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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

エヌ・ユニヴァーシティ

はめつ

作者: 白皙けいぎ

 「強者は弱者の気持ちはわからない。でも弱者は強者の気持ちが分かる」

 これがSの信念だった。どれだけ陳腐な考えと云われようとも、どれだけ偏った考えと云われようとも、Sはこの信念を変えようとしなかった。親友にも親戚に云われても同じだった。この信念はSの心の深淵に深く刻みこまれていたからである。とりわけこの新年しんねんを迎える頃になると、より一層、この信念しんねんは動じなくなっていた。まるで己の考えに操られる哀れな傀儡のように。

 一方で、Sは昔から物事の必然性について考えてきた。つまり、一に一を加えれば必ずニになるし、ニにニを掛ければ必ず四なるという、そのようなたぐいのものである。「もてない男はいろいろとつまらないことを考えるものだな」とSは自嘲しながらよく考えた。それと並行してドストエフスキーの著作やロンブローゾの生来性犯罪説に傾倒し、さらにスピノザの「永遠の相のもとに」という言葉に深い感銘を受けたのも、もはや必然と云っても過言ではあるまい。そうしてSは「人の意思ははかないもの」とまで思うに至った。

 そのようなSが社会から孤立を強いられたことは想像に難くない。人らしい生の悦びを享受しようと試みようとしても、言うまでもなくSはことごとくそれらに失敗し、青春らしい青春も味あわないないまま、ついに年齢は三十代の目前に差し掛かったのだ。「今年はついに二十代ともお別れだな」とSは絶望的な思いを噛みしめた。「なるべくしてなったのだろうけど」

 そんなSが自身を社会カーストの最底辺に据えたこともまた、必然の結果であろう。つまり最弱の弱者として己を位置付けたのである。「おれ以外はみんな強者だ」と何度もSは自分に言い聞かせた。「みんなはおれのこの絶望的な思いがわかるまい。でもおれはみんなの考えがわかる」

 Sは今まで一度も職に就いたことがなかった。N大学に在籍していたが中退し、専門学校へと進学したが、そこも途中で辞めてしまった。これら一連の経験は、つまるところ、Sの運命論ないし必然論を、強固なものにしたのだった。事実、在学中の彼は何度か運命といった必然性や決定論にあらがい、また人の自由意志を信じようと努めたこともあった。そして、人間の可能性を信じようとしたこともあった――

 しかし、やはり上手くいかなかった。結局Sは孤独となった。無論、彼は就職活動をしなかった――というよりできなかった。

 結局専門学校中退後のSは、この年になるまで親のスネをかじりりつづけて、とうとう二十九歳の春分の日を迎えてしまったのである。「おれのこうなることが、予め定まっていたとしたら」その日の深夜、Sは自室で思った。「おれが『これから為す』ことにも必然性が伴うわけなんだよな」

 するとSはいきなり机について、ペンとノートを取り出し、『ゆいごん』と題した文章をまるで何かに憑かれたかのように書きはじめた。書き出しは、

「遺言。我が唯一のごん。我が由緒ある言。唯言ゆいごん由言ゆいごん」であった。

 そして『ゆいごん』を途中まで書くと、残りの部分の執筆と推敲は『きたるべき時機』にすることを決した。その後Sは、台所へ行って出刃包丁を一本持ち出し、さらに物置でサバイバルナイフを一つ取り出して、それらを自分のリュックサックに入れた。時刻はもう午前の三時を過ぎていた。自室に戻って刃物が入ったリュックをベッドの脇に置くと、Sは己の冷めやまない興奮を鎮めるため、本棚から適当な文庫本を眼に通すことにした。彼の眼には高校時代に買い揃えた一連の夏目漱石の作品が映った。そしてその中から『それから』を選んだ。Sは出鱈目にぱらぱらとそのページをめくって、

「さしずめ『強者』の見る大卒無職はこんな感じなんだろう」と考えた。「こいつが高等遊民なら、おれは劣等遊民だけど」

 その後Sは一睡もすることなくただ呆然と朝を迎えた。『それから』はもうすでに本棚へ戻されていた。

 早朝Sは台所から適当な菓子パンを見つけてそれを頬張り、意味もなく頭の中で九九を唱えた。「三三が九。『三四』……」『それから』午前八時をまわり、父親が出勤すると、Sもまた刃物入りのリュックを背負って家の『門』をひっそりと出て、無断で親の自家用車に乗り、母校のN大学へと走らせた。

 その途上、Sはとある信号に引っかかった。そこで彼は自分の心臓が想像以上に高鳴っていることを知り、

「『彼岸過ぎ迄』には、これから為すことを決行する必要があるのだ」と自分に言い聞かせ、平生へいぜいさを取り戻そうと努めた。すると信号が青に転じ、Sは緩やかにアクセルを踏んだ。その時、ふと、どことなく、歩道にいる『行人』の視線がSの車に集中しているように感じられた。また彼の心臓が高鳴りはじめた。Sは『カラマーゾフの兄弟』で知ったチュッチェフの詩を思い出し、

「『こころ』よ、だまれ、耐えよ、鎮まれ、だまれ!」と幾度も頭の中で念じた。

 それから五十分ほど経てようやくN大学の建物が見えてくると、Sはまるで最後の審判にたたされているような気持ちになった。彼はまた大学正門の手前で信号につかまった。そしてブレーキを踏みながら、ハンドルを握る自分の手が不自然に湿っていることを知った。信号がなかなか変わらないことを幸いに、Sは苦悶した。

「かくのごとく悩むのも運命なのだろうか。それとも良心に基づく自由意志 、良心に基づく両親の、声なき声に乱されているのだろうか」そしてまた「『こころ』よ、だまれ、耐えよ、鎮まれ、だまれ!」と念じた。この信号がSにとって、彼の『明暗』を分けているような感覚に陥りながら。

 その刹那、信号が青になった。

「『則天去私』だ」Sは思わずそう口走った。


 Sは大学の右手に正門が見えるや否や、アクセルを強く踏み込んで右折し、その内部へ暴走車のごとく突進した。正門に駐在していた警備員は慌てて制止しようと試みたが、結局この車にはねられ、その翌日に死亡した。一方、キャンパス内にまで侵入したSの車は、さらに三人の学生を轢き殺した上、中央広場で急停止した。Sはすぐに下車すると、そのまま闇雲にα棟へ入り、学生をことごとく突き飛ばしながら、二階の大講堂に入った。当時そこではD教授が法学概論の講義をしていた。マスプロ授業の宿命か教室内ではやや雑談が目立ち、授業途中での入退室をする学生も散見されていたので、Sの闖入はさほど目立たなかった。Sはひとつ深呼吸をすると、リュックからサバイバルナイフを取り出して腰に差し、さらに出刃包丁を握りしめた。(この一連の作業は、事件後判明したことではあるが、誰一人とも気づかなかったという)そしてSは最後列の席ででウトウトと舟を漕いでいた一人の女学生に眼をつけた。彼女は女学生には珍しく一人で受講していて、両隣は空席だった。Sはひっそりと彼女の後方に近寄ると、その首もとを突如包丁で斬りつけた。

 彼女の苦痛の断末魔が講堂に響きわたった。これものちに判明したことだが、その際D教授は「しずかに」と云っただけで、なおも授業を続けようとしたらしい。けれども彼女から噴出する鮮血を数秒間目の当たりにすると、教授はすぐにか弱い悲鳴をあげて、ホワイトボードの前で卒倒してしまった。教室の状況は一転した。それは阿鼻叫喚の一言に尽きた。Sを勇敢にも食い止めようとする勇者は現れなかった。受講生たちは教授を残して、まるでSの存在を認めないかのように、彼のそばを通って教室の出口へと殺到した。至る所で怒号と悲鳴と嗚咽が湧いた。

 そんな中、とある女学生は血まみれの第一犠牲者を見て凍りつき、身動きが取れなくなっていた。するとSは次の標的を彼女に絞った。そしてハイエナのように彼女に襲いかかり、彼女の胸と腹をめったざしにした。彼女は即死した。余談であるが、その第二の犠牲者となった女学生は顔立ちが美しく、その上フルートの演奏は全国大会で入賞するほどの腕前であったので、後のニュースでこの惨劇の『代表的な』被害者として各マスメディアで取り上げられることとなる。

 この二人目が殺された頃になると、講堂に残っている人間はS以外では二人となっていた。うち一人はD教授であり、もう一人は男子学生のIであった。Iは部活の練習で負った脚部の骨折により逃げ遅れていたのである。SはIのもとへ向かった。Iは骨折に加えてどす黒い恐怖心により、まともに動くことができず、ただ「たすけてくれ、たすけてくれ」と喚きながら、地面をミミズのように蠕動していた。SはIの背中に馬乗りになって、

「仕方がない、仕方がないんだよ」と叫んだ。「これはなるべくしてなったんだ」

 Iは全身を用いて必死に抵抗したが、その効力を発揮することはなかった。SはIの背中を包丁で一回刺した。しかし思ったよりも深く刺すことができなかったので、Sは持っていた包丁を放り投げると、腰に差していたサバイバルナイフを抜き、それでIの背中をさらに三回刺した。(なおIはその後、生死を彷徨ったが、一命を取りとりとめている)SはIから離れると教室を見渡し、ようやく意識を取り戻しつつあったD教授の方へ駆けていった。Sが近づくと、D教授は身動きがとれないまま、口を金魚のようにぱくぱくと動かし、言葉にならない声を発していた。

意味いみのない学問をみ嫌っていたのはアンタだったな」とSは云った。D教授に応答はなかった。そのままSはサバイバルナイフでD教授の胸を刺した――が、その時、騒ぎを聞きつけた三人の警備員がようやく教室に到着してきた。彼らは教室の地獄絵図に一瞬たじろいだが、すぐに正気を取り戻すと三人がかりでSを取り押さえた。Sは抵抗しながらも喚き続けた。

「仕方がないんだ。仕方がなかったんだ」

「黙れ、動くな」と警備員の一人が云った。

 Sはその警備員を睨みつけて、

「おれは天に則り、私を去らしめただけだ」と叫んだ。

 こうしてSによるN大学無差別殺傷事件の幕は閉じた。死者五名、重症者二名の惨事であった。四年後、Sの死刑が確定した――


(了)

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