56 二十年前の恋 2
『この杯を、その血で満たしてみよ』
杯は、大きかった。こんなものを満たすほどの血を流せば、確実に死んでしまうだろう。周りで見ていた人々はざわついた。
スキロスはアナクレア公国に、留学という名目で訪れている。この一年間、アナクレア公が突きつけた数々の出来事は、本国に漏れないようスキロスが口止めしていた。だからこそ、一国の王子にここまでしても紛争が起こらなかったのだ。しかし、スキロスが死んでしまえば間違いなく両国は争うだろう。
スキロスはアナクレア公に向かって、一言だけ聞いた。
『これを満たせば、本当にテオドラ様と結婚してもいいのですね』
アナクレア公はもっともらしく頷いた。いずれにせよテオドラがスキロスに渡るわけがない。血で杯を満たさなければこの話は白紙になり、満たせばスキロスは間違いなく失血死する。
だがその言葉を聞くと、スキロスは袖をまくり、何のためらいもなく腕をナイフで切った。
鮮やかな血が杯に落ちた。とめどなく流れ落ち、だんだんと溜まっていく。人々はそれを静寂の中で見つめた。ただ一人、テオドラだけが泣いていた。
杯にようやく半分ほどの血が溜まった時、スキロスの顔は蒼白だった。
思ったよりも杯が大きい。これは一人分を以てしても足りないのではないか?
人々のざわめきが聞こえるが、なんだか遠くの出来事のようだ。頭がぼうっとする。
『おやめください、殿下!』
まだ宰相ではなかったクレールが、スキロスにすがった。布で傷を塞ごうとする。スキロスは彼を制した。
『どいてくれ、クレール。父上はお許しくださった』
スキロスは強引に続けた。
だが暫くすると、立っている足元がおぼつかなくなってきた。台に手をつき、倒れないようにする。呼吸が荒いのが自分でも分かる。
その時突然、誰かが隣に駆け寄った。
『誰だ、次こそ邪魔する者は斬り捨ててくれる』
目を開けると、それはテオドラだった。
『あなた様に殺されるならば本望です』
テオドラはそう言い、白くて細い腕を自らナイフで刺した。そして、流れる血を杯に注いだ。アナクレア公は唖然としている。
更に二人に歩み寄る人物がいた。テオドラ付きの騎士と、一年前にスキロスと闘った剣奴だ。後から知ったことだが、剣奴はその騎士に従っていたらしい。
彼らはテオドラと同じように、自分達の腕を切り、杯に血を注いだ。
人々のざわめきは一層大きくなり、アナクレア公の額には汗が滲んだ。
杯が血で満たされ、アナクレア公は静かに席を立った。
『それがそなた達の結論か』
重々しい声は、人々の喧騒を掻き消した。
スキロスはあまりに多くの血を失い、その場にしゃがみこんだ。テオドラは彼に寄り添ったままその場を離れようともせず、また騎士と剣奴もそこを動かない。
『シャルトレーズ王太子よ。最後の条件だ。今より先、少しでもテオドラを悲しませるな』
許してもらえたのだと分かると、スキロスは顔を上げて誓った。
アナクレア公は次にテオドラを愛しげに見つめた。
『テオドラ、一人娘のお前の幸せこそ私の望みだったが……』
続く言葉は宙に消え、アナクレア公は静かにそこを去った。
それから三ヶ月後、二人は正式に婚約した。
アナクレア公は二人が結婚した後、公位を剥奪され、もとのエレフシア公に戻った。その時の騎士と剣奴も追放され、今はテオドラのもとで再び騎士として仕えている。騎士の名は、フェリクスといった。
「今のアナクレア公ジェロームはカヴールに頭が上がらない。あちらにつくのは当然だ。父君は何もあなたのことを理解していないわけではないんだよ。ただ、あなたを危険な目に合わせたくないのだ」
スキロスは一呼吸おいた。
「今にして思えば……あそこまで父君が反対なさったのは、もしかしたらシャルトレーズ王妃は軍補佐官として戦場へ立たなければならないからかもしれない。私だって、あなたを危険な目に合わせたくはない。まさか生きているうちに二度も戦をすることになろうとは思いもしなかった」
私は言ってみれば、公国から姫を奪ったにすぎない。
現アナクレア公ジェロームはテオドラとスキロスの結婚に最後まで反対していたというから、きっとスキロスの行為を、アナクレア公国に対する侮辱だととっているだろう。
妻はいつしか寝入ってしまった。スキロスは窓辺へ行くと、月を見上げた。青白く光る月が、なんとも物悲しい。
振り返ってテオドラを見ると、体の中に鉛の玉が入っているみたいに重く感じられた。
望まずして多くの人に恨まれることとなった。カヴール、アナクレア公ジェローム、前アナクレア公マルディン、ロアノーク。もしかしたら心の底では、兄すら自分を恨んでいるかもしれない。
妻の寝顔を見ながら思った。
あんなにも多くの人から愛されている人を奪ってしまったのだ。果報者であると同時に、大罪に違いない。我が身に降りかかる火の粉はそのせいか。
「束の間の和平だったな……」
月は雲に隠れた。
再び空が紅く燃える日も近い。




