忘れた記憶
あなたは、不思議な体験をしたことがありますか?
地元にある三百メートルほどの山は、幼い頃に友達とよく遊んだ場所だ。もちろん地元の人たちにも親しまれていたし、その低さから、登山初心者にも人気の山だった。
お盆休みに帰省した翌日、家族で墓参りに行く予定をしていたのだけれど、疲れていたのか実家の安心感からなのか、スマホのアラームが全く聞こえず大幅に寝過ごした。リビングで母親と顔を合わせるなりどうして起こしてくれなかったのだと文句を言えば、何回も起こしたと怒られ、さらに言い返そうとしてぐっと言葉を飲み込んだ。よくあるこの言い合いに、終結がないのは嫌というほど経験しているからだ。さっと顔を洗い、用意してくれた朝ごはんを食べ始める頃には些細な苛立ちなどいつの間にか忘れていた。
ひとりで墓参りに行くのもと思い、ダメ元で父親を誘ってみたけれど、黙って線香の入った箱を渡されただけだった。
墓参りの帰り、久しぶりの帰省ということもあり、見慣れたはずの風景に懐かしさがこみ上げ、足は自然と例の山へと向かっていた。
国道から一本路地に入ると、あの日と何も変わらない景色がそこにあった。
緑色が濃い木々のトンネルの下を歩きながら、ここで遊んでいた頃のことを思い出し心が和む。
友達と作った秘密基地の場所はさすがに覚えていないけれど、立入禁止の看板の向こう側はいったいどこへ繋がっているのか、あの頃の好奇心は尋常ではなかったこと、そしてその錆びたくさりを興奮と恐怖、背徳感が入り混じった小さな背中で堂々とまたいだあの日のことは、今でもよく覚えている。
うるさいセミの声や、山水がせせらぎとなって流れ出ていた場所は、きっとこの先も変わらないだろう。懐かしさに浸りながらしばらく歩いていると、不意に、大事な何かを忘れているような気がした。子供の頃の思い出なのか、今現在のことなのか……
すると突然、周りの音がすっと消え、電子音のような高音が頭の中でぐわんぐわんと鳴り響いた。思わずその場でしゃがみ込み、ぎゅっと目をつむる。耳鳴りなのかめまいなのか、それが治まるのを待った。
次第に周りの音が戻ってくる。何だったのだろうと思いつつも、深くは気にせず再び歩き出す。顔を上げると、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。女性だということはすぐに分かったけれど、登山客ではなさそうな服装から、地元の人なのだろうと勝手に決めつけ、気に留めることなく山道の端に寄って歩き進める。一歩、また一歩とその女性に近付くにつれ、不思議な感覚に襲われた。膝よりも少し長めのクリーム色のワンピースを、なぜだか僕は覚えていると思った。次の瞬間、その女性と目が合い、はっとなって視線を逸らした。刹那、甘い花の香りが鼻を抜けた。この香りを、またしても覚えていると思った。
「久しぶりね」
すれ違いざま、その女性が僕に向かって言った。けれど、久しぶりも何も、初めて見る顔だ。
「——覚えてないかな?」
まるで、小さな子供にでも話すような口調だ。
「あの、失礼ですけど僕とはどこで……」
そこまで話すと、女性は笑いながら「ごめんごめん」と言った。
「いきなりでびっくりしたよね? そっか、覚えてないか。もうずいぶん昔にね、私たち何度も会ってるんだけど……」
そう言われても、覚えていないものは覚えていなかった。
「夏樹くん、でしょ? 倉橋夏樹くん」
名前を言われ、どうして知っているのかと聞きそうになり、寸前で思いとどまった。代わりに、頷いて答える。
「良かった、間違ってなくて」
笑った顔に、心臓が大きく跳ねた。
「なんだかまた大きくなった?」
年齢を言われたのかと思いきや、右手を僕の頭上高くに上げるから、身長のことを言われているのだと理解した。ただ、大人に向かって「大きくなった」はなかなかに言わない台詞だ。ある程度の不信感を持ちつつ、次に何を言われるのだろうと身構えていると、高く上げたその手で僕の頭を柔らかく撫でた。それも、ものすごく自然にそうするものだから、思い切り動揺した。
「お友達は元気にしてる?」
いったいどの友達のことを言っているのか分からなかったけれど、知っている限りで周りの奴らはみんな元気だ。だからまた、頷いてそうだと答えた。すると、良かったと言わんばかりに目を細めるから、すっと吸い込んだ息をうまく吐き出せなかった。
「今日はひとりなの?」
女性が聞いた。
「え、はい」
「そう、どこまで行くの?」
「適当にぶらぶら歩いてるだけです」
会話が、噛み合っているようで、噛み合っていない気がした。
「ねぇ、私も一緒に行ってもいい?」
「えっ、ああ、はい……」
答えると、嬉しそうに微笑んだ。
この女性からすれば、来た道を戻るかたちになるのだけれど、それでもいいのだろうか。とは思ったけれど、口にはしなかった。
小さな歩幅に合わせながら、ゆっくりと山道を登っていく。
「夏樹くんは元気にしてた?」
「おかげさまで、元気にしてましたよ」
名前が、どうしても思い出せない。聞いていいものだろうかと悩んでいると、隣で小さく笑うのが分かった。
「——那奈」
それが名前だと気付くのに、ゆっくり一呼吸分はかかった。
「芦屋那奈。ちょっとは思い出してくれた?」
思っていたことが顔に出てしまっていたのだろうか。驚いて言葉に詰まり、変な声が出た。それをごまかすように咳払いをしてから、適当に笑ってやり過ごす。
正直、名前を聞いてもぴんとこなかったけれど、覚えていないとも言えなかった。ただ、この女性に、那奈さんに対して嫌な感じは全くなく、むしろ逆に、懐かしく思い始めていた。
大きく口を開けて笑うと、左の頬にえくぼができるのを僕は知っている。
——知っている?
思い出せそうな感覚はあるのに、次の瞬間には消えてなくなってしまう。
那奈さんが大きく口を開けて笑った。左の頬に、僕の知っているえくぼがくっきりとできている。
不思議と会話が尽きなかった。僕からすれば、ほとんど初対面に近い異性と、こんにも自然に会話をしたのは初めてだった。おまけに、一緒にいて楽しいのだから言うことはない。
「……あの」
「ん、どうしたの?」
「那奈さんて、呼んでもいいですか?」
そう言うと、ふふっと笑うから、照れ臭くて同じようにそうした。
「昔は那奈ちゃんて呼んでたのに、いつの間にか大人になっちゃったんだね……」
遠くを見つめる横顔が、どこか寂しげに見えたけれど、それはすぐに彼女の笑顔でかき消された。
「夏樹くん、いくつになったの?」
「今月で二十八です」
「そっか。なんだかあっという間だね。私より五つも年上になっちゃったか……」
不思議な言い方をすると思ったのも一瞬で、僕よりも年下だったことに驚いた。どうしてか、最初から年上だと思い込んでいたからだ。
「ねぇ、もうすぐ誕生日じゃなかったっけ?」
「え、明日です」
「それじゃあ明日は家族のみんなにお祝いしてもらうの?」
「いえ、特には。誕生日にわざわざケーキをねだったりするような歳でもないですから」
答えながら、彼女と過ごしたいと思った。できるなら、二人きりで。
「ねぇ——」
呼ばれて、はっとなる。
「いつまで敬語で話してるの?」
「え、いつまでって、なんとなくこっちの方がしっくりくるって言うか……」
「そうなの? でも、私は昔みたいに気軽に話してほしいけどな」
拗ねたような顔をするものだから、思わず頬がニヤけそうになる。
「それじゃあ、那奈がそう言うなら、そうしようかな」
照れ隠しから、冗談混じりにそう言うと、彼女は口元に手を添えて小さく笑った。
とりあえずは、間違ってはなかったようだ。
「夏樹くん、相変わらず女の子にモテるでしょ?」
「まぁ、モテなくはないかな」
依然としてふざけた僕の口調に、彼女がまた、大きく口を開けて笑った。こっちの方がいいと思った。遠慮なく笑う彼女の方が好きだと思った。
——好き、だと思った?
風が、彼女の髪を揺らす。それだけで絵になるのだから、彼女こそモテないはずがないだろう。そんなことを考えていたら、いつの間に下ってきていたのか、山道が、土からコンクートに変わっていることに気が付いた。
次の曲がり角を曲がれば、国道が見える。
帰りたくない。まだ一緒にいたい。そう思っているのは、僕だけだろうか。とにかく、ここで何とかしなければ、強くそう思い、角を曲がったところで足を止めた。
「あの、いや、あのさ——」
ぎこちなくなるのは、タメ口で話さなければと思ったからだ。
彼女が真っ直ぐに僕を見つめるものだから、途端に緊張する。
「明日も会えないかな?」
「え……」
「だめ、かな?」
重ねて聞くと、首を横にふった。
「その、誕生日に私なんかと一緒でいいの?」
「もちろん!」
すかさずそう答えると、眉をひょいっと上げたものの、すぐに笑顔になった。
「でも、プレゼント用意してないよ」
冗談なのか本気なのか、不安げな表情に全力でいらないと言った。むしろ誘ったのは僕で、会ってくれるだけで十分だと——言いかけてやめた。
「でもやっぱり、プレゼントほしいかも。明日の花火大会、一緒に行きたい、です……」
欲張りすぎたような気がして、思わず敬語になった。
「いいよ」
「本当に? じゃあ、ついでにもうひとつ。その、浴衣なんて着てくれたり、するのかな?」
どこか他人事のように言ってしまうのは、間違いなく照れ隠しだった。
「分かった。浴衣着てくるね」
ガッツポーズをしそうになっておかしな動きになるけれど、もはやごまかせていたかどうかは分からない。
帰り際、見送ると言ってきかない彼女に負け、登山口で別れた。
明日、この場所で夜の七時に待ち合わせることになった。
家に戻り、もはや物置きと化している自分の部屋に入るなり急いでエアコンの電源を入れた。年代物の室外機が低い音を立てて回るのを聞きながら、ぼんやりと天井を見つめた。
芦屋那奈。正直、未だに彼女が誰なのか思い出せなかった。彼女の話す様子から、僕たちは学生の頃に何度も会っていたようだった。それなのに、僕の記憶には全く残っていない——
その日の夜、僕があの山で駆け回って遊んでいた頃の話を家族にすると、みんな懐かしそうにああでもないこうでもないと話が盛り上がった。その勢いで、僕が学生の頃に仲の良かった女友達がいなったかそれとなく聞いてみたけれど、思い出せないのか、本当にいなかったのか、誰も那奈さんのことは覚えていなかった。
翌日、午後もだいぶ回ってから目が覚め、だらだらと一階に降りると、誰もいない代わりに、台所のテーブルの上には、海苔で巻かれた大きなおにぎりと、丁寧にも書き置きが添えられていた。手紙の最後にわざわざ「母」と書かなくても、そう思いながらも、こういう気遣いはめちゃくちゃありがたい。
適当につけたバラエティ番組をラジオ代わりに、スマホをいじりながらおにぎりを食べる。そうしながら、昨日彼女の連絡先を聞かなかったことを後悔していた。口約束だけの「また明日」は、正直不安でしかない。
物置き兼自分の部屋へ戻り、持って帰ってきた服を広げた。それなりのティーシャツが三枚と、今着ている寝間着同然のティーシャツが一枚、それだけだ。こんなことになるならと後悔したところで遅すぎるけれど、昨日も部屋着同然の格好だったのだからと自分に言い聞かせ、とりあえずはその中でも一番のそれなりを選んだ。
出かける前にシャワーを浴び、ついでに歯も磨いた。
待ち合わせの場所までは、実家から歩いて二十分かからないくらいだ。
国道から一本路地に入ると、昨日と変わらない景色の中に那奈さんが立っていた。淡い白色の浴衣を着た彼女は、僕を見つけるなりぱっと笑顔になった。
おかげさまで、心臓が跳ね上がる。
「待たせちゃったかな?」
彼女の前に行くなり、それらしいことを言っている自分がなんだか歯がゆくて仕方ない。
「ううん、待ってないよ」
「良かった。その、浴衣すごく似合ってます。すごく、可愛い、です……」
褒めながらあからさまに照れてしまった。それでも彼女は、それを笑ったりはせず、ありがとうと言ってくれた。
「夏樹くん、誕生日おめでとう」
「あ、ありがとう」
顔を合わせ、二人してふっと笑顔になる。
「ねぇ、どこで花火見るのか、もう決めてたりするの?」
言われてはっとなった。そのことに関しては何も考えていなかったからだ。花火がどうとか言うよりも、彼女のことで頭がいっぱいだった。
一応は、悩んでいるふりをして見せた。
「学生の頃はいつも川原のあたりで見てたかな。逆に言えば、そこばっかだったから、他の場所をあまり知らないんだ」
「そうなんだ。それじゃあ、花火がよく見える穴場があるんだけど、そこでもいい?」
「もちろん! そんな場所があるなんて、初めて聞いたかも」
彼女は山の方を指差した。
「昨日歩いた場所よりも近いから。ただね、ちょっと暗いから、足元気を付けてね」
登山口を少し上がったところから脇道へそれ、細い道を歩いていく。
彼女の肩が触れそうなほどの距離にあり、意識せずにはいられなかった。
「そこを右に曲がった場所なんだけど」
そう言って小走りになる彼女が、数歩先で振り向いた。この場所だと、笑顔で教えてくれる。
思わず声が出た。
「こんな場所があったなんて全然知らなかった」
素直に感動していると、「私も最近知ったの」、と彼女が言った。
寄り添うようにして真っ直ぐに伸びる大きな木が二本あり、それらの周りは自然とひらけていた。街路灯がぼんやりと照らしてくれるのも、雰囲気があって悪くなかった。眼下には、低い町並みが見下ろせる。
「こんな場所で大丈夫だった?」
「大丈夫もなにも、最高なんだけど」
僕がそう言うと、良かったと言いながら安心した顔をした。
木の根元に並んで腰を下ろす。
太陽が山の峰に吸い込まれ、どんどん夜へと変わっていく。
星が小さく輝き始めるのを眺めていると、肩の力がすっと抜けていくようだった。
「ただこうしてぼんやりと眺めているだけなのに、無条件に癒される気がする」
思わず本音が出た。
「普段、そんなに忙しいの?」
なんとなく意味が違う気がして、言葉を考える。
「仕事が忙しいのは忙しいんだけど、何て言うか、空を見上げることをいつの間にかしなくなってたんだなって思ってさ。別に、時間がないわけでもないんだけどね」
「そっか。じゃあ、今日はいっぱい癒されてね」
そう言うと、後れ毛を耳にかけた。彼女の仕草ひとつひとつに見とれてしまう。今日は髪の毛を結んでいるから昨日とはまた少し雰囲気が違い、大人っぽくて、色っぽい。控えめに言って、ものすごくキスしたい。彼女の首元をこっそり見つめ、顎先から唇に視線を運ぶ。
花火が打ち上がるまで、あとどれくらいだろう。彼女との会話すら、次第に上の空になってきた。
「那奈さん」
ほとんど無意識に彼女の名前を呼んでいた。
自分が何を言おうとしているのか、分かっているからどうしようもなく緊張した。言わないという選択肢は、微塵もなかった。
「あの——」
言いかけたところで、伸びてきた彼女の手が僕の髪に触れるから、その続きを飲み込んだ。
「葉っぱ、ついてるよ」
ありがとうがうまく言えず、適当な相づちを打つ。彼女が手を引っ込める前に、その手をさっとつかんだ。
「ずっと、那奈さんのことが好きだった」
そう言った瞬間、「ずっと」と言った自分に首を傾げた。間違ってはいないのに、違和感を感じた。
「夏樹くん?」
彼女の声にすっと息を吸い込んだ。
「突然こんな、驚いたよね」
「そんなこと……」
彼女が動揺しているように見えた。それでも、気持ちが高ぶり、つかんでいる彼女の手を自分の方へと引き寄せた。そして、返事も待たずにキスをした。
「僕と、付き合ってください」
順番が逆だと思ったけれど、今さらだ。
「那奈さんのこと、絶対大切にするから」
言い終わると同時に、心臓に響くほどの音と共に花火が打ち上がった。一瞬気を取られ、また、彼女に意識を戻す。
「ごめん、なんか僕、タイミング間違えたかな」
冗談にするつもりはないけれど、どうしようもなくて、可笑しくもないのに笑ってやり過ごす。
「——これは、初めて話すことだけど、本当はね、なかなかあきらめてくれないから困ってた。だけど、そう思いながらも、気付けば夏樹くんのこと目で追うようになってた」
彼女がいったい何の話をしているのか分からなかった。
「立場とか、年齢とか、もちろん色々悩んだけど、悩んでる間も、結局は夏樹くんのこと考えてるから、それってもう、好きなのに、あの時は焦らしすぎちゃったかな」
何も思い出せないのに、彼女のことが好きな気持ちだけは確かだった。
「僕のこと、今でも好き?」
「好きだよ」
そう言って、僕のおでこに自分のそれをくっつけた。
「キスしてもいい?」
小さく頷く彼女の頬に手を添え、ゆっくりと唇を近付ける。キスをする時、僕の服をぎゅっと握るその癖が可愛くて、何度か彼女をからかったことがあった——途端、電子音のような高音が頭の中で鳴り響いた。昨日と同じだ。こんな時に、そう思いながらも、顔を離して彼女の様子を見ると、小さく微笑んでいる。それだけで、とりあえずほっとした。
花火が空に咲き、次第にその音が耳に戻ってきた。隣を見ると、楽しそうな横顔に、つられて僕まで笑顔になる。
正直なところ、花火よりも那奈さんを見ていた時間の方が長かったかもしれない。
金色に輝くしだれ柳花火、そろそろ終盤が近いのだろう。
一層高く打ち上がり、今日一番の大きな花火で締めくくった。
「花火、綺麗だったね」
そう言った彼女の笑顔に、思い切り胸がしめつけられる。呼吸が浅くなり、苦しくてどうしようもない。苦しくて、苦しくて、苦しくて……
彼女が僕の涙を拭ってくれるまで、自分が泣いていることに気付かなかった。驚いたと同時に、たまらなくなって彼女を抱きしめた。
耳元で囁かれた「ありがとう」が「ごめんね」に聞こえ、堪えきれずに再び涙がこぼれた。刹那、身体中に鳥肌が立ち、頭の中に学生の頃の映像が流れ始めた。
高校三年の春、体育館。クラス替え、窓際の席。スーツを着た女性が黒板に名前を書いている。振り返ったその人は、僕たち生徒に向かって自己紹介をしている。
——嘘だ。
廊下ですれ違う時には決まって目配せをした。待ち合わせは放課後の美術室。それから、初めてのキス。初めての……
——嘘だ。
「芦屋先生? 那奈、ちゃん?」
忘れていた大事な何かは、僕の記憶だ。
「私、そろそろ行かないと」
「え?」
「思い出してくれたの?」
「うん……」
高校三年の春、教育実習でやって来た芦屋先生に、僕は一目惚れをした。なんとかして彼女を振り向かせたくて、会うたびに好きだの付き合ってほしいだのと言い続け、押しに押しまくった結果、こっそりと付き合うようになった。
あの頃は、毎日が楽しくて仕方なかった。高校生の僕をちゃんと男として見てくれた。だからつい、自分まで大人になった気でいた。
——その年の花火大会、十年前の今日、彼女は待ち合わせ場所には来なかった。
交通事故に巻き込まれ、僕の前から突然いなくなってしまった。泣き続けた記憶の先を、正直よく覚えていない。けれど、そんな大事なことをどうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう。
「もうそろそろ大丈夫かなって、思ったから。私だって、ずっと忘れられたままじゃ寂しいもの。だから、楽しかった思い出だけを、ほんの少しだけでいいから、夏樹くんの心の隅に残しておいてくれたら嬉しいなって」
彼女がおもむろに立ち上がるから、反射的に僕もそうした。
「遅くなってごめんね。夏樹くんと一緒に花火が見れて嬉しかった。ありがとう」
にっこり微笑むと、胸元で小さく手をふった。
また、いなくなってしまう。分かっているのに、声が出なかった。ただ静かに、涙がこぼれた。
彼女がいなくなった方を見つめていると、やりきれない気持ちに押し潰されそうになる。意識して踏ん張っていないと、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。拳をぎゅっと握り、眉根に力を込め、必死に那奈ちゃんの笑顔をまぶたの裏に張り付ける——
どれくらいそこにいたのか、徐々に体の力が抜け、心が穏やかになっていく気がした。
もう歩ける、そう思い、一歩足を踏み出す。
登山口まで戻ると、妙に気分がすっきりとしていた。数分前までの出来事が嘘のように、那奈ちゃんとの思い出にふっと口元が緩んだ。そんな自分に、僕自身が驚いた。もしかすると、僕がもう泣かないように、楽しい思い出だけを残してくれたのかもしれない。悲しいという感覚が、全くと言っていいほどなかったからだ。
夜空を見上げると、見たことないほどの満点の星々が輝いていた。まるで、彼女が誕生日をお祝いしてくれているようだと思った——
完
最後まで読んでいただきありがとうございます。
夏×田舎×山は、何かが起こるには完璧な組み合わせだと書き始めたのはいいものの、自分で言葉を考えながら悲しくなってしまった次第です。
とは言え、花火大会でキッスはたまらんですね(笑
よろしければ【ブックマーク】【評価】【リアクション】で想いを教えていただけると嬉しいです。
あなたのひと押しをお願いします!




