101 悲しみの荒野 4
テオドラが力なく微笑んだ。初めて見たあの日から変わらない、暖かくて優しい笑顔。どんな氷でもきっと溶かしてしまうだろう。
「陛下……ごめんなさい……」
かすれ声で妻が呟く。スキロスは彼女の手をしっかりと握り、妻を見た。涙が溢れて止まらない。テオドラの頬にも、幾筋か伝う。回りの人々は皆もらい泣きしていた。
「何を謝る、テオドラ。守れなかったのは私だ……約束したのに……必ず守ると……」
そうだ。テオドラがシャルトレーズに嫁いだ時、いや出会った時、この人を命懸けて守ろうと思った。なのに……。
言葉は全く無意味で、スキロスはただ手を握ることと泣くことしか出来なかった。王位も権力も、竜の剣も何になろう?愛する人を守ることすら出来ない。約束を守れない。無力だ。悔しくて仕方がない。
だが手を握ることと泣くこと、それだけで十分だった。言葉は無意味で不必要だった。
テオドラが急に顔をしかめ、動かない体をよじって苦しみだした。
「テオドラ!」
出来ることならば彼女と代わってやりたい―――。スキロスは本当に何も出来ない自分を恨んだ。
苦しそうにしていたテオドラは少し落ち着き、スキロスを見た。荒い息をし、目をとろんとさせる。
「い……今はもう、エートスに残した子ども達が心配ですわ……。それと、あなたも……。いいですか、あなたはシャルトレーズ国王……国王たる義務があります……」
目を閉じて一瞬安らかな顔になったテオドラに、スキロスが必死にしがみついた。
「テオドラ!逝かないでくれ!頼む!私を置いて……どうか……!」
言葉が途切れた。将軍達の圧し殺した嗚咽が聞こえる。
「陛下……笑っていてください、国王は……どんな時も、民を勇気づける者……」
テオドラが薄目を開けた。スキロスは涙を拭い、微笑んだ。きっと歪んだ微笑みだろう。けれどテオドラは満足そうに目を細めると、また閉じた。
「陛下……私、あなたを……ずっと、お慕いしておりますわ……」
「私もだよ、テオドラ。あなたが愛しくてたまらないよ」
微笑んだまま、詰まる声でスキロスは言った。涙で視界がぼやける。テオドラの顔をもっとよく見たいのに、よく見えない。そのことにさえ涙が出る。
「私……幸せです……」
小さな呟きを最後に、テオドラの手から力が抜けた。スキロスは目を見開いて彼女を見た。
「テオドラ……?」
王妃は呼び掛けに答えない。もう一度名前を呼び、スキロスは王妃の頬をなぞった。
現実が胸に突き刺さる。涙が止めどなくこぼれる。スキロスは天を仰ぎ、叫んだ。
それから立ち並ぶ将軍達に背を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「暫く……二人だけにしてくれないか……」
宰相が促し、人々はテントを出ていった。
「テオドラ……ごめん……」
人の足音がしなくなると、スキロスはテオドラに語りかけた。彼女の額を優しく撫でながら、かすれた声で言う。
「よく……頑張ったな……」
彼女は胸を撃ち抜かれている。血を流しすぎて亡くなったのだ。血を流しすぎて死ぬのは苦しいという。死ななくとも、撃たれただけで痛いものだ。
お疲れ様、と声をかける。
大丈夫、一人になどさせない。誓い合った時から、そんな選択肢などないのだ。寂しい思いも辛い思いも何もかも分け合おうと言った。
「すぐに私も行くよ。待っていてくれ……」
その時、現 玉蘭国皇帝、賢允帝がテントに入ってきた。よく日焼けした皺のある顔をしかめ、顎髭を撫でながら二人を見ている。
「シャルトレーズは」
賢允帝がスキロスの方に歩いて近寄りながら、口を開いた。低く静かな声が雨音に混じる。
「噂には聞いていましたが、王妃も軍司令官として戦場に立つのですね。……勇敢な方でした。私はほんの僅しかお側にいませんでしたが……よく護衛兵とも話をしていらっしゃった姿が印象的です。こんなにも人を慈しみ国を愛する人を私は知りません」
その言葉を聞きながら、スキロスは静かに涙を流していた。ぼうっとした頭で、全てが自分と無関係に思えた。
ですから、と賢允帝はスキロスの隣にしゃがみ、テオドラの顔を見つめた。
「ですから、あなたは今のままではなりません」
スキロスは、魂の抜けたような光のない目で賢允帝を見た。




