の眩しい光がもろに目に刺さり、思わず顔を顰める。
「あら……起きていたの」
————女性の声だ。
目を細めて見れば、長方形の光の中に長い髪のシルエットが立っていた。片腕だけが異様に長く見えるのは、何か棒状のものを握っているからか。
「眠っていたほうがよかったでしょうに」
女性のシルエットが、ゆっくりと部屋の中へ踏み込む。その姿が光源から離れるにつれて目が慣れ、彼女が持っている棒の正体がわかった。————鉈だ。
女は机の前まで歩いていくと、ランプに火を点した。続いてドアが閉められると、部屋全体がぼんやりとしたオレンジの薄明かりに照らし出された。その明かりの中で、女の姿が不気味に浮かび上がる。
「あの子を寝かしつけるのが、大変だった……」
昼間出会った少年のことだと、すぐにわかった。色素の薄いふわふわとした髪は、あの子とそっくりだ。彼女は……あの子の母親か。
「何のつもりです?」
彼女に問う。形の良い唇が、薄く笑う。
「ほら、あの子、育ち盛りでしょう……?あの子に、お肉を食べさせてあげないと」
隣の二人が、息を飲むのを感じた。
「……なるほど」
人喰いの噂は、あながちでたらめではなかったか。
「悪趣味だな、おい……」
ジークが吐き捨てるのを、彼女は冷たく見下ろした。
「あの子に近付いた、罰よ」
「罰だ……?」
「折角、この森で大事に育ててきたのに」
そう言う彼女の声はいかにも哀れな風に湿っていたが、とても同情する気にはなれなかった。
「……つまり、貴女が彼をこの森に引き止めていたんですか?ただの一度も外に出さずに?一体なぜ」
「ほら……今の世の中は危険でしょう?あなたたちみたいに武器をもった人たちや、汚い思いや出来事が溢れてる。そんなものに、あの子は触れさせない」
その目は、ランプの火を映してめらめらと燃えていた。
「あの子を守ってあげたいの。あの子のためなら私、何だってしてあげる。必要なら命だって差し出していい」
気圧されるほどの、重い言葉だ。その言葉は真実には違いないのだろうが、しかしそれ以上にごてごてとした重いエゴが纏わり付いているように思えて、苦笑が漏れた。
「あの子のため……ね。本当にそうだといいですが」
「なんですって……?」
「子供のためを言い訳に使うなよ」
刹那、何かの琴線に触れたように————彼女の瞳がぐらりと揺れる。
「おまえに何がわかる!」
激昂とともに、鉈が振りかぶられる。その瞬間を合図に、三人同時に後ろ手の交差を解いて素早く飛び退く。女が驚き焦るうちにカインが彼女を取り押さえ、ジークが鮮やかな動きで鉈を奪い取って、小窓の外へ投げた。
「こっちです」
ドアを開け放ち、促す。二人は即座に頷き、女を解放すると部屋の外へ走った。
————飛び出した先は、ダイニングだった。
二人がけの可愛らしい木のテーブル、籠に盛りつけられた新鮮な果物、いたるところに見える花飾り。幸せそうな家族の写真や、小さな子供が描いたらしい絵が大事に枠に入れて飾られてあって……そこは、いかにもあたたかな家庭の一角といった感じで、ほんの一瞬、はたと足が止まる。
「待ちなさい……!」
振り返れば、先ほどの女が鬼の形相で追ってきていた。彼女は、おそらくは毎日この部屋で子供に向けて、優しく笑っているのではないか。そう思うと、急にたまらない気持ちになった。
「……カイン、ジーク、荷物は」
彼女から目を離さないまま、二人に確認を取る。
「見当たらない!どこか別の部屋か……」
となると、やはりこちらが先決か。腹を決め、彼女の前に向かい立った。
「本当に、あの子を一生この森に閉じ込める気ですか」
彼女も足を止め、淀みなくそれに答えた。
「言ったでしょう、あの子にとっていちばん良いことだもの。仕方ないわ」
————やはり、疑いもしないか。
しかし、彼女が“安全だから”森に引きこもることがいちばん良いのだと思い込んでいるならば、それは大間違いだった。
「この森の近辺が今、どのような状況か知っていますか」
「さあ……もう16年も外に出ていないもの。でも危険なことに変わりないでしょう」
「ええ、確かに。……しかし、今やこの森も安全とは言えない状況なんですよ」
彼女の目が僅かに揺らぐ。
「……どういうこと……?」
やはりそうだ。子供だけではない。母親もまた、外のことは何も知らない。つけ込むような感じがして少し後ろめたかったが、ここまできて後には引けない。彼女に、外の世界の真実を伝える。
「帝王軍が、急激に侵攻を進めています。各地の市街も次々と襲われ……我々は、その動きを辿るようにして、この森に迷い込みました」
「俺の故郷も“人狩り”に遭った」
ジークが苦々しげに告げた。
「大量虐殺だよ、奴らの独断でな、好き勝手に殺されるんだ……弟も亡くした」
「もう、すぐ近くに奴らが潜んでいるかもしれません。あなたは、それでも……」
我々が話している間、相手は不安を目に浮かべてそれを聞いていた。現状を知って、彼女が少しでも危機感を抱いてくれれば……我が子の話に、耳を傾ける機会にも、なってくれるかもしれない。そう、期待した。
「嫌よ」
だが残念なことに、彼女の意見は変わらなかった。
「あなたたちの言うことなんか信じられない……それに、黙ってじっとしていたら、素通りしてくれるかもしれないわ。奴らのいる外に出るなんて、それこそ絶対に嫌」
「なぜ、そこまで……」
「なぜですって!」
怒りに涙を零しながら、彼女は叩き付けるように叫んだ。
「夫は……あの子の父親は、奴らに……帝王軍に殺されたのよ!」
「それ……本当……?」
突如として降ってきた声に、沸き上がっていた空気が一瞬にして凍りつく。見上げると、二階へと続く階段の上に、パジャマ姿の少年が立っていた。