1. 邂逅
「どけよ!」
「ッ!」
どんっ、という音とともに、背中に強い衝撃が伝わる。
状況を把握できないまま、私は無機質な地面に倒れ込んだ。
ぐふっ、と肺が押されて出た空気が漏れる。
土と石だらけの地面は、冬の冷たさをしっかりと取り込んでいて、叩きつけられた体に鈍い痛みを走らせた。
咄嗟に顔を上げると、逃げていく少年の細い背中が目に入る。
嫌な予感がして後ろを振り向くと、この場所に似合わない青が飛び込んできた。
衛兵だ。
ここは貧民街。
誰もが日々生き延びる事だけを目指すこの場所では、他人はいつでも敵になり得る。
特にどのグループにも所属していない私は、かなり立場が低い。
正直に言って、死人がそこらへんにごろごろいるここでいまだに私が生き残っているのは、ひとえに運が良かったからだろう。
雑草やら虫やら、食べられるものは何でも食べた。
施療院から与えられる簡素なパンと、味の薄いスープだって大切な生命線だ。
それだけでは到底足りないので、盗みだってした。
仕方が無かったとは言わない。
罪は罪である。
しかし、他に方法もなかった。
ばっと身を起こして、衛兵の怒鳴り声を無視して走り出す。
荒く呼吸するたびに、詰まったような感覚が残る肺が痛む。
先ほどの少年は、あの衛兵から何か金目の物を盗んだのだろう。
要するに、罪を擦り付けられたのだ。
盗まれる衛兵もどうかと思うが、貧民街の住民というのは狡猾だ。
実際、私にぶつかってきた少年はもうどこにも見えない。
角を曲がり、走り、また曲がる。
急に進行方向を変えるたびに壁が腕や肩に当たり、地味に痛い。
無我夢中で走り続け、しばらく。
私は足を止めた。
鳴り響いていた怒声は聞こえなくなり、激しい足音もしない。
今回もまた、ぎりぎりで逃げ切ることが出来たのだろう。
念のため身を隠しつつ、息をひそめる。
心臓が緊張で音を鳴らす。
どうか気付かれませんように、と私は薄い服の上から胸を押さえた。
―――私は、捨て子だった。
気が付いた時には、ここにいた。
誰もが明日を勝ち取る為に争う、この戦場に。
当然のことながら、名前はない。
微かな記憶の中に、それらしきものは無かった。
他の子供からは、異端だとか呼ばれている。
まあ、それすらめったにない事ではあるが。
貧民街には、いくつかのグループがある。
基本的に大人は大人、子供は子供で集まっているが、ときどき一匹はぐれた者が居る。
私がそれだった。
理由はいろいろだが、私の場合、外見のせいだろう。
青みがかったくすんだ黒髪に、銀の瞳。
ここら辺では珍しい色だった。
他の子供は、真っ黒な髪と瞳だったり、茶色だったり。
青や赤、金や銀の色を持つのは、大抵貴族だった。
憶測になるが、恐らく私は貴族の子供なのだろう。
どこかの金持ちが娼婦の女に産ませ、正妻との関係が悪化するのを防ぐために捨てられたのだ。
記憶の中にある何処かは娼館で、誰かは娼館の人間。
他の者もそれを分かっているからか、私との触れ合いを可能な限り避けている。
貴族関係の事など、面倒な気配しかしないから当然だろう。
私の他にも、貴族のご落胤っぽい者は居た。
ただまあ、最近は見ないので死んでしまったかもしれない。
この狭くて広い世界では、誰が死んで誰が消えたのか気にされない。
ふと、見なくなったな、と思うだけである。
どんどん増えて、どんどん減るからいちいち気にしていてはキリがないのだ。
完全に衛兵から逃れたことを確認すると、ほっと息をつく。
貧民街の子供が、衛兵に捕まったらどうなるのだろうか。
実際に捕まる奴は何人もいる。
何人も目にしてきた。
でも、彼等のその後は知らない。
以前、親切な男性は言っていた。 知らない方がいいと。
追いかけてきたら、逃げろと。
教えてくれた男性は、一週間後に病で死んだ。
持病だったらしい。
何故彼はこんな場所で死んでいかなければならなかったのか。
そんなことを考える暇もなく、月日は経っていた。
だから、自分の年齢も知らない。
恐らく16、17歳くらいだとは思うのだが。
言葉は、話せる。
どうやら敬語も使えるようなので、一応教育はされていたらしい。
まあ、その後捨てられたわけだが。
しかし、自分を捨てた者が教えてくれた知識で、今まで生き延びてきたというのは実に滑稽だ。
自分を捨てた人間に対して今更何も思わないが、これだけは感謝してもいい。
――なんて考えるとは、我ながら高慢だと思う。
考えるのを一度やめ、私はひどく疲れたようにふらふらと歩き出した。
見渡す限り、そこには力尽きたように横たわる人と、整備されておらず放置されたままの瓦礫。
曇天の空の下で、私は一人。
明日を迎えるために歩き出した。
***
「……ッ」
びくっと身を揺らし、顔を上げる。
限りなく広がる雲のかかった空を見て、今日を生きる権利を手に入れたのだと気が付く。
酷く寒い朝に、私は身震いした。
ぺらぺらの服では、ほとんど風を防げない。
肌に容赦なく当たる冷気に、私は顔を顰めた。
もたれていた壁に残るぬくもりを惜しみつつ、私は立ち上がる。
慣れてしまった腰と首の激痛を無視しつつ、営みが再開し始めた世界を見回した。
貧民街の人間は、いつ何があってもいいように壁にもたれるようにして眠る。
それが習慣、というか常識だった。
だから。
だから、たぶん目の前で倒れている人は死んでいるのだろう。
先ほどから無視しようかどうか悩んでいたのだが、どうにも離れられないでいる。
目の前の人は金の髪を雑にまとめ、うつ伏せの状態で横になっていた。
ひとしきり唸った後、私はゆっくりと近づいていく。
死んだ人間など、何の病気を持っているか分からない。
だから近寄るなどもってのほかである。
それをきちんと理解しているのに、何故かこの人に触れたいと思ってしまった。
自分の行動を自分で不思議に思いつつ、その人の側にしゃがみ込む。
土で薄汚れてしまっているが、それなりに整った顔だ。
すらりと長い手足は、どこか力強さも持っている。
年齢は17くらいだろうか。
少年、に見えるその人の横顔をまじまじと見つめる。
この人も、どこかの貴族の子供なのだろうか。
捨てられて、生き延びて、でも今日を迎えられなかった運のない人なのだろうか。
そっと手を伸ばし、金の髪に触れた。
その瞬間。
ばっと目の前に黄金が広がり、藍色が散った。
「ぅわ!?」
私は思わず声を上げ、尻餅をつく。
でも、仕方がないと思う。
てっきり死んでいると思っていた人が、いきなり身を起こしたのだから。
爛々と光る二つの瞳が、私をしっかりと見つめている。
私は思わず息を呑み、硬直した。
狼を想起させる紺色の目を必死に見返しながら固まっていると、少年が先に口を開く。
「お前、ここの人間か?」
「え……」
一瞬言葉が理解できず返事に詰まると、少年は特に気分を害した様子もなく再び問いかけてきた。
「不快に思ったのなら悪い。あんまこの辺にそういう色の目の奴、いないから」
「……いえ」
また、外見の事か。
私は、自分の中でじわりと広がった黒いインクのような失望に戸惑う。
何度も何度も差別を受けてきた過去が、そうさせているのだろうか。
本当に、嫌いな瞳だ―――
「めっちゃ綺麗だな」
「えっ?」
幼い顔の少年は、年相応に笑った。
とても綺麗な笑顔である。
偽りを感じさせないその笑顔の理由が分からず、私は目を瞬かせた。
「いやだって、銀色だろ?夢あるよな」
「は、はぁ」
何が何だか分からないので、取り敢えず当たり障りのない言葉を返す。
が、思った以上に間の抜けた返しになってしまったかもしれない。
少年は服に着いた土を手で雑に払いながら、立ち上がった。
少年がぶんぶんと犬のように頭を振ると、その度に金の髪が左右に揺れる。
「驚かせて悪いな。腹が減ってたんだ。あ、そういや、名乗ってなかったか?」
にっ、と笑いながら私に手を差し伸べてくる。
私はただ、茫然とそれを見上げた。
少年は地についた私の手を掴むと、引っ張り上げてくれる。
楽し気な瞳には、悪戯っ子の様な光を浮かんでいた。
吊り上がった口角から、不穏な雰囲気を感じる。
逃げるかどうか迷っているうちに、目の前の人は口を開いた。
「私の名前はレオナ。この国の第一王女だ」
―――ああ。
変な人だ。




