ミニチュアガーデンーー1
「お母さん」
森の中を歩く。
「お母さん?」
朽木に座る後ろ姿が、振り返った。
「あら、ロザリオ」
お母さんは、いつもと変わらぬ優しい顔で微笑んでいる。
「お母さん、今日はね、バラの花が咲いていたよ」
ゆっくりと頷くお母さんに、僕はもっと、いろいろ話したくて、近付いて、首をめいっぱい上げてお母さんの瞳を見る。
「花のまわりをね、蝶が———」
「ロザリオ」
そっと、白い手が頭に置かれた。そのままやさしい動きで、手がゆっくりと髪を梳く。
「……あまり、遠くへ行かないでね」
さあっと風が吹き、頬の熱を冷ましていった。
「……うん」
* *
深い深い森の奥。僕とお母さんは、ふたりきりで暮らしていた。僕にとっての世界は、この森がすべてで。いつも、お母さんの声を静かに聴いていた。お母さんは、とてもやさしくて。森の中は、居心地がよかった。
「ロザリオ、今日はあなたの好きなアプリコットのパンケーキよ」
森にあるものだけを食べて。歌をうたって。夜には、お母さんの話に耳を傾けて、眠りにつく。
「ロザリオ、大好きよ」
お母さんは毎晩そう言って、僕を撫でてくれた。
「僕も、お母さんが大好きだよ」
僕が言うと、お母さんは本当に嬉しそうに笑う。
「お母さんね、あなたのためなら、何だってできるわ」
それが、お母さんの口癖だった。
「ロザリオ……私のかわいい子」
慈しむように撫でてくる手。僕は、その手に意識を溶かされて、まどろむ。
「おやすみ、お母さん」
「おやすみ、ロザリオ」
* *
次の日も、バラの花が咲いていた。
僕は朝からそこへ行って、花にたくさんの虫が群がるのを見ていた。花はミツを分け与え、虫たちはそれを受け取る。花と虫はなかよしなんだね。そう思うと、目の前のものたちが愛しくて、自然と笑みがこぼれた。
「あれ」
ふと下のほうに目をやると、葉っぱにとまった一匹の虫が、バラのからだを齧っていた。からだを器用に動かしながら、しゃくしゃくと食べている。
痛くないのかな。そう思って見ていると、頭の上のほうから、ぴいっ、と高らかな声がきこえた。
「あっ」
懸命に葉っぱを貪っていた虫が、一羽の鳥に攫われる。鳥は瞬く間に舞い上がり、高くそびえる木々の、向こう、向こうへ飛んでいく。僕はただ立ってそれを見送った。空を塞ぐ緑のわずかに開いた隙間からちかっと差す白い光に、たった一瞬、目をつむる。
次の瞬間には、あの鳥の姿はすっかり消えてしまっていた。
『あの鳥は、どこへ行ったの?』
小さな男の子の姿が見える。あれは、幼い日の僕。
『あの鳥はね、森の外に行ったのよ』
あの日のお母さんが、そう教えてくれた。
『そと?それって、どんなところ?』
僕が目をまあるくして尋ねると、お母さんはふっと微笑んだ。
『あなたは、知らなくていいのよ』
何も知らなくていい。お母さんは言った。
『森の中にいれば、安全だから。傷つくことも、怯えることもしなくていいの。ここにいれば、お母さんが守ってあげるから』
僕の知りたかった答えとは違うけど、そんなお母さんを見ていると僕はなにも言えなくて、ただ黙って木々の向こうを見つめていた。
「ロザリオ、ここに居たのね」
切羽詰まった声がして、幼い日の幻はかき消された。振り返ると、幻ではない、本物のお母さんがそこに立っていた。
「どこかへ行ってしまったんじゃないかと心配したわ」
お母さんが僕に駆け寄り、きつく抱きしめる。
「心臓がとまるかと思った……」
「お母さん……」
———お母さん、鳥が飛んでいったよ。あの日とおなじ、外へ飛んでいったよ。
———お母さん、外ってどんなところ?
———お母さん、僕、本当はね……
言葉はたくさんあったはずなのに、なんにも言うことができなくて、僕はかわりに「どこにも行かないよ」とつぶやいた。
べつに、この森の生活がいやなわけじゃない。お母さんは優しくて、森は静かで、心地がいい。それでも今日のような夜には、鳥にでもなって飛んでいきたくもなる。
「お父さん……」
枕元の写真を手に取る。優しそうな目をした男の人が、こっちを向いて笑っていた。僕の、お父さん。実際に会った記憶はない。それでも、僕とお母さんを想いながら、どこかの街できっと頑張っているだろうお父さんを、僕はとても誇りに思っていた。
「僕も、はやくおとなになりたいな……」
いつか、お父さんに胸を張って会えるような、そんな大人になりたい。だけどそれは、僕にはまだまだ先の話なんだろうか。尋ねたところで答えが返ってくるわけもなく、やるせない気持ちで布団に潜り込んだ。
* *
また次の日も、僕は花を見たい、とお母さんに言った。お母さんは心配そうにしていたけれど、「いいわよ、行ってらっしゃい」と僕を見送ってくれた。
だいじょうぶ。本当に、花を見るだけ。余計な気は、起こさないよ。昨日と同じ場所に行って、僕はまた、ひたすら、花をじっと見ていた。
バラは、今日もきれいに咲いている。昨日齧られたところが少し黒ずんで、それでも小さく笑うように花をつけていた。毎日少しずつ花の数が増えていくのがうれしい。今日も増えたなあ……そう思いながら見つめていると、そよ風にまじって、ざわざわと物音が聞こえてきた。
なんだろう。
そっと耳を澄ませる。すると、そのざわざわは、ことばであることがわかった。
(————本当にこっちで合ってんのか?)
(合ってる合ってる。俺を見くびるなー)
(はあ……どっちでもいいですが、この一帯は立入禁止ですよ)
(なに!?お前それを早く言えよ……!)
————人……?
僕は凍りついた。どうして、ここに、僕とお母さん以外の人が……?こんなことは、僕が生まれて以来16年間、一度もなかった。とにかく慌てて、あたふたと周りを見回す。————あった!隠れられそうな茂み……!急いであそこに————。
「そもそも何で立入禁止なんだよ」
「人喰いが出るらしいです」
「げっ……!?」
「あくまで噂ですけどね」
「待て!……誰かいる」
足が硬直する。三人組の男の人が、僕を見て驚いていた。
————見つかった……。
初めて目にする他人に、特に何をされているわけでもないのに、体が震えだす。
「なんで、こんなところに男の子が……立入禁止じゃなかったのかよ」
三人の男性のうち、白い服の男の人が、前髪の長い人に問いつめる。
「はあ……私に言われましても」
前髪の人が詰め寄られているあいだに、もう一人の男の人がこちらに向かって歩いてきた。男の人が屈んで、黄色い星のペンダントがちょうど目の高さに降りてくる。
「お前、もしかして迷子?俺たちと一緒に来る?」
僕は何と言っていいかわからなくて、ただ口をぱくぱくさせた。
「よしなさいジーク。怯えているでしょう」
前髪の人が嗜める。
「え、まじで?」
「まじです」
ジークと呼ばれた人が、ごめんなー、とあやまりながら一歩、二歩と離れていく。僕がかろうじて首を振ると、彼は真っ黒のふさふさ頭を掻いてにかっと笑った。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」
と、今度は、白い服の男の人が近寄ってくる。……なんか、顔が厳つい。
「お前、どっから来たんだ?俺たち実は、道に迷っててな」
今度こそ、なにか言わないと。そう思ったんだけれど、意思に反して勝手に体が仰け反ってしまった。
「……カイン」
またしても、前髪の彼が止める。
「え、俺もダメなの?」
「なお悪いです」
「どういうことだコラ」
あの人は、カインというのか。……ひどく緊張したけれど、悪い人じゃないのかもしれないな。僕はなんとなく、そんなふうに感じはじめていた。
「……おや」
そんなとき、前髪の人がふいに呟いた。
「きれいな花ですね」
その視線の先には、群生したバラの花があった。
「もしかして、あなたが世話をしているんですか?」
彼は淡いオレンジの花弁を指でそっと撫でながら、言った。話が自分の素性から逸れたことに、少しほっとする。
「……手入れ、してないよ」
僕は、ようやく言葉を発することができた。
「見てただけ」
すると、その人は静かに微笑んだ。
「では、この花は……あなたのためにひとりがんばって、こんなに綺麗に咲いたのでしょうね」
そのとき、僅かに時間がとまったような気がした。
彼の不思議さに、美しさに、僕が気付いてしまったからだ。
「お前……クサいぞ」
「うるさいです」
「ぐぼぁ……?!」
彼らの仲間内でのやり取りをぼんやりと眺めながら、僕は、ちょっとだけ、その人ともっと話がしてみたい……なんて、思った。
「僕が居なくても、咲いたと思うよ」
そう言いながら、僕の胸は小さく高鳴っていた。
「それは、そうなんでしょうけれど」
彼は微笑む。その人の、不思議さといったら。
彼は、笑っている。咲き誇る花々に、表情を綻ばせて……それなのにその深紅の瞳には、言い表しようのない深い悲しみが宿っているように見えた。どうしてだろう。外の世界からきた、この不思議なひとは、どうしてそんなふうに笑うのだろう。外の世界で何を見て、何を聞いて、どんな経験をすればーーーそんなに、釘付けになるような顔ができるのだろう。
知りたい。この人が隠してること。話をしたい。秘密を共有するみたいに、深くこころを通わせてみたい。
だけどそう思えば思うほどに、僕の口は閉ざされていった。話はしたい。けど、僕がなにも知らないことを彼が知ったら……彼はきっとがっかりする。
「……ごめんね」
僕に言えたのは、それだけだった。
「出口、知らないんだ」
情けないけど。僕の“知らない”を彼が知るのは、これきりで十分だ。
「この森から出たことがないんだ……」
せめて、ちゃんと送り出して、それきり。さよなら。って、できたらよかったんだけど。ほんの少し、涙がでた。視界の端で、彼の口がゆっくりと開く。
「……出たいとは、思わなかったんですか?」
どきり、と胸が大きく動いた。
白い光が降ってきて、鳥が鳴く。きっと、見上げれば僕の知る唯一の、手のひらほどのおおきさの“外”が、僕のことを誘っている。
それでも僕は、飲み込んだ。揺れるな、揺れるな。そこはきっと、取り返しのつかない世界だ。
「思わないよ」
僕が居なくなったら、お母さんは森に一人きり。お母さんを悲しませるくらいなら、僕は、ここにいるほうがいい。それが、僕たちにとって、いちばん良いことのはずだから————。
「嘘つきですね」
————どうやら、僕の隠し事は……ひとつも許されないらしかった。
「僕が……嘘をついている?」
そのときの僕ときたら、平然な表情をつくって、必死に取り繕おうとしていた。だけども彼は、僕が必死に組み立てた壁を容赦なく切り崩してくる。
「ええ。違いますか?」
「違うよ」
僕は対抗するために、がむしゃらに言葉をとばした。
「僕は、お母さんと二人の今の生活が好きなんだ。僕は幸せなんだ。出たいかどうかなんて考えるまでもない、僕はこのままで満足なの」
矢継ぎ早に言うと、さっさと消えてしまいたくて踵を返した。
「ね、いいでしょ。僕帰る、お母さんが待ってるから」
そんな言葉を投げつけて、乱暴に一歩を踏み出す。その背中に彼の言葉が降りかかった。
「死んでしまいますよ」
僕はぴたりと足を止めた。
「……なに……?」
肩越しに振り返る。そうすると彼は澄ましたまじめな顔で、もう一度言うのだった。
「そんなところに居ては、死んでしまいますよ」
「死ぬ……?」
「ええ。知りたいことを知らないままで。やりたいことをやらないままで。そこでそうやって、後悔がうらみに変わるまで、ずっと————」
「僕のなにを知っているの!?」
自分でも信じられないくらい大きな声が出た。
「おい、スピラお前何言ってんだよ」
「まあとりあえず落ち着けって、な?」
カインさんとジークさんが、僕たちを必死に宥める。僕は息を切らして、全身にひやっとした汗をかきながら、混乱する頭をどうにか落ち着けていた。胸のなかを駆け巡るいろんないらいらやもやもやが、なんとかやっと鎮まりかえって……あとに残ったのは、“彼に嫌われたかもしれない”という後悔だった。
「あ……ごめんなさい……」
止めようと思っても涙が溢れた。本当に僕は、どうしようもない奴だ。
滲んでぐちゃぐちゃの目の前に、そっとハンカチが差し出された。僕はそれを受け取り、目に押し当てる。拭っても拭っても、今度は別の泉からそれは溢れてきた。
「ありがとう……僕……」
————続きの言葉は、ひゅん、と風を切る音に断ち切られた。
白いハンカチを黙って差し出してくれた、不思議な彼。その後ろに立っていた二人が、うめき声も上げず立て続けに倒れる。
「下がって」
次の瞬間には、彼は僕を背中に庇うような格好になって、刃を抜いていた。僕は言われた通りに茂みに隠れる。なにが起きているのかわからなくて、心臓が裂けそうなくらいばくばくしていた。
ひゅん、ひゅん。さっきの音が、次から次へと飛んでくる。彼が刃を縦横に振り、そのたびにカン、と何かを弾く音が鳴る。あの細い刃で、何かを撥ね返している……?
大丈夫かな。そう思って、わずかに身を乗り出した。彼が一瞬、焦ったように僕を振り返る。
————どすっ。
鈍い音がして、彼の体がぐらりと傾く。僕は慌てて茂みから飛び出した。くずおれた彼の肩に、鹿狩りの矢が刺さっていた。
「あ……」
そばに寄ると、彼は僅かに目を開いて……僕を見ようとした。けれどそれきり力つき、眠ったように動かなくなってしまった。
足元が、さあっと冷たくなっていく。先ほどの悪い夢のような光景が浮かび上がり、僕は自分がとんでもないことをしてしまったのだと気付く。
「ロザリオ!」
そんなとき声がして、木立の向こうからお母さんが駆けてきた。
「お母さん……」
茫然と立ち尽くす僕を、お母さんは掻き抱いた。その腕の力は強くて、ふっと途切れてしまいそうになる意識をうっすらと繋いでくれていた。
「よかった……無事だったのね」
そうか、お母さん、僕を探してくれたんだ……僕は白く霞む頭でそう思った。
「さあ、はやくおうちに帰りましょう」
そう言って手を引かれ、意思のない人形のように頷きかけて———すんでのところで踏ん張った。
「ま、待って」
お母さんが怪訝そうに僕を見る。
「この人たち、助けないと。怪我してる……」
三人は、倒れて意識を失っていた。みんな身体に矢を受けて、血を流して……放っておいたら、きっと死んでしまう。はやく、なんとかしないと。
「……そうね」
そんな三人をかわるがわる見ると、お母さんは頷いた。
「お母さんが連れて行くから、ロザリオは先に帰っててちょうだい。薬箱を用意して……」
「うん、わかった」
僕は言われた通り、すぐさまおうちへ走った。