5. 選択
とんっ、という衝撃で、私は飛ばしていた意識を無理やり手繰り寄せる。
窓は最初から開いていたのか、そのままするりと室内に入れたようだ。
「ほい、お疲れ様」
レオナが、私からゆっくりと腕を離す。
小脇に抱えられていた私は、壁を登った衝撃で少し震えている両足を床につけた。
地面があることに安心し前を向くと、ぽかんと口を開いている茶髪の侍女と、目を極限まで開きすぎたせいで眼鏡がずり落ちている黒髪の侍女が目に入る。
レオナを横目に見ると、彼女は悪びれもせずに笑っていた。
「フィデナ、ユリア、ただいま」
「お、帰りなさいませ、レオナ様」
返事ができたのは、流石第一王女付きの侍女というべきだろうか。
ほぼ反射であろうと、返事には違いないのだから。
「こいつも私も腹が減ってるんだ。悪いけどフィデナ、朝食の用意をしてくれるか?あと、ユリアは体を拭く準備をしてくれ」
未だに茫然としている二人にレオナが指示を出すと、二人はゆっくりと動き始めた。
事情を聞かないのも、訓練された侍女らしかった。
二人が出て行った後、部屋には私とレオナだけが取り残される。
「特段楽しいものもないが、ゆっくりしてくれ。すぐに体を拭く準備も出来ると思うから」
「流石に、この格好でここに座るのは……」
刺繍入り絨毯と、上品な装飾が施された一枚板のテーブル。
全体的に素朴な雰囲気で纏められているものの、醸し出される上品さは隠しきれていなかった。
家具らしい家具など見たことがない私でも、それが高級品であることを容易に理解できた。
「そんなに固くなる必要はないのに、って言ってもか。慣れない奴から見たら座りにくいよな」
レオナは私に強制することなく、座りたくなったら自由に座ってくれと言って柔らかそうなソファに座る。
土が非常に取りにくそうな素材に汚れが付き、見ているこっちがひやひやした。
案の定、しばらくして戻ってきた黒髪の侍女、ユリアがレオナを見た途端わなわなと震え出す。
そして、耐え切れなかったように嘆き始めた。
「レオナ様……土を付けて帰って来るなとは申しません。ですが、以前にも申し上げた通り汚れた服でそのソファに座るのはおやめくださいいいいいいいいいいい」
「あ、すまない」
最後は懇願となった悲鳴に、レオナは頭をかきながら立ち上がる。
が、最早大分手遅れであった。
レオナの持つその無遠慮さは、王族らしいともいえる。
暫くがっくりと項垂れていたユリアは、やがてギラギラと目を光らせた。
「レオナ様。次にそのような泥だらけの格好で部屋を汚されるようなことがありましたら、私はこの職をやめます」
「分かった、もう絶対にしない!すまなかった!」
レオナが必死に謝ると、ユリアは気を取り直したように準備が終わったことを告げる。
「私とお前が一度に洗うのは無理だからな。私は着替えるだけでいいから、お前は拭かれてこい」
「いいのですか?」
私は、自分の体を綺麗にできると思っていなかったので驚く。
ユリアの方を向くと、彼女も頷いていたので遠慮なく甘えさせてもらう事にした。
別室に連れていかれた私は服を脱がされ、お湯をしみこませた布で体を綺麗に拭かれる。
お湯が肌に触れた瞬間、思わずビクッとしてしまった。
こんな温度の水、私は知らない。
覚えていない。
私は、無意識のうちに唇を噛み締めた。
理由は、自分でも分からない。
悔しいのか、悲しいのか、それとも嬉しいのか。
しかし、脂汗と土でぐちゃぐちゃになっていた髪や、垢だらけの肌がみるみるうちに綺麗になって行くのは気持ちがよかった。
盥に溜めた水が、どんどん茶色くなっていく。
少なくとも物心ついてからまともに洗ったことのない私は、相当汚かっただろう。
文句一つ言わずに丁寧に洗ってくれたユリアには感謝しかない。
「……ありがとうございます」
「え?」
ぽつり、とユリアが呟いた言葉に、私は意図が分からず問い返す。
寧ろ、お礼を言うべきは私の方だというのに。
彼女は軽く目を伏せると、静かに語りだした。
「レオナ様は、いつもはあのように破天荒な方ではないのです。
きちんとした場では、必ず礼儀正しい行動をなさっています。……ですから、これほど楽しそうなあの御方を見るのは久しぶりで。言い方は悪いかもしれませんが、子供のようなレオナ様を拝見できて、私は嬉しいのです」
私はその言葉に驚き、目を見張る。
それ以降彼女は黙ってしまったので、詳しい事は聞けなかったが、あの王女にも苦労はあるのだろうと察することが出来た。
「あれ……」
「どうかしましたか?」
沈黙が続いた後、私の首のあたりを拭いていたユリアが思わずといったように呟いく。
振り返ると、曖昧な表情をした彼女が、私の首筋の同じ辺りをずっと拭いているのが目に入った。
「いえ、汚れかと思ったのですが、一部取れなくて……これは、鷹?」
「え?」
何かあったのだろうか。
私からはどうやっても自分の首筋が見られないので、問い返すしかない。
「翼を広げた鷹……のような文様が刻まれています」
「はぁ……」
入れ墨、だろうか。
正直何の覚えもない。
私が首を傾げながらユリアを見詰めると、彼女も困ったような顔になる。
「奴隷に彫られるものではないので御安心を。しかし、何の紋章なんでしょうか」
「分からないです」
本当に知らないので、そう答えるしかない。
とりあえず害があるものでもないので、放っておくことにした。
一応後でレオナには伝えておく必要があるが。
湯浴みから出ると、服を差し出される。
従者用の、簡素だがしっかりしたつくりの物だった。
恐らく、私には想像が出来ない程度には高価な代物なのだろう。
「申し訳ありません。身長に合うお召し物が見当たらなかったので、これを代用しても大丈夫でしょうか?」
「勿論です。本当にありがとうございます」
第一王女の侍女をしているくらいだから、彼女も貴族の出か、もしくは高い技術を持った人間なのだろう。
見るからに貧民街の人間である私に敬語まで使ってくれる彼女に、私の方が申し訳なくなる。
着替えを終えると、先ほどのレオナの私室とは別の部屋に案内される。
どうやら、レオナの執務室らしい。
執務室には既にレオナが居り、温かな食事が用意されていた。
湯気が立っている食事など、それこそ全く覚えがない。
ここまで来ると感覚が麻痺してしまうが、もしかして今日が人生最後の日だろうか。
このような厚待遇だと、かえって疑いたくなってしまう。
貧民の悲しき性であった。
「お、戻ってきたか。随分とすっきりした感じで戻ってきたじゃないか」
「お陰様です」
今私は、腰の辺りくらいまで伸びた髪を縛っている。
日常生活には何かと不便だからだ。
もっとも、生まれてこのかた髪を縛ったことがない私からするとかえって慣れない感じはするのだが。
ちなみに、レオナの食事は白パンにバターと蜂蜜、何やらハーブの効いた卵オムレツ。
貧民街で碌なものを食べていなかった私には、胃に優しい小麦のミルク粥である。
茶髪の侍女、フィデナが教えてくれた。
どちらも、銀の皿に盛りつけられている。
施療院から支給される粥は、木の椀に荒い大麦に古いパンが入っているのが普通だった。
まさか、施療院と王宮でこれほどまでに差があるとは。
「早く座れよ。先に食っちまうぞ?」
レオナに呼ばれ、自分が突っ立っていたことに気が付く。
そういえばだが、レオナの朝食は朝から量も多い。
昨日の夜、食べていないからだろうが、それでも多い。
あの運動量を考えれば納得だが、それを知らない人が見れば目を剥くだろうと思った。
「…………え、ちょっと待ってください。私が同席してよろしいのですか?」
「ん?うん」
当たり前のように言われ、私は戸惑う。
貧民街の子供と同席する王女など古今東西聞いたことがないが、城を抜け出す王女も聞いたことがないので今更なのかもしれない。
いや、もしかしたら私が知らないだけで王族はどの身分の人間とも同じ席で食事をしても良いのかもしれない。
少し躊躇った後、私はレオナの向かいの席に座った。
それを確認したレオナが、意外と上品に食べ始める。
しかし、その食いっぷりたるや、成長期の男性顔負けであった。
私も匙を持つと、ゆっくりと粥を口に運ぶ。
強すぎない塩味に、優しい山羊乳の風味。
この時期には貴重な卵黄を混ぜ込んである粥は、まるで初めて食べるものかのように新鮮な風味で、でも懐かしい味だった。
込み上げてくる感情に、思わず泣きそうになったのを隠す。
体中に粥が行き渡る音が聞こえるようだった。
「さっきの質問に答えないとだな。私があそこに居たのは、この目で貧民街の状態を確認しておきたかったからだ」
レオナが、思い出したように話し出す。
これまた唐突な、と思いつつも、私はなんとなくその言葉に納得していた。
この破天荒な王女ならば、自分で貧民街の様子を見たいと思って行動しても不思議ではない。
「では、何故私に名前を与えてくださったのですか?」
「あー……」
私が再び問うと、レオナは天井を向く。
食事の手を止め、腕を組みながら考え込んでいた彼女はやがて、諦めたように両手をひらひらと振った。
「分からん」
「えー……」
実に正直に返して頂いた答えは、全く参考にならなかったものだった。
「しいて言うなら、なんとなく、になるんだよな。無いと不便だからとしか言いようがない」
「そうですか……」
本当にこの王女は、それだけで私に名前をくれたらしい。
彼女は、『王族から授けられる名前』の重要性を理解しているのだろうか。
王族から与えられる名というのは、貴族からすればこれ以上はない名誉のはずである。
貧民街ですら、王族から家名を与えられた者がいるという噂を聞いたのに。
それをぽんっと貧民街の素性も分からぬ子供に与えてよいものなのだろうか。
これが世に言う、王族の気紛れというやつなのかもしれない。
「なあ、リヴィア。つい連れてきちまったが、もしよければこれからも城に居てくれないか?」
――これまた唐突に切り出されたそれは、命令の形をとっていなかった。
ただの、お願いだった。
正直なところ、私は何言ってるんだこいつ、と思った。
貧民街の子供からしたら、城勤めなど夢のまた夢、幻想空想妄想の世界だ。
こちらから土下座したところで一歩も入れない場所だというのが常識だった。
それなのに彼女は、私を連れて帰ってくれたどころか、これからも居て欲しいと言っているのだ。
訳が分からない、という感想しか出てこない。
私を城に置いておくことで、何か彼女に良い事が起こるとも思えない。
「……何故です?」
「身近に貧民街出身の人間を置くことで知見を深める為。これはかなり大きい。あとは……」
レオナは、今までで一番子供のような表情になると、私をしっかりと見つめてきた。
「……気心の知れた友人が、欲しかったんだ。ずっとな」
王族の料理は温かいことがほとんどだったそうです。
毒は即効性のものが多かったので、毒見役が食べてからそれほど時間を置かずに提供されたらしいですね。
ちなみにレオナが食べている卵オムレツは、
・鶏卵
・牛乳少々とバター、もしくはラード
・塩、胡椒
・ハーブ(パセリ、タイム、セージ、チャイブ等)
で作ることが出来ます。
胡椒は超高級品です。
現代のオムレツとあんまり変わらないですね。ちょっとハーブが凝ってるくらいでしょうか。羊のチーズを入れても美味しいです。




