72 揺らいだ土地へ
「ねえテオ、ハーシの実ってどんなもの?」
テオドリックの船の上でセシルが訊ねた。
もう出航して十日が経つ。一昨日、一度港に寄って出てからというもの、船は止めずに進めている。外はすっかり陽が落ち、頭上には星が煌めく。
「ついておいで」
テオドリックはセシルの手を引いて、船長室に行った。
戸棚の中から目立たない木の箱を取りだし、蓋を開けて見せた。
「これがハーシだ」
中には葡萄の実程の大きさの、黄色い果実を乾燥させたようなものが入っていた。
「これが、ハーシ……」
セシルは興味津々に見ている。
初めて見たの、というテオドリックの言葉には無言で頷いた。
「燃やしてその煙を吸うんだ」
「なんでこんなもの持ってるの?」
「そりゃあ連れてきた犬に嗅がせて、港を捜査するためさ」
そう、とセシルは返事をした。
「でもハーシの実って、出回っているのはごく最近よね?まだエートスには大量に入ってきていないみたいだけど、何か薬はないの?」
テオドリックは首を横に振った。
「残念だけど、これには効く薬はないんだ」
え、とセシルが声を出した。
「ハーシの実は心を狂わせる。これには中毒性があるらしくって、どんどん吸う量が増える。狂ってしまうと、まともな思考判断はまず無理だ。最初は嫌なことや辛いことを忘れる程度。次に幻を見るようになって、善悪の判断が鈍る。それからは幻のせいで人を傷つけようとしたり、暴れて自分の思い通りにしようとする。最後には何をする気力も失せて、モノに成り果てる。楽しいとか嬉しいという気持ちも持たない」
青ざめた様子でセシルはそれを聞いていた。
「一度軽い気持ちで手を出せば、もうまともな人間には戻れないさ」
カオラック諸島の一番大きな島である、リープ島に艦隊は上陸した。テオドリックは部下に命じて、国境付近の警備に当たらせた。
セシルとテオドリックの二人は、軍の駐屯地で休んでいた。
「セシル、街に出てみないか。もちろん、捜索も兼ねてね」
いいわ、と頷き、セシルは立ち上がった。
二人は変装をして街に繰り出した。連れている黒い犬が目立つが、それ以外は溶け込んでいる。
街は賑やかで、舶来物の絨毯や珍しい香料、動物の角や牙が売られている。人は多く、あちこちで呼び込みの声が飛び交う。
思えば、こんな場所に従者をつけずに来るなど、今までやったことがない。新鮮な心持ちで、セシルは店先の品物を見ていった。
「ははっ、そんなにきょろきょろして、なんだか面白いな」
隣でテオドリックが笑った。セシルが少しふくれて答える。
「だって、こんな所へは滅多に来ないもの」
「たしかにそうだな。あ、ほら、あれ」
テオドリックが指したのは、不透明な緑の石がいくつか嵌め込まれた髪飾りだった。
「似合うんじゃないの」
「勤務中よ」
「堅いなあ」
その時、店先で他の客の相手をしていた店主がやって来た。
「へい、いらっしゃい。あの髪飾りですかい?お目が高い」
早口な店主はそれを手に取った。
「これはちょっと曰く付きでね。なに、たいしたもんじゃない。どっかの貴族様のお屋敷から失敬したもんでさあ。どうだい、お嬢さん。あんたのその綺麗な髪なら絶対似合う、ねえ、旦那」
「へえ、どこの貴族だい?」
テオドリックが訊ねた。
「そりゃあ知らねえよ。そういうもんだろ?」
「じゃあ、盗ってきた奴は?随分勇敢な奴なんだろうな」
へっへっ、と店主は厭らしく笑った。
「聞いて驚きなさんなよ。なんと、あの赤い海賊ジル=エグモント!ま、正確にはそいつの部下だ。……って、んなこたあどうだっていい。買うのか、買わねえのか?今ならお安くしとくぜ、そこのお嬢さんの麗しさに免じてな。五ガリオン十八レーゼでどうだい」
テオドリックは手に取ってセシルに見せた。セシルは興味なさそうに肩をすくめた。テオドリックは髪飾りを店主に返した。
「残念だな、お姫様のお気には召さなかったらしい」
「あらら、そりゃあ残念だ。ま、他も見てってくれよ」
店主は他の客の相手をしに行った。
その時、店の奥で何者かがこそこそとしているのが分かった。連れている黒犬が、じっとそれを見ている。しかし、店主は気にかけていない。恐らく店員だろうと二人は納得し、その場を立ち去った。
「気づいたか、セシル」
店から少し離れた所でテオドリックが訊ねた。セシルはこくんと頷いた。




